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第9章 ユーリ――放浪する魂(後編)

 村を出たのは俺にとって悪いことではなかった。ずっと前から、どうにかして村を出ていこうと考えていたし、貯めた貨幣を持ち出すこともできた。


 フィシスは目を半眼にして黙りこんでいた。話がつまらなくて眠ってしまったのかと思いそうになったとき、紫の目がぱっと開いた。


「……いろいろと思うことはあるが……結果としておまえはわたしのもとにいるのだから、それはいい。しかしおまえはあの朝行方をくらませるつもりだったな? ジェンスが魔物に襲われなければ」


 その通り。そしてあの朝は簡単にやれたことが今はできなくなっている。フィシスの横にいる俺はすっかり他の連中に覚えられてしまった。

 ここ数日俺が考えているのはこういうことだ。緑十字の入った侍者の服は目立つから、この格好のまま旅立つわけにはいかない。必要なのは路銀だけじゃない。代わりの服も手に入れなくてはならない。


 頭の中でせかせかと思いをめぐらせていると、フィシスが小さくため息をついた。

「まったく、いつになればおまえは納得するんだ? 逃げ出すことばかり考えて」


 思いがけず俺は赤くなった。頭の中を見通されているのが癪で、いい返す言葉を考える。

「だけど俺は逆に不思議なんだ。どうしてあんたは俺を納得させようとする? 誓いなんてただの言葉だし、力づくならなんだってさせられる」


 村長の家での暮らしを思い浮かべながらそういったら、フィシスの顔には怒っているわけでも悲しんでいるわけでもない、奇妙な表情が浮かんだ。

「それでは意味がないのだ、ユーリ。こうは考えられないか。ここがおまえの属する場所だから、おまえはここにたどりついたのだと。故郷でおまえは幸せではなかったのだろうし」


 俺はちょっと考えてみた。魔物があらわれなかったら自分がどうしていたか、村を出ることに成功していたか。

「……でも」

 フィシスはまたため息をついた。


「……でも、か。ユーリ、おまえが他の異能者より覚醒が遅かったのは、両親の死や村の生活など、おまえの生い立ちのせいかもしれない。魔物をきっかけにおまえは覚醒したが、秘めた異能がなければとっくに死んでいた可能性もある。それにおまえの話を聞いて、もうひとつ気になることがある。昨日、樹洞の泉に行く途中で魂の話をしただろう」

「う、うん。覚えているよ」

「異能者とは異界からきた魂のかけらを宿して生まれた者。さっきおまえが話した、覚醒直後のおまえが発した言葉や文字だが、それはおまえに転生した魂の記憶かもしれない。今もそれを思い出せるか?」

「まさか」


 俺はすかさずそう答えたが、心臓は急にどきどき鳴りはじめた。

「そんなことできるわけない」

 俺の中にあるのは情景の記憶だけだ。言葉や文字だって?

 フィシスは重々しくうなずいた。


「それならいい。この話はけっして他の者にするな。わたし以外の誰にも、他の神官にも。たとえ大神官であってもだ。わかったな?」

 なんだか妙な感じがした。うなずくかわりに俺は聞き返していた。

「なぜ?」


 ひょっとするとフィシスが大神官を持ち出さなかったら、素直にわかったといったかもしれなかった。フィシスの顔に一瞬しまったとでもいいたげな表情がうかんで、さっと消えた。


「異界の魂を宿しているといっても、多くの異能者が自覚できるのは魂の痕跡までだ。魂の記憶を思い出せる者はめったに出ない。だが大神官ギラファティ殿は長いあいだ、完全な魂を宿した異能者、神子を探し求めている。あの方は神子探しのために必要だと思ったものは必ず目の届くところに置いていたがる。だから黙っていなさい」


 これは忠告なのか、それともフィシスは大神官に含むところでもあるのだろうか。俺は不思議に思ったが、黙ってうなずくだけにした。





 その夜おそく、フィシスはひどくうなされていた。

 こんなことは初めてだった。少なくとも夜中に俺が目を覚ましてしまうようなことは。

 俺のせいで午睡がとれなかったといったから、それも関係あるのだろうか。隣のベッドでフィシスは横になったまま荒い息をつき、叫ぶように唇をゆがめていた。


 俺はベッドに起き上がってハラハラしながら彼を見守っていたが、眠っている人の体は自在に動かないものだ。はっきりした言葉は聞き取れないまま、フィシスは半刻ほど苦しみ続け、それからやっと静かになった。俺はそっとベッドを下り、フィシスの乱れた毛布を直しながら、彼のいう「異界の魂」のことを思った。


 異界の魂が転生して俺になった――では俺がいつのころからか、自分のいるべき場所がどこか他にある気がしていたのはこのせいか? どことも知れない場所に帰りたいと思うのも? 俺はこの世界のどこへ行っても、いるべき場所をみつけられないのだろうか?


 考えていると怖くなった。フィシスもひょっとして似たような夢をみていたのだろうか? 俺は自分のベッドに横になり、じっと耳をすませた。フィシスのかすかな呼吸を聞いているうちに、やっと眠ることができた。




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