【秦】に楼緩という男がいる。
彼は元々武霊王の家臣であり、その武霊王が内乱後の【秦】の情勢を探るため、ひいては国政を【趙】の有利となるよう仕向けるために送りこんだ客将である。
当然、【秦】の方も武霊王の狡猾な思惑など百も承知なのだが、新たに【秦】王として即位した嬴稷を遊学先の【燕】から庇護して無事に【秦】へと送り届けたという大恩があるため、彼を無碍にすることもできなかった。
【秦】と【趙】の間に立つ楼緩の立場は奇妙なもので、将として厚遇を受けながらも【秦】の諸将からは常に冷眼を向けられているという状況である。
その楼緩は今、苛立ちを隠しきれない様子でドスドスと乱暴な足取りで宮殿の廊下を数名の従者と共に歩いていた。
先ほどまで国の要人と会談を行なっていたが、思い通りに事が進まないまま結局は破談となり、その時の悔しさがいまだ治らないのだ。
【秦】の将でありながら【趙】のために立ち回らなければならない彼の心労たるや、想像するにあまりあるだろう。
「ご苦労様でございます」
不意に脇から楼緩に向けて声がかけられる。
我に返って立ち止まり、そちらに目を向けると二人の兵士が拝礼の姿勢を向けていた。
ひとりは大柄で立派な体躯をしており、もうひとりは小柄でまるで子供のような背丈をしている。
「……ああ」
ため息と共に呟いた楼緩が、前に向き直って歩みを再開したその時だった。
ーーん?
何かに気づいてピタリと足を止め、大柄な方の兵士の顔を凝視する。
「んんッ⁉︎」
そして、ある可能性に気づいて更に近づいて確認をした楼緩は、
「んあぁぁぁぁぁッッッ‼︎」
その可能性が本物と確信すると、大きく目を剥いて悲鳴にも叫びを上げるのだった。
「いかがされましたか、楼緩どの?」
先行していた従者が異変に気づいて立ち止まり、訊ねる。
「あ、いや……私は急用を思い出した。お前たちは先に戻ってくれ」
慌てて取り繕う楼緩。
従者たちは首を傾げながらも、言われた通りそのまま廊下を進んで行く。
「ま、まさかとは思いますが……主上でございますか?」
従者の姿が完全に見えなくなったころ、楼緩は大柄な兵士に向けて恐る恐る訊ねる。
「俺は近い内に趙何に王座を譲って引退する予定だから、もう主上ではなく主父だ」
「ああ、左様でございましたか……いや、それはそれはこの際どうでもいいのです! ……いや、どうでもよくはありませんが」
【秦】兵の甲冑をまとっている大柄な男のーー主君である武霊王の返答に、楼緩は狼狽気味に頭を抱える。
「ははは、気づかれないまま素通りされるかと思ったぞ」
「私も最初は他人の空似かと思いましたが……。いや、むしろそうであって欲しかったです」
キリキリと締めつけられるような胃痛に襲われながら、楼緩は大きなため息を吐いてから男をまっすぐ見すえると、
「それで、何故主父はそのようなお姿でこのような場所におられるのですか?」
ようやく本題を問う。
「新たな【秦】王をこの目で見たくてな。商人に化けて宮殿に入り、今度は兵士に扮して【秦】王を探しているのだ」
「そんな理由で、たったおひとりでここまで乗りこんでくるなど、なんと無謀な……」
あっけらかんとした男の返答に、今度は頭痛に見舞われて頭を抱える楼緩。
「ひとりではない。護衛もここにいるぞ」
そう言って武霊王は、隣に立つ小柄な兵士ーー廉頗を指し示す。
それに応えるように、満面の笑みを浮かべる廉頗。
そんな少女をチラリと見やった楼緩は、すぐに大きなため息を吐いて再び頭を抱えてしまう。
「それより楼緩よ。昭穣王の居場所に心当たりはないか?」
そんな事などお構い無しに、武霊王が訊ねてくる。
「昭穣王でございますか? そうですな……彼ならおそらく、秘密の個室にこもっているはずです」
「秘密の個室?」
楼緩からもたらされた情報に、武霊王は首を傾げる。
「はい。噂ではその部屋で紅い髪の女の肖像画をいつも恨めしげに見上げているとのことです」
「紅い髪の女……か」
やはりそれは武霊王自身も耳にしていた巷間の噂どおりであり、その紅い髪の女のとは楽毅のことであると彼は確信していた。
「楼緩。その秘密の個室がどこにあるか、知っているか?」
「は? たしか、この先の通路を左に曲がった廊下の突き当たりがそうだと聞かされたことがありますが……。まさか、そこへ向かおうなどと思っているのですか?」
「俺は、俺自身が陰助して王位に就いた男を見定めるためにここまで来たのだ」
「なりません!」
強い口調で主君を一喝する楼緩。
「昭穣王はその秘密の個室に他者が踏み入ることを嫌っており、我々臣下はもとより、護衛兵すら立ち入らせないほどです。そのような場所におめおめと乗り込めば、いくら貴方様でもただでは済みませぬぞ」
「ただでは済まぬ、か……」
その後は淡々とした口調で忠告する楼緩。
しかし、武霊王はそれを聞いてもなお不敵な笑みを浮かべ、
「それこそ俺の最も欲するものだ。俺を追いつめ、恐れさせ、楽しませてくれる。そんな状況下こそ、命を燃やしていると感じられる最高の瞬間なのだ。だから楼緩よ。その言葉は俺の闘争心を煽るだけだ」
まるで悪戯に興じる子供のように瞳を輝かせながら、そう言い退ける。
それを聞いた楼緩は、しばらく無言のまま主君を凝視していたが、やがて大きなため息を吐いて、
「貴方はそういうお方でしたな」
諦めの口調でそう漏らすのだった。
ニヤリとほくそ笑む武霊王。
「して、楼緩よ。お前から見た昭穣王はどのような印象だ?」
「そうですな。一言で言ってしまえば、ただの神輿ですな」
不意に真剣な面持ちに戻った武霊王が訊ねると、楼緩は冷めた口調で即答する。
「神輿?」
「はい。彼は王位に就いてはおりますが、政治の実権は母である宣太后が、軍事の実権は叔父である魏冄が握っており、彼はそれらの操り人形に過ぎません」
楼緩の言葉に、武霊王は少し顔を顰めて考えこむ。
宣太后は先ほど面会した昭穣王の母であり、王である息子に采配を仰ぐことなく武霊王に商売の認可を与えるなど、確かに政治的専横が目立っていた。
そして、魏冄ーー
武霊王は一度だけ、彼と面会したことがあった。
それは、まだ【燕】に遊学中だった嬴稷を時期【秦】王候補として擁立しようとしていた最中だった。
嬴稷を支持する一派の代表として武霊王に挨拶に訪れたのが、嬴稷の叔父にあたる魏冄であった。
会ったのはその一度きりであるが、年下でありながら堂々とした振る舞いは老獪さすら感じさせ、鋭い眼光の奥底からは並々ならぬ野心が滲み出ていたのを、武霊王は覚えている。
ーーなるほど。あの男が実権を握っているとなると、なかなか手強い相手になりそうだ。
【趙】の未来を占う上で、最大の障壁となるであろう【秦】とはなるべく友好関係を築き、その間に【秦】に対抗し得る力をつけるのが得策だ。
しかしその一方で、長大な力を持つ【秦】と覇権をかけて正々堂々と死闘を尽くしたい、という願望が武霊王にはあった。
だからこそ、今後【秦】が躍進するか停滞するか、それを見極めるために昭穣王に会いたい、と改めて思うのだ。
「わかった。俺はその部屋へ行ってみるとしよう」
武霊王は小さくうなずいてから楼緩に言い残し、廉頗と共に廊下を更に奥へと進んでゆく。
「……本当に大丈夫であろうか?」
その後ろ姿を不安げに見送りながら、楼緩はため息と共に呟くのだった。