目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第13話 どうか伝えていただきたい

 翌朝──


 楽毅がくき達一行は、昨晩逗留とうりゅうした【ちょう】軍の陣営を発った。


 【ちょう】軍が取り囲んでいるであろう東垣とうえんまちを避け、直接国都である霊寿れいじゅを目指す。

 予定通り進めれば明日には到着するはずだ。


 霊寿れいじゅに近づくにつれ、家族と久々に会えるよろこびが膨らむ楽毅がくき。しかし、今はそれをおくびにも出す訳にはいかなかった。

 敵将である趙与ちょうよが、彼女達を見送る為に同行しているからだ。


 出立前、楽毅がくき達と同じ商人の出で立ちで現れた趙与がそれを希望したのだ。

 当然楽毅がくき達は丁重に断った。しかし彼は、これも任務、と譲らなかった。任務とはすなわち、これから侵攻予定である【中山ちゅうざん】領の偵察である。


 それが分かっているだけになおさら同行させる訳にはいかなかったが、無下に断る事も出来なかった。今の楽毅がくきは飽くまでも商人であり、【中山ちゅうざん】人である事を悟られてはならないからだ。


 ならばいっそ、趙与ちょうよを捕らえて人質にするという考えが頭をもたげたが、すぐにそれを打ち消した。


 ──そんな仁義にもとる行為、齋和さいかなら絶対にしないわ。


 楽毅がくき自嘲じちょうし、趙与ちょうよの見送りを受ける事にしたのだった。


「なるほど。【中山国ちゅうざんこく】はやはり山道が険しいですな。攻めるのに難儀しそうです」


 地面に敷きつめられた落ち葉に足を何度も取られそうになる趙与ちょうよ。彼は馬車にも乗らずわざわざ徒歩を選んでいる。もちろん、地形を頭の中に叩きこみ、戦いに役立てる為だ。


 楽毅がくき達は趙与ちょうよを──【ちょう】軍をあざむき、武器を土産に帰国しようとしている一方で、趙与ちょうよはそんな楽毅がくき達を利用して堂々と敵地偵察を行っている。

 ほろ馬車に乗る楽毅がくき達は、何とも複雑な気持ちに襲われるのであった。



 さらに翌日を迎え陽が傾き始めた頃、ようやく山道を抜けると悠然と広がる平原の彼方にポツンとたたず堅牢けんろうな城壁が姿を現した。


「みなさん、ようやく霊寿れいじゅを視界に捉えましたよ」


 馭者ぎょしゃを努めるツェイはそこでいったん馬車を止め、楽毅がくき達に告げる。


 ──ようやく帰って来た。


 外へ出て、久し振りに目にする生まれ故郷の遠景に、感慨もひとしおの楽毅がくきであったが、今はそれを心の内に留める。


「ではみなさん。私はそろそろ陣営に戻ります」


 手拭いで首回りの汗を拭いながら、趙与ちょうよが告げる。


「そうですか。この度はいろいろとお世話になりました」


 楽毅がくき達はそろって頭を下げる。もちろん、内心ではホッと安堵していた。


「いいえ、とんでもない」


 さわやかな笑顔で趙与ちょうよきびすを返し、


「それでは、みなさん、失礼します」


 元来た道へと足を踏み出す。

 しかし──


「……私の娘は今、【せい】の臨淄りんしに留学しておりましてね」


 彼はすぐに立ち止まると、楽毅がくき達に背中を向けたままひとり言のように語り出した。


「その娘がくれた書簡の中に、【中山国ちゅうざんこく】出身の紅毛碧眼こうもうへきがんを持った学友の事が書かれていたのですよ」


 瞬時に、楽毅がくきの顔色が青ざめる。


「とても聡明で、とても思慮深く、とても美しい子だと、娘はうれしそうにつづっておりました」


 楽毅がくきは呆然と開口したまま立ち尽くす。

 楽乗がくじょうも何となく事情を察し、趙与ちょうよの背中に警戒の眼差しを向ける。


「ああ、すみません。羊毅ようきどのが娘の学友と何となく印象が似ていたもので、ついムダ話をしてしまいました」


 そう言って振り返る趙与ちょうよ。そこにあるのは穏やかな笑み。しかし、その目には先程まで見せる事の無かった鋭い眼光をにじませていた。


 ──間違いない。趙与ちょうよどのはわたしが【中山国ちゅうざんこく】の楽毅がくきであると気づいている。


 楽毅がくきはそう悟った。


 趙奢ちょうしゃが父と定期的に書簡のやり取りをしていた事は知っていた。おそらく、何気ない日常の出来事をつづっていたのだろう。しかし、【ちょう】と【中山国ちゅうざんこく】が交戦する事になろうとは、その時の趙奢ちょうしゃは予想だにしなかっただろう。


「もしも……貴女方が楽毅がくきという娘に会う事があったら、どうか伝えていただきたい」

「……何と?」


 楽毅がくきは気を持ち直し、何とか言葉を発する。


「娘と仲良くしてくれて大変感謝している。しかし、戦場でまみえる事があったなら、全力をもって叩きつぶす、と」


 そう言う趙与ちょうよの顔から笑みは完全に消えていた。穏やかでどこか頼りない印象はこれっぽっちもなく、【ちょう】国の将軍としての毅然たる姿がそこにはあった。


 ──これこそ、将のかがみだわ。


 楽毅がくきは感嘆を禁じ得なかった。


 敵国の者であっても受けた恩は必ず返し、それが成されれば余計な情は一切持たない。

 趙与ちょうよは敵国人である楽毅がくきを娘とのよしみからわざと見逃してくれた。しかも、そんな人情的なやり取りの中で、楽毅がくきは自国に堂々と武器を持ちこみ、趙与ちょうよは堂々と敵国偵察を行う、という抜け目の無さをも互いに示して見せたのだ。


「必ずや、お伝え致します」


 趙与ちょうよの思いをいきに感じ取った楽毅がくきは、それに応えるように胸を張って答えた。

 趙与ちょうよは軽くほほ笑むと再び背中を向け、山道を下って行く。


 ──趙与ちょうよどのは、きっとわたしの前に立ちふさがる強敵となる。


 しばらくその背中を見送りながら、楽毅がくきはそんな予感を感じるのだった。



 臨淄りんしってからおよそひと月──


 楽毅がくき達はついに霊寿れいじゅの城門をくぐった。

 実に一年半ぶりの帰郷となる楽毅がくきは、その喜びを今度は包み隠すこと無く発露させるのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?