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第8話 戦わずして勝つ

「いずれこうなると予想しておりました。ただ、その予想よりも早く【ちょう】軍が動いた。それだけの事でございます」


 気を取り直し、楽毅がくきは真剣な面持おももちで伝える。


「ほう、すでに想定内であったか」


 孟嘗君もうしょうくんの口から感嘆かんたんが漏れる。


武霊王ぶれいおうは蛇のごと狡猾こうかつな人物ゆえに……」


 楽毅がくき武霊王ぶれいおうに対する印象を率直に述べた。


 実際、武霊王ぶれいおう狡猾こうかつであり、そして野心家であった。

 彼は若くして王位に就いてからこれまで盛んに兵をおこし、【ちょう】の版図はんとを着実に拡げてきた。

 【せい】の湣王びんおうも野心家ではあるが、彼の場合はとにかく力押しの戦い方を好む。しかし、武霊王ぶれいおうという人物は慎重に慎重を重ねてとことん理詰めてゆき、ここぞという時に一気に相手を併呑へいどんするという戦法を用いるのだ。


 兵をおこす前にはすでに大局は決しており、気づいた時にはもう彼のたなごころにある。ここに湣王びんおうとの大きな違いがあった。


 実際に、今回の【中山国ちゅうざんこく】遠征への過程プロセスをたどってみればなお分かりやすいだろう──



 そもそも、【ちょう】という国は昔から【中山ちゅうざん】の地を欲していた。【中山国ちゅうざんこく】の北にあるだいという大きな地を、【ちょう】は領土として治めているが、国都である邯鄲かんたんからだいへ往来するにはどうしても【中山国ちゅうざんこく】をぐるりと迂回しなければならない。

 【中山国ちゅうざんこく】を落とせばだいへ直進できる、との思いが常に巡っていたのだろう。


 さらに、【中山国ちゅうざんこく】がまだ【せい】との交誼こうぎを保っていた頃、この【せい】と組んで【ちょう】を攻め勝利した事があった。

 楽毅がくきがまだ赤子だった頃の出来事だが、その時の恨みは武霊王ぶれいおうにもしっかり継承されているのだ。

 ながきに渡る宿願を果たすべく、まず武霊王ぶれいおうは最初に【中山国ちゅうざんこく】と【せい】との同盟を切り崩すことを目論もくろんだ。


 まだ【中山ちゅうざん】王が王号を称する前のことである──


 【中山ちゅうざん】公が傲慢ごうまんで何よりも名誉を重んじる性格である事を突き止めた武霊王ぶれいおうは、諜報員を用いて【中山国ちゅうざんこく】の重臣を丸めこみ、


「【中山ちゅうざん】は立派な大国になられたのに、なにゆえ君は王を称されないのか」


 と盛んにおだてあげた。

 すぐにその気になった【中山ちゅうざん】公は、同盟国である【せい】にうかがいを立てた。傲慢ごうまんさでは引けを取らない【せい】の湣王びんおうは、小国が図に乗るな、と激怒。決してこれを認めようとはしなかった。【中山ちゅうざん】公は【せい】王を恨んだが、この時点ではまだ、【せい】の機嫌を損ねる訳にはいかぬ、という自制がかろうじて働いていた。


 しかし、そこに武霊王ぶれいおうがすかさず、


「貴殿が王を名乗られるのであれば、【ちょう】は賛同致す」


 と甘言かんげんささやいたのだ。

 これによって【中山ちゅうざん】公の迷いは霧散し、【ちょう】の賛同の下に【中山ちゅうざん】王を正式に名乗った。当然【せい】はこれを認めず、ついには【中山国ちゅうざんこく】との同盟を完全に破棄した。


 【せい】という大国とのよしみより王個人の独善を選んだ【中山国ちゅうざんこく】は、まんまと武霊王ぶれいおうの策略にはまったのだった──



「ならば楽毅がくきよ。その狡猾こうかつなる蛇に対抗するにはどうすべきか、オヌシの見解を聞きたい」

「……戦わずして勝つ。これが最良でございます」


 楽毅がくきよどみ無く答える。

 孟嘗君もうしょうくんは、ふむ、とうなずき、


「オヌシであれば、すでにその為の道筋を思い描いておる事じゃろう」


 そう言って足を組み替える。


武霊王ぶれいおうが東を眺望ちょうぼうした時、その視線は果たして【中山国ちゅうざんこく】のみにとどまっていたでしょうか? いな、必ずその先にある【せい】を次なる標的として見据えていたに違いありません」

「そうであろうな」

「ならば、地理的に見て【中山国ちゅうざんこく】は【せい】を護る盾となる。そうは思いませんか?」

「以前であれば、みなそう考えていたであろうな」


 以前とは言うまでもなく、【中山国ちゅうざんこく】と【せい】が同盟関係にあった頃の事を指す。


「【中山国ちゅうざんこく】と結ぶ事は結果、【ちょう】に対する牽制となっていた。しかし、今の【せい】王にはそれが利とは映らなかったようじゃ」


 苦々しい口調で孟嘗君もうしょうくんは語った。


「【せい】王の目は今、南に向いておる。【中山ちゅうざん】が存続しようが滅しようがどうでもよいのじゃろう。いや、憎き【中山ちゅうざん】の危機をむしろよろこんでおるのかも知れぬ。武霊王ぶれいおうの底知れぬ野心にも気づかず、のんきなものじゃ」


 その武霊王ぶれいおうの野心に気づいている者は、【ちょう】の重臣以外ではこの二人と孫翁そんおうくらいであろう。


「【中山国ちゅうざんこく】が滅したならば、我が【せい】の首元に匕首ナイフを突きつけられるようなもの。そんな状況はご免こうむりたいものじゃ」


 そう言って懐から何かを取り出し、側に控えるふうに手渡す。ふうの手から楽毅がくきに差し出されたそれは、一枚の竹札であった。


「これは?」

「ワシの名と花押かおうがある。何かあった時、それを見せれば多少の融通がくであろう」


 それを受け取った楽毅がくきがよく見てみると、確かに本名である田文姫でんぶんきの名と桃の花をかたどった花押かおうが施されている。桃の花型は、彼女が好んで用いている印である。


宰相さいしょうという地位にありながら、ワシは何の力も持ち得ぬ。してやれる事といえばその程度しかない」

「とんでもございません。ここまでお心を砕いていただき、大変恐縮であります」


 楽毅がくきは床に頭をつけて礼を返した。


 楽毅がくき孟嘗君もうしょうくんに述べた、戦わずして勝つ──その最善の方法は【せい】との国交回復であった。

 しかし、その為の最低条件として【せい】王は恐らく、【中山ちゅうざん】王の王称撤回と謝罪を要求するだろう。そして、何よりも名誉を重んじる【中山ちゅうざん】王がそれを呑むとは到底考えられなかった。


 それをいさめ説得するのが臣下の努めであるが、残念ながら楽毅がくき孟嘗君もうしょうくんも、その言葉で驕慢きょうまんな主君の心を動かすのは途轍とてつも無く困難である事を悟っていた。


 ──やはり、孟嘗君もうしょうくんでも【せい】王を説得するのは難しいようね。


 思い返してみれば彼女は事あるごとに湣王びんおうへの悪言を吐いていたし、両者の仲の悪さは巷間こうかんの噂にまでなる程なのだから無理も無い。


「【中山国ちゅうざんこく】が【せい】の盾となれるよう、尽力致します」


 やはり自分が【中山ちゅうざん】王を説得するしかない、と感じた楽毅がくきはその決意を胸に力強く言った。

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