椀を差し出されて、タリンはごくごくと飲み干した。これまでにも何度かこの「水」を飲んだことがあったから、甘くておいしいことはよくわかっていた。それにふつうの水よりずっと、体に力が湧いてくる気がする。
そのあいだにも、ユーリは別の椀を小枝の下に置いて、同じようにしずくをためていた。半分以上たまると椀をとりあげ、一口だけ飲んでからジェンスに渡した。
「でもな、タリン。俺にこんなことができるのは、この枝が生きているうちだけだ。完全に力を引き出してしまうと枝は枯れて、もう元には戻らない。どんな神官も、枯れた枝を蘇らせることはできない。でもひとりだけ例外がいる。それが神子だ」
「神子?」
「ああ。こんな話を知らないか?」
遠い昔、まだ人々が闇も怖れも知らず、世界の中心にそびえる大樹の恵みをうけとって幸せに暮らしていたころ。そのころ地に裂け目はなく、魔物が地上にあらわれることもなかった。人々は大樹の七本の枝におわす神々を崇めながら、平和に暮らしていた。
ところがそんなある日、世界樹が枯れはじめた。
根が腐りはじめると地に亀裂が生まれ、裂け目となって、そこから魔物があらわれた。七枝の神々は人々を守ろうとしたが、初めて闇と恐怖を知った人々はたがいに争いあうようになり、神々すら争いに巻きこんで、世界は混乱に陥った。
そんなとき、ある男が「一なる根に祈りを捧げよ」という声を聞いた。
男は枯れかけた大樹の根に水を運び、蘇るよう何度も祈った。周囲の人々は、そんなことをしても無駄だ、もうその根は枯れているといって、男をあざ笑った。しかし男はあきらめなかった。昼夜問わず祈りを捧げていると、ある日異界の扉がひらいて神子が降臨し、共に祈りを捧げてほしいという男の願いを聞き入れてくれた。
神子が祈りを捧げはじめたとたん、大樹は蘇りはじめた。梢からは葉が芽吹き、地には根が伸び、闇の亀裂の多くをふさいだ。こうして世界にはふたたび恵みがいきわたった……。
「これがヘルレアサの丘にある大神殿のはじまりだ。男は大神官に、世界樹を救った神子は大神殿の礎となった」
タリンは目を丸くして聞いていたが、なぜそんな話をされるのかわからないままだ。ユーリはタリンのとまどいを感じとったのか、かすかに口元をゆるめた。
「枯れた枝を蘇らせることができるのは神子だけなんだ。そしてタリン、おまえは昨日……あの崖のところで、俺が結界を張るために使った小枝を蘇らせた」
「え……?」
「本当のことだ。おまえは気を失ってしまって、自分が何をやったか覚えていない。でもきっと、おまえは神子だ」
タリンはぽかんと口をあけたままユーリの顔を見返した。真面目な顔には冗談をいったり、からかっている様子はすこしも見えない。
「ぼくが……神子?」
そんな馬鹿な。タリンはユーリの顔から目をそらし、おどおどと周囲を見回した。ジェンスがいつのまにかすぐそこに座っていたが、その浅黒い顔もユーリとおなじく真剣な表情である。
「タリン、俺もジェンスもその場にいて全部見ていた。おまえは俺たちを救ってくれたんだよ。その力で」
「でも……ぼくはぜんぜんそんな……」
ユーリはなだめるようにタリンの肩に手をおいた。
「きっと、おまえはやっと覚醒をはじめたところなんだ。俺の異能が目覚めた時もすぐにはわからなかった。それどころか、自分は病気なんだと思ってたくらいだ」
「ぼくは……これからどうなるの?」
「ああ、そのことを考えていた」
ユーリは話している間にあふれそうになっていた椀をタリンに差し出した。タリンはそれを受け取ったものの、たったいま聞かされたことで頭がいっぱいで、胸の前に持ったままでいた。
「実は今回の俺たちの任務は神子を探すことだった。大神官のギラファティ殿が予兆を得ていたんだ。おまえが神子なら、ライオネラへ……ヘルレアサの丘の大神殿へ連れて行くのが、俺たちの任務だ」
「任務……」
「でも、実は俺は神子がみつかるなんて思ってなかったんだ。おまえに森で会った時も、そんなこと考えもしなかった」
椀の水をこぼしそうになって、タリンはあわてて半分ほど一気に飲んだ。うっすらと甘い水が喉を下っていき、頭の中がすこしすっきりする。気を失っているあいだに神子の力を発揮したといわれてもちっとも実感がわかない。でも――
「大神殿に行ったらどうなるの? ぼくもユーリみたいな神官になるってこと?」
するとユーリは困った顔をした。
「ごめん、わからない。俺は神官としては下っ端だからな。タリン、おまえは小枝を一瞬で蘇らせることができた。きっとギラファティ殿や、俺の師匠みたいな高位神官について、いろいろ教わることになると思う」
「ぼくはユーリやジェンスの役に立てるってことだよね? 一緒にライオネラに行ったら……」
「ああ、そうだ。それに神子は俺たちだけじゃない、神殿と……世界樹の恵みを求めている人たち、みんなの役に立てる」
つまりぼくはユーリやジェンスとずっと一緒にいられるんだ。そう思ったとたん胸の奥から喜びがあふれてきて、タリンは自然に立ち上がっていた。
「よかった! そうだったんだ!」
残りの水を飲み干してユーリに椀をおしつけ、両手を高くあげる。このまま空まで飛び跳ねられるのではないかと思うくらい、体が軽くなった気がする。
「ぼく、まだふたりと一緒にいられるんだね!」
「ああ。それでいいか、タリン? 俺たちとライオネラに行くか?」
「うん、あたりまえだよ!」
大神殿がどんなところなのか、自分が何をすることになるのか、いまのタリンにはわからないことばかりだ。でもユーリとジェンスに――タリンの希望の先にあらわれたふたりについていけば、きっと自分は大丈夫だ。
ユーリの青い目をみつめながらタリンは何度もうなずいていた。