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第8章 ジェンス――涼しい手(前編)

 世界樹の梢から夜明け鳥が飛び立ち、薄明かりの中を旋回した。今は雨の少ない季節で、空は今日も晴れ渡っている。

 自分に課せられた朝の仕事をすませたあと、ジェンスはテントの周囲を所在なくうろつきまわっていた。するとユティラのテントからハッチェリが唐突に顔を突き出した。


「さっきからどうしたんだ」

「チェリ、おやじを知らない?」

「トラクスなら団長と話しているのを見たぜ」

「ふたりともいないようだ」


 ハッチェリはテントから這い出してくるとわざとらしくのびをした。公言こそしないがユティラとハッチェリがつきあっているのはエオリンの中では知れ渡っている。だがハッチェリはジェンスの前ではいつも何もないふりをしたがる。ジェンスを子供扱いしたいのかもしれない。


「それなら街で依頼人と会ってるのかもしれん。トラクスになんの用事が?」

「用事じゃない。ちょっと街へ……丘へ行ってきたい」

「丘?」

 ハッチェリは顔をしかめた。


「ジェンスおまえ、〈根〉の神殿に帰依しようってんじゃないだろうな」

「そうじゃない」

「じゃあなんだ? 神殿の誰かさんに一目惚れでもしたのか? そういえばおまえ、おととい丘に行ったときの話を俺にしなかっただろう? さては」

「チェリ、口うるさいおばさんみたいなこといわないの」

 今度はユティラがテントから顔を突き出した。


「ジェンスにうんざりされるわよ」

「おばさん? それをいうならおじさんだろ」

「細かいことを気にしないで。もののたとえよ」

 ハッチェリを黙らせたユティラはジェンスに目を向ける。

「急ぎの用がないなら行ってきたら? トラクスかクエンスをみかけたら話しておくから」

「ありがとう」


 ジェンスはふたりにうなずくと急ぎ足でその場を離れた。丘へ行きたかったのは、ユーリに会えるかもしれないというのもあるし、一度は大神殿を見てみたいからというのもある。


 それにしても、養父のトラクスがどこに行ったのかは気になった。一昨日の夜からどうも様子がおかしい気がするのである。ほんの三日前まではいつもにもまして無口だと感じていたのが、一昨日の夜からは急に、寝る前にジェンスに小言をいうようになった。


 小言といっても、どれもたいして問題にすることでもない。ジェンスには父親が話のきっかけを探しているだけのように思えたが、肝心なことは何ひとつ話さないのである。


 二日前ここで気になったことといえば、例の高価な馬具をつけた訪問者だ。仕事の依頼かと思ったのに、クエンスは何の発表をするそぶりも見せない。

 もしここを離れて別の土地へ行くのなら、その前にもっとユーリと話がしたかった。ジェンスは急ぎ足でライオネラの門へ向かった。





 祈りの時間のちょうど狭間に当たったせいか、丘へ続く参道は一昨日よりずっと空いていた。今日も参道の入口では神殿の人間が白い杖を配っていたが、ジェンスは受け取らずに坂道を上り、崖をつなぐ橋を渡った。

 ようやく目にした大神殿はジェンスの想像をはるかに超えたものだった。


 ただの神殿ならこれまで滞在した土地で何度も見ていたし、場所によってはかなり立派なものもあったから、ジェンスは実際に目にするまで同じようなものにちがいないと思いこんでいた。ところが大神殿はまったく次元のちがう壮麗さである。建物の大きさはもちろんのこと、壁面や扉には世界樹を模した彫刻がびっしりほどこされている。


 ジェンスは入口にたむろする行商人の話に耳を傾け、ファサードの輝きが本物の黄金や白金によるものだと知った。どうやら、入口さえ塞がなければ大神殿の前で商売をしてもとがめられることはないらしい。客の少ないこの時間、商売人たちは仲間うちのおしゃべりに精を出しているのだった。


「世界樹の影に入ったときも金銀のきらめきは消えないってね」

「そう、帝都の神殿だってかなりの賑わいだが、やはり巡礼の数は聖地がいちばんだ。なんといっても世界樹が見守ってくださる」

「しかしひと昔かふた昔まえの大神殿はかなりみすぼらしかったと聞いたぞ。こんなふうになったのは今の大神官になってからだと」

「むろんそれは大神官ギラファティ様のお手柄だ。ふたたび神子が降臨されるときに備え、大神殿をよみがえらせたのだ」

「おまえさん、ずいぶんと大神官殿にいれこんでるな」

「当然。神子を迎える用意さえあれば、この地は滅びからもっとも遠くなる」

「シッ、滅びなんて口に出すな。ツキが落ちるぞ」


 世界樹を救った神子の伝説ならジェンスも知っている。ただ、ジェンスは七枝神に帰依する退魔師のアルコンにもこの話を聞いていたから、行商人とは異なる見方も知っていた。


 アルコンは〈根〉の神殿とおなじように神子にも批判的だ。たしかに神子は枯れはじめた世界樹を救い、大神殿の礎となったかもしれない。しかし七枝神の信者にいわせれば、神子が現れなくても闇の亀裂はやがて閉じ、世界樹はよみがえったのだ。なぜなら闇もこの世の一部をなし、光と闇は循環するのだから。


 だから闇を無理やり塞いだ神子の技によって、世界樹には歪みが生まれたのだと、七枝神を信じる者は語るのである。七枝神への信仰がおろそかになったのはその証であり、世界樹は神子によって生まれた歪みをいつか正す、と彼らはいう。


 もっともジェンスにとっては、どちらの言い分もそれぞれの物語にすぎず、どちらをより信じるというわけでもなかった。


 退魔師も神官も闇から生まれる魔を退けるし、人間に必要なのは結局これだけだ。〈根〉の神殿の勢力が強い現在は、七枝神に帰依する退魔師よりも神殿の方が力があるように思える。だが本当にそうなのかは、誰にもわからないのでは?


 と内心では思っていても、壮麗な神殿の中にいざ一歩足を踏み入れると、そのおごそかな雰囲気にジェンスはたちまち圧倒されてしまった。


 神官たちは純白の長衣の裾をひるがえし、すべるように石の床を歩いていく。彼らは服装以外にも、あきらかに他の人々とは異なる気配を発している。


 裾や袖口を緑色でふちどった白い胴着姿が目の前を横切ったが、ユーリよりずっと小柄な少年だった。背中は真っ白で、ユーリの服の緑十字はない。


「テラスの前列で祈りたければ今のうちに並びなさい」


 穏やかな声にふりむくと、神官のひとりが巡礼を石のテラスへ導いている。祈りの刻が近くなると混雑するからだろう。


 ジェンスは祈りに加わるつもりはなかった。かわりに立ち入りが許されている広間をくまなく見て回ることにして、天井から足元までじっくり観察しながら歩いた。




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