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第9章 ユーリ――放浪する魂(前編)

 俺はついてない。せっかくジェンスがここまで来たのに、いったい何をやってるんだ?

 目を開けたとき俺が最初に思ったのはこれだった。ベッドの横にはフィシスが座っていたが、ジェンスはいなかった。


「……ジェ、ジェンスは?」

 フィシスは答えずに俺をじろりとねめつけた。紫の目には厳しい表情が浮かんでいて、目尻がぴくりとはねあがる。

「ユーリ、なぜもっと早くいわない」

「……何を?」


 聞き返したのがよくなかったのだろうか。フィシスの視線がさらにきつくなる。

「倒れるまで歩きまわるとは何事だといっている。具合が悪いならわたしに教えなさい」

 フィシスが何に怒っているのか俺にはわからなかった。

「自分じゃ気づいてなくて……寸前まですごく気分がよかったんだ」

「だからといって、樹領の内側で外の者に助けられるとは! それもあんな子供に」

 あんな子供? 俺はムカッとして跳ねおきた。


「ジェンスを悪くいうな! ジェンスは俺の……友だちなんだぞ」

 とたんにフィシスの目や頬から表情がすうっと消えた。たった今まであらわにされていた怒りがいつもの無表情にとってかわる。

「おまえはいつ、自分が救った人間と友人になったのだ」


 声の調子も平坦になって、俺は正直とまどったが、しぶしぶ答えた。

「あんたが昼寝してるあいだに、街で一度会った」

「偶然に?」

「あたりまえだろ! 俺だって驚いたよ! ライオネラにはこんなにたくさん人がいるんだから……」

「それもそうだな」

「それでジェンスは?」

 フィシスはうんざりしたような目で俺をみた。


「今が何刻だと思ってる。わたしはおまえのせいで午睡がとれなかったというのに……彼ならとっくに祝福を与えて返した。またここに来ることがあって、わたしがおまえを暇にさせていたら、樹領を案内すればいい」


 俺はため息をつき、自分の膝をみおろした。きのう樹洞の泉で沐浴してからというもの、フィシスはやけに上機嫌だった。だからジェンスを広間でみつけたとき、ダメもとで頼んでみたら意外にも許されたのだ。

 でも、こんなこと二度とないかもしれない。だって俺は早いところ、どうにかして路銀をつくって、ライオネラを離れるんだから。


「……沐浴にこんな効果があったのは予想外だった」


 突然フィシスがいって、俺は顔をあげた。


「欠翼となってから、わたしは多くの修習生を受け入れてきた。しかしおまえはやはり独特だ」

 俺はフィシスを見返した。どうしてこの神官は俺の気が変わると信じているのか、不思議に思いながら。

「そりゃ……俺はあの子供たちとはちがう。それに神官になる気は――」

 フィシスは俺の話を聞いちゃいなかった。


「そう、おまえは他の子供たちとはちがう。だから。我々の祈りも通さず、直接……ギラファティがこれを知ったらどう思うか」

「ギラファティ?」

「大神官殿だ。明後日には帝都の神殿から戻られる。いや、彼のことはどうでもいい。ライオネラに来るまで何があったか話しなさい。おまえは魔物に喰われかけたといったが、いったいどこで出くわしたのだ?」

 俺はもう一度ため息をついた。

「村の境界に……大きな魔物が出たんだ」





 それは俺がもうすぐ十六歳になるころだった。


 魔物は世界にひらいた闇の亀裂から生まれる。その場にいる生き物を喰い、喰うものがなくなれば移動してさらに喰う。

 ごく小さなうちは、蹄鉄で踏みつぶしたり、金属――鍬やナイフでぶった切ってバラバラにするといったんは消滅する。でも、それだけの処置ではやがて再生し、また生き物を襲いはじめる。大きくなった魔物はもう、村人だけで対処できるものではなくなる。剣をもつ兵士と、神官もしくは退魔師を呼んで、完全に退けなくてはならない。


「おまえの故郷には退魔師が定住しているのか?」

 フィシスが意外そうにいったので、俺は首を振った。

「いや。退魔師がどこから来るのかは誰も知らない。たぶん山の民のあいだで暮らしているんだ。昔はひんぱんにあらわれたというけど、今はそうでもない。村長はいちばん近い町にある〈根〉の神殿から年に一度神官を呼んで、祝福を授けてもらっていた」


 祝福は寄進とひきかえだが、魔物退治のために神官を呼びよせ、さらに兵士の世話までするとなると、それなりに費用がかさむ。これをどう工面するか、村長が長老たちと話しあっているとき、ある退魔師が村を訪れた。村はずれの森の水源を自由に使わせてくれるなら、退治してやるというのだ。


 その水源は俺の父親が村に住みついたとき掘った井戸で、その退魔師の髪はたまたま、俺や父親とおなじ薄い色だった。もしかしたらそれが原因だったのか、村長は「神殿に助けてもらう」といって退魔師を追い返した。


「それからまもなく、村に……俺が魔物を呼んだという噂が立った」

 そう話を続けると、案の定フィシスは目をみはった。

「どういうことだ」

「……誰かがそういいはじめたんだ。俺の父親には魔物を操る力があって、よからぬことを企んでいたとか、俺にもその力が備わっているとか。退魔師の髪が俺とおなじ色だったせいかもしれない」

「……それで?」

「そんなやつは魔物に喰わせてしまえということになった。町の神殿から神官が来るまでのあいだ、時間稼ぎに」


 実のところ、噂を流したのが誰か俺にはわかっている。村長だ。なぜそんなことをした理由も見当がついていた。

 というのも、村長は魔物が出ることをその前に知っていたからだ。知らせたのは山の狩人だった。


「境界の外で黒い厄介ものをつぶした。簡単だったが、いまのうちに退魔師を呼べ」


 俺がこのことを知っているのは、狩人がたずねてきたとき、その場にいたからだ。


 村長の家で俺はできるだけ目立たないようにしていたが、ときおり失敗して村長やその息子の目にとまると、難癖をつけられたあげくふたりがかりで折檻されたり、夜まで嫌な目にあったりと、ろくなことがなかった。


 どうして彼らにそんなに憎まれていたのか、俺にはよくわからなかった。俺の母親は村長の一族の娘だったのに、村人ではなくよそ者の父親を選んだせいか。俺の髪と目の色が父親に似ていたせいか。その全部?

 とにかく、狩人がやって来たのは俺がいいようにされていた、その最中だった。


 ひょっとして、他のときにこの知らせを聞いていたら、村長はすぐに狩人のいった通りにしたか、町の神殿に使いをやったかもしれない。

 だが村長は何もしなかった。狩人に俺を痛めつけているところを見られたのが嫌だったのかもしれないし、狩人のような山の民を――俺の父親とおなじよそ者として――信用していなかったのかもしれない。村人なら緊急事態でも、こんなふうにずかずか踏みこんでくることもなかっただろうし。


 おそらく村長はそのあと、狩人の警告を忘れてしまったのだろう。大きな魔物があらわれてから思い出したのだ。狩人が来たとき、俺がそこにいたことも。


 フィシスはまばたきもせずに俺の話を聞いている。

「口封じか。愚かなことを……そして?」

「わからない。俺は縛られて、村の境界に押し出された。魔物は俺に向かってきて、消えた……らしい」

「南門の外でおまえがやったように?」


 おまえがやった、か。俺にそれがわかるのなら、今ごろここにはいなかったかもしれないのに。


「その場を見た人間はいないんだ」

 俺はちょっと考えてからいった。

「っていうか、俺はとっくに喰われたと思われていて、村人は境界に近寄ろうとしなかった。俺をみつけたのは村長が町から呼びよせた神官だった。境界に魔物はおらず、闇の亀裂もないからと、神官は俺を村に連れ帰った」

「その者はなんと?」

「俺に魔物を呼ぶなんてできないし、魔物にとりつかれたりもしていない。俺は単に病気なのだといった。それはその通りで、神官がみつけたときには、俺は起き上がることができなかったんだ。大勢の前で神官がそういったのと、俺は一応村長の一族の血縁だから、彼らは俺を追い出すわけにいかなくなった。でも寝こんでいるあいだ、俺は不思議な言葉を話したり、おかしな印を書こうとしたらしい。そして気がついたら……」


 俺は言葉に迷って黙りこんだ。

 どう話せばいい? ようやく起き上がれるようになったとき、頭の中が妙な記憶の断片でいっぱいになっていたことを? 俺が知るはずのない景色、変わった服を着た男や女の顔、騒がしい音でいっぱいの街。


「気がついたら?」

 フィシスが先をうながした。

「……俺は前みたいに村長の家で働けなくなっていた。みんな俺のことを怖がっていたから。人が変わったというやつもいたけど、それは俺にのろまのふりができなくなっていたからだ。そんなときにまた神殿から誰かがやってきて、村長がそいつに話をつけた。魔物に襲われておかしくなってるから、神殿で治してくれって。あとは好きにしていいと」


 これで全部、もう話すことはない。




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