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第8章 七枝の神々(後編)

 翌朝、あたりは真っ白の靄に包まれていた。

 道は上りだ。足もとはややぬかるんでいるが、モルフォドの馬はたしかな足取りで進んでいく。


 道幅が狭くなってきたので、俺たちは一列になってゆっくり進んだ。日が上ると靄が薄くなり、崖下にちらりと墨を流したような湖面が見えた。そこからまたすこし進むとややひらけたところに出た。前を行くジェンスが片手をあげて合図をよこし、俺はその隣へ追いついた。


「ユーリ、道が分かれている」

 俺たちが進んできたのは崖ぞいの道だが、左手に巨岩を切り通した細い道がのびている。ずっと先に白い光がぽつんと見えた。

「どっちだろう」

「どちらも通じている可能性はある」

「それもそうだが……」


 俺は馬を下りた。地面に足をつけたとたん、ぞわっといやな感じがした。俺はポケットに手をつっこみ、小枝を取り出した。それを見たジェンスも馬を下り、鞍の前に座っていたタリンを抱き下ろした。


 これまで何度も遭遇した状況だから、俺もジェンスも黙ったままだ。タリンは神妙な顔で馬の横に立っている。俺は二歩ほど下がり、しゃがんで小枝を地面に突き立てた。人差し指くらいの長さしかなくても、この程度なら足りる。


 ぬかるんだ地面に手をつくと、いやな感じがますます強くなってきた。俺は小声で祈りをつぶやきながら〈型〉を組んだ。小枝の先端からみずみずしい緑の芽が伸び、そこから守りの〈綾〉が広がって、タリンと馬をつつみこむ。

「タリン」

 黒髪の少年はハッとした顔をして寄ってきた。

「馬を見ていてくれ。ここから離れるなよ」


 立ち上がってジェンスの方へ行く。一見いつもと変わらないが、いつでも戦える様子なのはわかる。だてに何年もつきあってるわけじゃない。

「どっちにする」

「切り通しは狭すぎる。まずは元の道を試そう」

 ジェンスはうなずいて崖沿いの道を向いた。そのときだった。


 ぽとり。


 ぬるりとした黒いしずくが俺とジェンスのあいだに落ちた。ひとつ、またひとつ、またひとつ。靄の中からしみだして、空中でつながり、牙をもつ森の獣のかたちになった。

「ジェ――」


 俺は声をあげかけたが、ジェンスはそれより早かった。剣の刃がひらめいて、飛びかかろうとした魔物の前肢を叩き切る。その時には俺も両手を高くのばしている。


〈なんじ影より来たりしもの闇より這い出づるもの……〉


 俺の足もとに紫色の〈綾〉が展開し、渦を描いた。魔物はジェンスに襲いかかろうとしているが、剣に切りつけられるたびに黒く膨らんだ体のあちこちが裂け、ボトボトと音を立てながら地面に落ちていく。そして〈綾〉の輝きに触れ、爆ぜて真っ白い火花に変わった。


〈腐りしものを拒みたまえ、闇より来たるもの還したまえ〉


 森の獣に似た魔物はそれほど恐ろしいものではない。だが、靄からはまた新たな魔物があらわれていた。どこかで裂け目がひらきっぱなしになっているのだ。そいつをみつけて浄化しなければならない。


 ジェンスが道を進みながら剣をふるい、俺は朗誦を続けながらそのあとに続こうとしたが、ふと思い出してタリンをふりむいた。黒髪の少年は真っ黒の目を大きく見開いていた。薄青い霞のような結界が二頭の馬とタリンをすっぽり覆っている。大丈夫だ。

 俺は胸の前で指を組みなおし、ジェンスを追いかけた。紫色の〈綾〉は魔物を次々に白い火花へ変えていく。最後の魔物が消えた瞬間、ジェンスの前の靄がゆらいだ。俺の足の下で地面が動く。


「ん? ――ジェンス!」


 叫んだときにはもう遅かった。足もとが崩れて視界が逆転し、俺はとっさに両手をのばして何かをつかんだが、見えたのは土と岩の塊だけだった。





「ユーリ」

 すぐ近くでささやく声に俺は目を開けたが、その瞬間は真っ暗で、何も見えなかった。温かくて重いものが俺の上に乗っかっている――と思ったら、背中を支えられて起こされた。

「ジェンス……だいじょ――」


 大丈夫かと聞くつもりが、せきこんでそれどころではなくなってしまった。土埃のせいだ。ケホケホしているとジェンスが背中をさすってくれた。やっとおさまってあたりを見回す。俺たちは崩れた崖の下で泥だらけになっている。


「大丈夫か。怪我は?」

 ジェンスが眉をひそめて聞く。俺は首や腕を曲げ伸ばしした。

「ああ。俺たち、崖に誘いこまれたのか?」

「そのようだ」

「あいつら、どこかにある裂け目から湧いてるんだろう。そいつをふさがないと……」

「このあたりとはかぎらない」ジェンスが低い声でいった。「切り通しの方かも」


 俺は上を見上げた。道のあったところは靄に覆い隠されている。そういえば、このあたりは靄に覆われていない。

「……靄に隠れているのか。切り通しの中にある裂け目から出てきて、こっち側をうろついてる……」

「まずは上に登ろう」


 ジェンスはそういって立ち上がった。俺はその右腕に赤い血の筋があるのに気づいてぎょっとした。

「おまえ、怪我してるじゃないか!」

 ジェンスはどうということもないという顔で傷を見た。

「たいしたことはない」

「あのな、ジェンス。俺の面倒ばっかりみてないで、ちったあ自分の心配をしろよ」

「大丈夫だ。俺はこのためにいる」

「馬鹿いうな。その手を貸せ。ほら、早く出せ」


 ジェンスは無表情で俺の前にかがみ、腕を突き出した。転がり落ちたときに何かで擦ったにちがいない。俺はポケットから小枝を取り出した。

「ユーリ」

 ジェンスは警告するような声を出した。

「俺のために力を使うな」

「何いってんだ。今の状況で血を流すのはよくない。侵入されたらどうするんだ」


 俺は緑の〈綾〉を引き出そうとしたが、この地はやはり恵みが足りないようだった。〈綾〉は色により質的なちがいがあって、浄化と癒しはかなり異なる。そして実をいうと、俺の異能はあまり癒しに向いていない。でもいつだって、別のやり方というのがある。


 俺は片方の靴と靴下を脱いだ。両方脱がなかったのは、今は片足で事足りるし、また履くのが面倒くさいから。

 裸足で地面を踏みながら小枝を口にくわえる。フィシスに知られたらまた邪道だって怒られそうだが、自分の体を触媒にするといろいろ面白いことができるのだ。あ、面白いなんていったらまたフィシスに怒られるんだっけ。


 俺はジェンスの腕をつかむ。地についた足の裏から口にくわえた小枝へ、体の中を駆け抜けていくものがある。

「……ユーリ、やめ…」

 頭の上で声が聞こえたが、俺は無視した。ジェンスの腕から唇を離す。傷はほとんど塞がって、赤い血の筋は淡い茶色になっている。


「ほら、治ったろ」

 ジェンスは黙ったままそっぽを向いている。まさか怒ってるわけじゃないよな。

 俺はもたもたと靴下をはき、靴に足をつっこむ。するとジェンスがさっとしゃがんで、靴ひもを結ぼうとする。


「おまえ、俺の世話を焼きすぎだ」

「どこが?」

 答えたときはもう、いつものジェンスだった。俺たちは斜面を這って上りはじめたが、俺は途中で崖の上の靄が白から灰色に変わりつつあるのに気づいた。


「ジェンス!」


 俺は前を行くジェンスに叫んだ。きっと靄の中にでかいのがいる。ジェンスは右手をあげて応え、飛びあがるようにして崖の上へ消えた。一呼吸遅れて俺も続いたが、道に戻ったとたん、ふいに風が吹いた。


 灰色の靄がちりぢりに流れ、真っ黒な獣の顎が浮かび上がる。

 ――でかい。


 ジェンスが剣を抜いた。俺は両手を合わせて〈綾〉を呼び出そうとしたが、獣は俺たちよりも素早く、いや、俺たちを無視して突き進む。その先には――


 ――しまった。


 俺は結界の方へ走った。巨大な獣の姿をした魔物が闇色の顎を開いた瞬間、凍るような風が吹きつけた。結界の中心で緑の芽をつけていた枝が、一瞬で茶色に枯れる。タリンが両腕で顔を覆った。

「タリン――」


 大声で名を呼んだ、その次の瞬間だった。白く強烈な光が結界の中心で輝き、俺の目をくらませた。



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