楽毅がくきの指示により、水留すいりゅうの砦にいた全ての【中山ちゅうざん】兵は理由も分からないままそこを放棄し、裏山の高台まで移動した。

　そして、それから一時間余りの事だった。

　突如、雷鳴の如ごとく轟音（ごうおん）と地鳴りの如ごとく振動が川の上流辺りから発生すると、やがて膨大な濁流だくりゅうが眼下を覆う。砦内にも水を引いていた呼沱水こたすいで氾濫はんらんが起こり、あふれ出した大量の水が砦へと一気に押し寄せると、土砂を巻きこんで黒く濁った水のうねりは堅牢けんろうを誇った砦をあっという間に飲み干したのだった。

　【中山ちゅうざん】兵は、先程まで自分達が命を賭として護っていた場所が蹂躙じゅうりんされ、為す術も無く崩壊してゆく様をただ呆然と見下ろす事しか出来なかった。

「水攻め……。これが趙与ちょうよの狙いだったのですね？」

　悔しさを含んだ楽乗がくじょうの言葉に、楽毅がくきは無言のままうなずいた。

「ここ数日、塞に流れこむ水の量が減っていたのは、【趙ちょう】軍が川の上流を堰せき止めていたからだったのです。【趙ちょう】軍が穴を掘っていたのは、実は堰せきを築く為の土嚢どのうを得るため。そして、その作戦を悟られないように砦への攻撃を繰り返してわたし達の意識を惹きつけていた……」

　もっと早くにその可能性に気づくべきでした、と楽毅がくきは無念そうに顔を伏せた。

　穴を掘っては、砦へ通す抜け穴トンネルを疑わせた。

　力無い攻撃を何度も繰り返しては、相手の気力が尽きるのを待っているかのように疑わせた。

　趙与ちょうよの狡猾こうかつさが楽毅がくきの根気に勝ったのだ。

　結果、楽毅がくき達は水留（すいりゅう）の砦とそれと併合して築かれた山道の砦をも失った。

　しかし楽毅がくきも寸前で水攻めを察知し、兵の損失だけは免まぬがれた。

　それに、楽毅の備えは万全であった。

　これまで【趙ちょう】軍を足止めしていた間に、霊寿れいじゅへと通じる山道にもうひとつの砦を密かに築いていたのだ。楽毅がくき達はその砦を新たな拠点とし、再び【趙ちょう】軍と対峙しこれを足止めするのだった。

　そして季節は冬を迎え、雪がチラチラと降り始めた頃、遂に【趙ちょう】軍は南に大きく後退を始めた。

　【中山ちゅうざん】軍は武霊王ぶれいおうの目論見を――霊寿れいじゅへの三方同時攻撃作戦を見事に阻止したのだ。