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第8章 ジェンス――涼しい手(後編)

 灰色の防具に身を固めた兵士がふたり、足と腕をそろえて石のテラスへ行進していく。ジェンスは興味深くその様子を見守り、続いてそのあとにやってきた男に目をとめた。彼も兵士だがあきらかに階級が上で、周囲からきわだつ純白の防具に身をかため、さっきの兵士とちがう普通の歩調で堂々と広間を横切っていく。短いマントには金糸で翼が縫い取られている。


(雪の中で戦うのならともかく、ふつうの兵士は白は着ない)


 何の折りだったか、ハッチェリに聞いた言葉が頭に浮かんだ。


(白は目立つことこの上ない。戦いの現場じゃ、目立ったところでいいことは何もねぇからな。だが、自分が周りにじゅうぶん恐れられているとわかっていて、その評判で威嚇したいときは別だ。だから偉いやつは儀式のとき、兵隊に白を着せたがる)


 神殿の兵士にも歩兵と士官がいるのだろうか。


 ジェンスは視線をあげ、壁の高いところに描かれた神子降臨の壁画を眺めた。神子は黒髪の小柄な少年だ。黄金の輝きを背負い、世界樹の前にたたずんでいる。神子の前に膝をついている男が〈根〉の神殿の創設者、最初の大神官である。


 黒髪の神子をもっとよく見ようと目をこらしたとき、視界の隅を金の髪がかすめた。ハッとしてそっちをみたとき、青い目と目があった。広間の相手もハッとしたようにこっちを見返す。


 ユーリ!


 ユーリは一昨日と同じ、緑のふちどりがある侍者の服装だった。ジェンスは反射的に手をふろうと片手を上げかけたが、紫の目の神官がユーリの横から鋭い視線を自分に向けていることに気づいた。

 ジェンスは中途半端に上げた手の行き場に迷った。そっと下ろしかけたら、ユーリが神官に何か話しかけている。


 神官は石のような無表情のまま、またジェンスの方を見た。紫の眸の奥にどんな感情が隠されているのか、ジェンスにはまったく読めなかった。ただ棒のように突っ立っている自分をひどく間抜けに感じた。

 とそのとき、ユーリがこっちへ小走りでやってきた。


「いいところに来たな、ジェンス!」


 ジェンスは思わずまばたきした。ユーリの青い眸はこの前会ったときよりも深く濃く、しかもきらきら輝いているように思えたのだ。


「そうなのか? それならよかった、が……」


 なんとか答えたものの、ジェンスはこちらを見ている神官の紫の目を意識せずにはいられなかった。

「ここにいて大丈夫なのか」

「ああ、フィシスならかまわない。魔物の件でおまえのことは知ってるし、樹領の中を見せていいって。来いよ」

「あ、ああ?」


 あの神官の冷たいまなざしからはちょっと思いつかない返事だ。しかしユーリはジェンスの肘をつかみ、どこかへ案内しようとしている。声には弾むような響きがある。


「昨日俺、すごいことがあってさ。そのせいか知らないけど、なんかフィシスの機嫌がいいんだ。で、おまえにもあっち側を見せたいってフィシスにいったら、いいって! ただ俺が昨日行ったところには連れていけないんだけど」

「あっち側?」

「世界樹の幹の反対側」


 紫の目の神官が凝視しているのを感じてジェンスは居心地悪かったが、ユーリはふりむきもしなかった。ジェンスの肘をつかんだまま石のテラスの方へ向かったので、ジェンスもそのままついていくことになった。


 まだ祈りの刻まで間があるせいか、石のテラスはそこまで混雑していない。だがユーリは巡礼たちの背後をすりぬけて、もっと遠くにある別のテラスへ向かった。

「おい、そこの――」

 兵士が声をあげたが、ユーリの背中を見たとたん黙った。緑十字のしるしに何か意味があるのだろう。近くに行くまで見えなかったが、誰もいないテラスの先には左右を壁に挟まれた細い通路があった。


 ジェンスはユーリのあとについて歩きながら、ヘルレアサの丘の北側は断崖のような南側の地形とまったく異なることを悟った。つづら折りに曲がった通路を歩くうちに左右の壁はだんだん低くなり、周囲の風景――白く塗られた家々や整然とならぶ緑の果樹があらわれる。


 そしてその先に、世界樹があった。


 ジェンスはこれまでもこの大樹を見ていたはずだ。傭兵団エオリンがライオネラの門前に陣取ったその時も、世界樹はジェンスを見下ろしていた。ライオネラの住民にとって世界樹は時計がわり、日常の一部だ。

 だが今ジェンスの目にうつる世界樹は、世界の一部というよりも世界そのものであるかのように、重々しい謎を抱えてそそり立っている。


「すごいだろ?」


 ユーリに肩を叩かれるまで、ジェンスは自分が立ち止まっていることに気づかなかった。それどころかぽかんと口を開けていたのだ。

 ユーリは青い目をきらきらさせながら、またジェンスの肩を叩いた。


「実は俺、ここに来たばかりのときは驚く余裕もなくてさ……いや、べつに何も見てなかったわけじゃないけど、今はもっときれいっていうか、すごいものに見えるんだ」

「そうだな。本当に……すごい」


 ボソッとつぶやいたジェンスがおかしくてたまらないように、ユーリは陽気な笑い声をあげた。ただ楽しくてしかたがないという響きだったが、その目はやはり尋常でない輝きをはなっている。


 妙に不安な気分になってジェンスはすばやくユーリの正面にまわり、その手をつかんだ。ユーリはびくっと肩を揺らしたものの、すぐまた声をあげて笑った。


「ジェンス、おまえの手……冷たいな。涼しくて気持ちがいい」

「待てユーリ、大丈夫か?」


 ユーリはきょとんとした顔でジェンスを見返す。

「なんのことだ?」

「なんのことって……」

 考えるよりも先に体が動いた。ジェンスはユーリの肩をひきよせ、そのひたいに手をあてた。


「こんなに熱いじゃないか!」

「熱い? 俺はべつに……」


 とたんにユーリの声が小さくなり、肩がふらりと前後に揺れた。ジェンスはあわててユーリの背中を支えたが、本人はわけがわからないという顔をしている。


「変だな、俺は昨日からとても……気分がよくて……」

「ユーリ、だめだ。横になって休まないと」

「なんで? せっかくおまえが来たのに、もったいない……」


 不満そうな声がとぎれとぎれになり、膝がかくんと揺れる。ふわっと倒れかけた体をジェンスはとっさに抱き上げた。


「へんだな、おれ、きゅうにぐあいが――」


 自分より一回り小柄だとわかっていたが、ユーリは意外なほど軽かった。ジェンスは焦って周囲をみまわした。どうすればいい? 神殿に連れて行って、あの神官を探すしかないのか。


 冷たい紫の目を思い浮かべたとたん気おくれしたが、ユーリの体はひどく熱かった。ジェンスはユーリを抱き上げたまま、急いで来た道を戻りはじめた。




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