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第3話 本当に知らなかったのですか?

 【ちょう】軍の東垣とうえん攻撃再開のしらせは、明朝すぐに水留すいりゅうの砦へと届けられた。


「思ったよりは早かったですね」


 天幕テント内でそれを聞いた楽毅がくきは、起きしなに大きなあくびをしながらのん気につぶやき、ゆったりとした所作でようやく甲冑かっちゅうを付け始めたばかりであった。

 楽毅がくき肌着インナーは身体のラインがハッキリと浮き出る為、しらせを届けに来た楽乗がくじょうはその扇情的な体つきに、思わず鼓動を乱してしまう。


「いよいよ全力で東垣とうえんを抜くつもりなのでしょうか?」

「いいえ。わたし達を砦からおびき出す為の演技パフォーマンスでしょう」


 楽乗がくじょうの問いに、あっさりと言いのける。


「では、このまま静観すると?」

「いいえ。あちらが野戦をお望みとあらば、こちらもそのお誘いを受けましょう」


 最後にマントを肩にかけた楽毅がくきはすっくと立ち上がり、


「アレを試す良い機会ですし」


 泰然たいぜんと言い放ち、天幕テントを後にした。



 楽乗がくじょうを守将として残し、半分の五千の兵を率いて砦を後にした楽毅がくきは昼時に、緑色に染められた軍旗と甲冑かっちゅうの【ちょう】軍と山道で出くわした。

 数は有に二万はあるだろうか。【中山ちゅうざん】軍が砦から出たとのしらせを受けて、これを迎え討つ為に東垣とうえん方面から差し向けられた一軍だ。


 山道は狭い上に一本道である。こういった場所で軍が対峙した場合、物量に勝る方が有利なのは常である。

 実際、両軍が衝突するやいなや【中山ちゅうざん】軍はあっと言う間に押しこまれ、元来た道を一目散に駆け上がってゆくのだった。


「このまま一気に砦まで雪崩なだれこむぞ!」


 聞き覚えのある胴間声どうまごえが後方から楽毅がくきの耳にまで届いた。


 ──趙章ちょうしょう自らやって来たか。よほど昨晩の事がこたえているみたいね。


 楽毅がくきは逃走中の身でありながら馬上で笑った。


 やがて前方の景色が開け、すぐ先にはあしが一面に生い茂るくさむらが広がる。楽毅がくき達はそこに駆けこむと、すぐにきびすを返した。


 【ちょう】軍の騎馬隊が轟音と土煙を上げながら迫り来る。


 その時──


 楽毅がくきはスッと右手を高く掲げた。

 すると、楽毅がくき達【中山ちゅうざん】軍と【ちょう】軍の間にあるくさむらの中から、全長三メートル以上はあろうかという長い槍を持った別の【中山ちゅうざん】兵が一斉にその姿を現した。

 まるで天を貫かんとばかりに突然現れた異様の光景に、【ちょう】軍の馬は恐れおののいて歩を止めた。


 楽毅がくきは掲げた手をそのまま前方へと向ける。

 すると、【中山ちゅうざん】兵は長槍の切っ先を前方に向け、背負っていた大きな盾に身を潜め、密集した状態でゆっくりと前進を始まる。まるで一匹の巨大なハリネズミがり出して来るかのごとく異様な陣形に、【ちょう】軍はしばらく唖然と立ち尽くしていた。


 その間にも長槍と大盾を構えた【中山ちゅうざん】軍が趙軍の騎馬隊を押しこむ。反撃を試みても刃は大盾に防がれ、大盾と大盾の間から屹立きつりつする無数の長槍が【ちょう】兵を次々と貫いていった。

 【ちょう】軍の騎馬隊は狭い山道では思うように展開出来ず、為す術も無く引き返そうとするが、遅れて来た歩兵が事情を知らないまま前進して来ている為に前後から押し合いへし合いする形となり、完全に算を乱して散り散りとなった。

 さらには木々の間に伏していた【中山ちゅうざん】軍の兵がを用いて矢を浴びせ追い討ちをかけた為に、【ちょう】軍の被害はみるみる内に膨れ上がっていった。


 結局、【ちょう】軍は数百人の死傷者を出して撤退を余儀無くされ、山道を降りて中腹地点まで後退し、そこに陣を構えた。

 死傷者が百にも満たなかった【中山ちゅうざん】軍はそれ以上深追いする事無く、悠々と砦へと帰還を果たしたのだった。



楽毅がくきお姉さんは密集方陣ファランクスをご存知だったのですか?」


 砦の天幕テント内でひと息楽毅がくきツェイたずねる。彼女は先程の野戦で楽間がくかんと共に楽毅がくきに同行していた。


密集方陣ファランクス? 何ですか、それは?」

「先程お姉さんが用いていた、長槍と大盾の重装歩兵による密集陣形です。あれは元々希臘ギリシャで古くから用いられたもので、馬基頓マケドニアのアレクサンドロス大王もよく用いていた陣形です」

「そうだったの? 知らなかったわ……」


 楽毅がくきは驚いた顔で言った。


「本当に知らなかったのですか?」


 ええ、と楽毅がくきはうなずき、


「わたしはただ、【ちょう】軍の主力である騎馬隊を足止めする為に、と考えて長槍と大盾を作らせたのですが……。やはり先人は偉大ですね」


 虚空に目をやり、そうつぶやいた。


 楽毅がくきは、邯鄲かんたんで購入した楚鉄そてつで長槍と大盾を製造し、それを姫尚きしょう楽峻がくしゅんの軍にも授けて対騎馬隊の備えとしていた。

 たとえ勝てなくても良い。敵を冬まで──雪が積もって撤退を余儀無くさせるまで足止め出来ればそれで充分だと思った。三方の内どこかひとつが抜かれたとしても、それだけでは霊寿れいじゅは陥落しない。武霊王ぶれいおう目論もくろみを防いだ事になるのだ。


「しかし、誰から教わったでも無く昔の偉人と同じ戦法を考え出すのですから、やはりお姉様はスゴイです」


 楽乗がくじょうが興奮気味に言った。

 彼女は先程は砦の留守を護っていた為に、その密集方陣ファランクスを実際には見ていなかった。


「ありがとうございます。それで、楽乗がくじょうさんには今夜、わたしと一緒にもうひと働きしていただきたいのですが」


 楽毅がくきの言葉にキョトンとした楽乗がくじょうであったが、


「喜んでお供致します」


 すぐに彼女の意向を察し、笑顔で応えた。



 その日の深夜──


 シンと寝静まる【ちょう】軍の陣に、五千の【中山ちゅうざん】軍が灯火も音も無く接近していた。入り組んだ山路も、地形を知り尽くした【中山ちゅうざん】人であれば容易に下る事が出来た。


「では手はず通り最初は北西へと切りこみ、次に東、返す刀で南西に抜けてください」

「三角形を描くように敵陣を撹乱するのですよね。お任せください」


 楽毅がくきの確認に、楽乗がくじょう達【中山ちゅうざん】兵がうなずく。

 騎馬隊が馬のハミを外す。


「突撃ッ!」


 楽毅がくきの掛け声と共に【中山ちゅうざん】軍は静寂を破り、【ちょう】軍の陣営へと一斉に雪崩なだれこんだ。炬火きょかは倒され、その火が幕舎ばくしゃ天幕テントに燃え広がる。

 慌てて飛び起きた【ちょう】兵が盛んに、敵襲、夜襲、と叫ぶが、彼らは甲冑かっちゅうを身につける間も無く突然闇から現れた【中山ちゅうざん】軍に斬り伏せられていった。


 擾乱じょうらんして右往左往する【ちょう】兵に対し、【中山ちゅうざん】軍はひと言も言葉を発する事は無く、それが【ちょう】軍の恐怖心をなおさらあおるのだった。


 【中山ちゅうざん】軍は南西の方向に縦断するときびすを返し、糸を通すように今度は東の方向へと突き進んでいった。


「お前は、いつぞやの商人ではないか⁉︎」


 昼間も聞いたあの胴間声どうまごえ楽毅がくきの足を止めさせる。

 燃え盛る幕舎ばくしゃの傍で、【ちょう】の太子たいしで後軍大将の趙章ちょうしょうが、馬上の楽毅がくきを睨み上げていた。その隣にはその側近である田不礼でんぶれいが控えている。


「その節は大変お世話になりました、趙章ちょうしょう様。おかげで無事に帰国する事が出来ました」


 楽毅がくきは皮肉をたっぷりとこめてそう言った。


「き、貴様ァ! 一体何者だ⁉︎」

「わたしは【中山国ちゅうざんこく】将軍の楽毅がくき

楽毅がくき……だと? おのれ、この俺をたばかりおって‼︎」


 趙章ちょうしょうが腰に帯びた剣を抜いて切りかかろうとするが、田不礼でんぶれいに抑えられて引きずられるようにしてその場から離れてゆく。

 覚えておれ、という怨嗟えんさの声だけが虚しく響いていた。


 結局、【ちょう】軍は潰走かいそうし、元いた東垣とうえん近辺へと引き上げていった。



 たった一日で趙章ちょうしょう率いる【ちょう】軍は三千もの死傷者を出し、緒戦は楽毅がくきの完勝であった。

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