静かな部屋でペンを動かしていると、ふと、こんなことになるなんて思ってもいなかった、と考えるときがある。俺は帝都サウロへ行って、下働きでもやって元手をつくり、商売をはじめるとか、そんな未来を思い描いていたんだ。それがこうして紙とペンと格闘することになるなんて。
でもこうして書いていると、俺の字はとんでもなく下手くそだった。白墨で書かれたフィシスの文字は整っていて読みやすいのに、どうしてこうなってしまうんだろう。これじゃジェンスに手紙も書けない。
ジェンスはもうラコダスへ発ったのだろうか。フィシスにたずねたら、ヴィプテ家の後継者問題は解決した、彼のことは心配ないとそっけなく返された。
神官になると決めたのは、異能をまともに使えるようになりたかったからだ。でもその前に、あとで思い出しても恥ずかしくならないような手紙をジェンスに書きたい。
とはいえ、こんなことがずっと続くのだと思うと気が重かった。〈型〉の練習の方が楽しかったし、俺はあの色――〈綾〉を実際に扱ってみたかった。あれが見えるようになって、俺はやっと神官の「祈り」が何をしているか理解できたし、色の重なり方や〈型〉との組み合わせには規則があるように思えた。
最初の講義のあとでフィシスにそういったら、彼はほんのすこし妙な顔をしてから「それは『
「構理の書?」
「〈綾〉を精緻に整える方法が書かれた書物だ。神子が遺したといわれているが、非常に難解で、取り組むのはもっと先だ。今のおまえの段階では、心を静めて〈綾〉とむきあう経験を積まなくては」
フィシスがいうのならそうにちがいない。でも俺は妙に納得がいかなかった。
天井近くにある小さな窓から光と風が差しこんでくる。ペンが机に影を落とすのをみながら、俺はまたフィシスの話を思い起こした。
「樹領は世界樹のふところに抱かれているようなものだから、その恵みは壁にさえぎられていても、いたるところにある」
それなら今ここで〈型〉を作って祈れば、〈綾〉を見ることができるのでは??
俺はペンを置いて手のひらをあわせ、指を組もうとした。〈型〉は順序が肝心で、親指から小指までまちがえずに動かさなくてはいけないのだが、俺はまだ確実に覚えていなくて――
その時パタンと扉が開き、俺は椅子から転がり落ちそうになった。
「ユーリ、書き取りは?」
「は、はい! ちゃんとやってます!」
「見せなさい」
おそるおそる書き取りした紙を差し出すと、フィシスは顔をしかめながらじっくり眺めている。
「最初にくらべればましになった。このまま続けなさい。わたしは会議へ行く。正午の祈りにわたしがいなかったら、午後は書庫で他の修習生と共に指導官の指示に従いなさい」
「……はい」
「明日は神殿兵の入団式だ。講義も書き取り練習もする時間はないだろうから、今日のうちにしっかりやることだ」
入団式? 新しい兵士が加わるのか。フィシスは紙を返してきたが、俺は自分の下手くそな字から目をそらした。フィシスの口もとがかすかにあがり、一瞬だけ、まるで微笑んでいるように見えた。
「神殿兵の入団式って……どんな儀式ですか?」
答えはいつものようにそっけなかった。
「心配はいらない。おまえはわたしの後についてくればいい」
ひょっとしたらあのとき、フィシスは俺の反応を面白がっていたのかもしれない。ずっとあとになって俺はそう思うようになった。俺はフィシスからたくさんのことを学んだけれど、無表情や真面目一辺倒の見せかけの下に心を隠す方法は、最後まで習得できなかった。
それにしても、ジェンスがヘルレアサの丘にいるのを百も承知していたくせに、露ほどもそんな気配を感じさせず、入団式当日にびっくりさせるなんて、人が悪いにもほどがある。
そう、入団式当日――
俺はその朝寮に届いた侍者の正装を着て(背が伸びているから新調させたというフィシスの伝言がついていた)しゃちこばって回廊のすみに立っていた。フィシスをはじめとした高位の神官は、神殿兵が石のテラスへ入場したあとに出ていくことになっていた。神官が出そろったあとで大神官ギラファティがやってきて、新たに加わった神殿兵に祝福を与えるのだという。
神殿兵は兵士として〈根〉の神殿に志願し、特別に選抜された者たちだ。異能があらわれるのは男だけだから神官も男しかいないが、神殿兵は年齢も経歴もいろいろで、男も女もいる。彼らは隊列を組み、参道から大神殿へザッ、ザッと一糸乱れず足をそろえて行進していて、回廊で待っている俺にもその足音や、見物の巡礼があげる歓声が届いた。
大神官が祝福を与えるのも、大勢の巡礼が見物に来るのも、宣誓の儀式とはずいぶんちがう。
回廊で待っているあいだ、俺はのんきにそんなことを思っていた。行列の先頭は白い甲冑を着た兵士で、そのあとに続く兵士数人は首に若葉色を巻いているのが、すこし離れたところからでも見えた。宣誓の儀式と同様に、世界樹の葉で染めた布を身につけているのだ。
みるみるうちに行列は近づいて、白い甲冑が俺の前を通りすぎる。ついで若葉色を首に巻いた兵士の列が――
――え?
俺は自分の見たものが信じられなくて、まばたきした。
「ジェ……ジェンス?」
思わず声に出したとき、フィシスが「しっ」といった。俺はぎゅっと口を閉じて、フィシスのあとについて石のテラスへ出た。
ジェンスは最前列にいた。大神官ギラファティの祝福を受けるために。でも、俺は入団式なんてとっくにどうでもよくなって、早く終われと心の中で念じていた。大神官の祝福のあと、フィシスをはじめとした高位の神官たちが祈りを捧げているあいだも、俺はじりじりしながら待っていて、〈綾〉を見るのもすっかり忘れていた。
やっと儀式が終わり、神官の一団が退場する。石のテラスを出た俺は、他の神官がいなくなったとたんにフィシスに食ってかかろうとした。
「フィ――じゃない、師よ、いったいどういうことですか――」
フィシスはそらとぼけた顔で俺をみて、指をくいっと動かした。
「ジェンスと話さなくていいのか」
振り返ると首に巻いた若葉色がみえた。俺は不意打ちにめんくらって、間の抜けたことをいってしまった。
「なんでここに……おまえ、ラコダスへ行ったんじゃ?」
日焼けした浅黒い肌の中で眸が明るく輝いた。口元がふわっとゆるんで、いつか見たのと同じ、いい笑顔がうかぶ。
「俺は選んだんだ、ユーリ」とジェンスはいった。
なんだって?
胸の奥がぎゅっとちぢんだ。俺はジェンスがそこにいるのが嬉しかった。夜、寮の部屋でひとりで寝ているとき、手紙に何を書こうかずっと考えていたのだ。もう顔を見ることもないと思っていた。いや、会えることがあるとしたって数年後になると思っていた。
嬉しくて嬉しくてたまらないのに、胸の奥の方が苦しいのは、どういうわけなんだ?
「なんでだよ? おまえはラコダスの……どこかの貴族の子なんだろう? まさか、魔物のせいで頭がおかしくなったのか?」
問いつめているあいだもジェンスの微笑みは消えない。俺は腹が立ってきた。俺は不安だったのだ。ジェンスはどうしてこんな馬鹿なことを?
「おい、何を笑ってるんだ。俺のせいで――」
「ちがう」
ジェンスはまっすぐ俺を見ていた。
「おまえと一緒にいたかったんだ。ユーリ、おまえと双翼になりたい」
(第1部「双翼」完。第2部「虹の神子」へ続く。)