【趙】軍の東垣攻撃再開の報は、明朝すぐに水留の砦へと届けられた。
「思ったよりは早かったですね」
天幕内でそれを聞いた楽毅は、起きしなに大きなあくびをしながらのん気に呟き、ゆったりとした所作でようやく甲冑を付け始めたばかりであった。
楽毅の肌着は身体の線がハッキリと浮き出る為、報を届けに来た楽乗はその扇情的な体つきに、思わず鼓動を乱してしまう。
「いよいよ全力で東垣を抜くつもりなのでしょうか?」
「いいえ。わたし達を砦からおびき出す為の演技でしょう」
楽乗の問いに、あっさりと言いのける。
「では、このまま静観すると?」
「いいえ。あちらが野戦をお望みとあらば、こちらもそのお誘いを受けましょう」
最後にマントを肩にかけた楽毅はすっくと立ち上がり、
「アレを試す良い機会ですし」
泰然と言い放ち、天幕を後にした。
楽乗を守将として残し、半分の五千の兵を率いて砦を後にした楽毅は昼時に、緑色に染められた軍旗と甲冑の【趙】軍と山道で出くわした。
数は有に二万はあるだろうか。【中山】軍が砦から出たとの報を受けて、これを迎え討つ為に東垣方面から差し向けられた一軍だ。
山道は狭い上に一本道である。こういった場所で軍が対峙した場合、物量に勝る方が有利なのは常である。
実際、両軍が衝突するや否や【中山】軍はあっと言う間に押しこまれ、元来た道を一目散に駆け上がってゆくのだった。
「このまま一気に砦まで雪崩こむぞ!」
聞き覚えのある胴間声が後方から楽毅の耳にまで届いた。
──趙章自らやって来たか。よほど昨晩の事が堪えているみたいね。
楽毅は逃走中の身でありながら馬上で笑った。
やがて前方の景色が開け、すぐ先には葦が一面に生い茂る叢が広がる。楽毅達はそこに駆けこむと、すぐに踵を返した。
【趙】軍の騎馬隊が轟音と土煙を上げながら迫り来る。
その時──
楽毅はスッと右手を高く掲げた。
すると、楽毅達【中山】軍と【趙】軍の間にある叢の中から、全長三メートル以上はあろうかという長い槍を持った別の【中山】兵が一斉にその姿を現した。
まるで天を貫かんとばかりに突然現れた異様の光景に、【趙】軍の馬は恐れ慄いて歩を止めた。
楽毅は掲げた手をそのまま前方へと向ける。
すると、【中山】兵は長槍の切っ先を前方に向け、背負っていた大きな盾に身を潜め、密集した状態でゆっくりと前進を始まる。まるで一匹の巨大なハリネズミが迫り出して来るかの如く異様な陣形に、【趙】軍はしばらく唖然と立ち尽くしていた。
その間にも長槍と大盾を構えた【中山】軍が趙軍の騎馬隊を押しこむ。反撃を試みても刃は大盾に防がれ、大盾と大盾の間から屹立する無数の長槍が【趙】兵を次々と貫いていった。
【趙】軍の騎馬隊は狭い山道では思うように展開出来ず、為す術も無く引き返そうとするが、遅れて来た歩兵が事情を知らないまま前進して来ている為に前後から押し合いへし合いする形となり、完全に算を乱して散り散りとなった。
さらには木々の間に伏していた【中山】軍の兵が弩を用いて矢を浴びせ追い討ちをかけた為に、【趙】軍の被害はみるみる内に膨れ上がっていった。
結局、【趙】軍は数百人の死傷者を出して撤退を余儀無くされ、山道を降りて中腹地点まで後退し、そこに陣を構えた。
死傷者が百にも満たなかった【中山】軍はそれ以上深追いする事無く、悠々と砦へと帰還を果たしたのだった。
「楽毅お姉さんは密集方陣をご存知だったのですか?」
砦の天幕内でひと息吐く楽毅に翠が訊ねる。彼女は先程の野戦で楽間と共に楽毅に同行していた。
「密集方陣? 何ですか、それは?」
「先程お姉さんが用いていた、長槍と大盾の重装歩兵による密集陣形です。あれは元々希臘で古くから用いられたもので、馬基頓のアレクサンドロス大王もよく用いていた陣形です」
「そうだったの? 知らなかったわ……」
楽毅は驚いた顔で言った。
「本当に知らなかったのですか?」
ええ、と楽毅はうなずき、
「わたしはただ、【趙】軍の主力である騎馬隊を足止めする為に、と考えて長槍と大盾を作らせたのですが……。やはり先人は偉大ですね」
虚空に目をやり、そう呟いた。
楽毅は、邯鄲で購入した楚鉄で長槍と大盾を製造し、それを姫尚と楽峻の軍にも授けて対騎馬隊の備えとしていた。
たとえ勝てなくても良い。敵を冬まで──雪が積もって撤退を余儀無くさせるまで足止め出来ればそれで充分だと思った。三方の内どこかひとつが抜かれたとしても、それだけでは霊寿は陥落しない。武霊王の目論みを防いだ事になるのだ。
「しかし、誰から教わったでも無く昔の偉人と同じ戦法を考え出すのですから、やはりお姉様はスゴイです」
楽乗が興奮気味に言った。
彼女は先程は砦の留守を護っていた為に、その密集方陣を実際には見ていなかった。
「ありがとうございます。それで、楽乗さんには今夜、わたしと一緒にもうひと働きしていただきたいのですが」
楽毅の言葉にキョトンとした楽乗であったが、
「喜んでお供致します」
すぐに彼女の意向を察し、笑顔で応えた。
その日の深夜──
シンと寝静まる【趙】軍の陣に、五千の【中山】軍が灯火も音も無く接近していた。入り組んだ山路も、地形を知り尽くした【中山】人であれば容易に下る事が出来た。
「では手はず通り最初は北西へと切りこみ、次に東、返す刀で南西に抜けてください」
「三角形を描くように敵陣を撹乱するのですよね。お任せください」
楽毅の確認に、楽乗達【中山】兵がうなずく。
騎馬隊が馬のハミを外す。
「突撃ッ!」
楽毅の掛け声と共に【中山】軍は静寂を破り、【趙】軍の陣営へと一斉に雪崩こんだ。炬火は倒され、その火が幕舎や天幕に燃え広がる。
慌てて飛び起きた【趙】兵が盛んに、敵襲、夜襲、と叫ぶが、彼らは甲冑を身につける間も無く突然闇から現れた【中山】軍に斬り伏せられていった。
擾乱して右往左往する【趙】兵に対し、【中山】軍はひと言も言葉を発する事は無く、それが【趙】軍の恐怖心をなおさら煽るのだった。
【中山】軍は南西の方向に縦断すると踵を返し、糸を通すように今度は東の方向へと突き進んでいった。
「お前は、いつぞやの商人ではないか⁉︎」
昼間も聞いたあの胴間声が楽毅の足を止めさせる。
燃え盛る幕舎の傍で、【趙】の太子で後軍大将の趙章が、馬上の楽毅を睨み上げていた。その隣にはその側近である田不礼が控えている。
「その節は大変お世話になりました、趙章様。おかげで無事に帰国する事が出来ました」
楽毅は皮肉をたっぷりとこめてそう言った。
「き、貴様ァ! 一体何者だ⁉︎」
「わたしは【中山国】将軍の楽毅」
「楽毅……だと? おのれ、この俺を謀りおって‼︎」
趙章が腰に帯びた剣を抜いて切りかかろうとするが、田不礼に抑えられて引きずられるようにしてその場から離れてゆく。
覚えておれ、という怨嗟の声だけが虚しく響いていた。
結局、【趙】軍は潰走し、元いた東垣近辺へと引き上げていった。
たった一日で趙章率いる【趙】軍は三千もの死傷者を出し、緒戦は楽毅の完勝であった。