家に戻ったら玄関に姉貴の靴があった。
「ただいまー」と二階に向け声をかける。返事はない。キッチンへ行って鍋に水を張り、火に掛け、買ってきた野菜を適当に切って鍋にぽい。煮てる間に肉を焼いて軽く下味をつけ、野菜が煮えたらこれもぽい。カレールーを入れたら完成である。
朝炊いた米の残りを皿によそってルーを浴びせていると、匂いを嗅ぎつけたのか二階から姉貴が降りてきた。
「あ、祐士くんだー。おかえりなさいー」
目の下にまっくろなクマのある我が姉貴。チラと目をやると、上下ともにピンク一色の服を着ている。
「えっ、なにそれ」と聞くとぴょんぴょん跳ねながら答える。
「あ、これー? じゃじゃーん、星のマービィパジャマだよーぅ? かわいいでそ?」
「へーすごい」
うふふ、と姉貴は笑った。
「祐士くんはー、いつのまに帰ってたのかな?」
と姉貴が言うので俺はカレーをあごで示す。
「これが作り始められる前には帰ってきてましたよ。ただいまもちゃんと言いました」
「ええー? 嘘だー、お姉さん聞いてない」
「どうせヘッドホンつけて爆音でゲーム配信でもやってたんだろ」
「そんなことないもーん」
俺はカレーをよそい終え、テーブルに置いた。姉貴は食事に極端に時間がかかる。俺はさっさと自分の分を食べ終えた。
「姉貴、俺この後ちょっと出かけるんで」
皿を回収しがてら、そんな風に声をかける。
「そうなのー? いってらっさい」
姉貴はスプーンをくわえながら答えた。
「あ、そうだ――ナイフ、返してもらってもいい?」
姉貴は。
「ん? ナイフ? ああ、
と懐から取り出したナイフを、何の気なしにぺいっと放って寄越した。かしゃーんと音を立てて床に落下するナイフ。俺はそれを拾って、学生鞄に入れた。
「あんがとう。そんじゃ」
「気をつけてねー」
俺は自分の家を後にした。
◆
「っし」
三度、件の石橋の前に到着。俺は自転車を停めた。こぎ始め数秒で手袋をしてこなかったことを後悔したが、いまは別段寒くない。軽く準備運動をして、前かごに入れた学生鞄からナイフを取り出す。
ナイフ――と言っても阿迦鐘は既製品ではない。両刃で、刀身は三十センチくらい。だからまあ、銃刀法違反ではある。だが鋭くはないし、刃の部分をなぞっても怪我はしない。柄の部分には摩耗しているが彫り込みの装飾がある。ようは戦闘目的で作られたものじゃないということだ。少なくとも、生きているもの同士の戦いは想定されていない。
「はぁ、冷た……」
俺は取り出したそれを上下左右、適当に振ってみる。
阿迦鐘は、当たる。
目に見えないもの。俺の目には見えるもの。《へんなもの》に阿迦鐘は触れることができる。理屈は知らんし、これがどういう経路を辿ってきたかとか、どこの誰が作ったものなのかとかは全くわからない。別段興味もない。
しかし、こういうとき有用ではあるのだ――この《へんなもの》に当たるナイフは。
なまった腕にちょっと重い阿迦鐘を右に持ち、空いた左手で、学生鞄から運動靴を取り出す。体育の授業用のだ。白神によれば履物を与えるとオクリオオカミは相手を見逃すらしい。やばいときに使おう。
「さーてほんじゃ、いっちょやりますかね」
俺は歩いて石橋の中央に立った。辺りを見回す。周囲は薄暗く、人の姿もない。だが街灯はついているし、遠く、ショッピングモールと駅の明かりがあるから、ある程度視界は良好だ。
俺は一歩踏み出そうとしてわざと脚をつっかけ、石橋の上で前のめりに転んだ。予期していた動作とはいえ、微妙に恥ずかしい。オクリオオカミは人の後ろをついてくる習性らしい。注意深く背後を見る。が、それらしい獣の姿はない。
――なんだ? 転び方が悪かったのか?
俺は立ち上がり、服に着いた砂を払って、もう一度転んでみる。だがやはり、周囲にオクリオオカミの姿は見えない。
その後も何度か転んだがオクリオオカミは現れなかった。迫真さが足りないのかとも思って「うおっ」とか「あいたー!」とか声もつけたが、一向に効果がない。これじゃただのひとりで転んでいる人じゃねえか。その後も一〇分くらい転び続けたが結果は得られず、俺は溜息をついた。
「はぁ、バカくさ。やめやめ――」
石橋から離れ、自転車まで戻って靴と阿迦鐘をしまい、帰ることにする。なんかの勘違いだったんだろう。俺がこんだけ転んで大丈夫なら他のやつも大丈夫なはずだし、他の条件が必要ならばいま試しても仕方ない。転ぶというのは意外に疲れる。自転車をこぎ出そうとして、ふと何の気なしに後ろを振り返る。
黒い大きな犬がいた。
いや、犬というより、それは――オオカミ……
「うおっ!」
咄嗟にこぎ出そうとして、自転車ごと転倒する。ヤバいと思った瞬間にはもう遅かった。自転車のカゴから学生鞄が飛び出し、鞄から阿迦鐘が滑り出して金属音とともに転がっていく。
「くっそ」
転んだ姿勢のまま肩越しに振り返ると、跳びかかってくる狼の、大きく開いた口が見えた。ギザギザにならんだ歯。赤い舌。
俺はどうにかひっつかんだ鞄を投げつけた。狼はそれに喰いついて、着地。前脚で押さえて中身を嗅ぐ。運動靴が入っているはずだが構わずこちらに視線を向け、ぐるると喉を鳴らした。黄色いふたつの眼球。点のような瞳と目が合う。
これが、オクリオオカミ。
俺は舌打ちする。
「履物を投げると見逃してくれるんじゃなかったのかよ……ッ!」