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第4話:違和感

「履物を投げると見逃してくれるんじゃなかったのかよ……ッ!」


 立ち上がり、こちらが動き出すとオクリオオカミも動き出した。危険かとも思ったが背を向けて走る。背後で獣特有の息遣いがくぐもった。滑り込むように、地面に落ちた阿迦鐘アカガネを手にする。冷たい。構うか。振り向きざま、特に目測もつけず振り抜いた。刀身が空を切る。しかし向こうも危険を感じていたようで、脚を止めていた。姿勢を低め、唸りながらこちらを伺い始める。


「あっぶねえなマジで……」


 悪態をつきながら、俺は少々納得してもいた。


 なるほど、『送り』狼ね――あんだけ転んでも出てこないわけだ。


 帰ろうとしてる奴の前にしか現れないってか!


 オクリオオカミは右に左にうろうろとする。隙を伺っている。俺は阿迦鐘を顔の前に構え、身体の向きでそれを追う。膠着状態だ。このままだと腕が疲れ、反撃できなくなる。


 俺は試しにステップを踏んで距離を詰める。振りかぶる動作をするとオクリオオカミは頭を下げ、後ろへ跳ぶ。阿迦鐘が武器であることを理解しているのか。賢い犬だ。逆に言えば、賢いが、やはり犬は犬。狼は狼。だとすればこの膠着はチャンスともとれる。


「面倒くせーな、もう――」


 俺は阿迦鐘を構えたまま、息を整える。意識を向けてみると、随分荒い呼吸になっていた。肺がやすりでこすられたように熱い。俺はなるべく細く長く息を吐いて、吐いた分次は吸いこんだ。次第に呼吸が整う。


「ふぅ――……」


 大きく息を吐いて、目測。むこうとの距離は三歩、四歩くらいか。飛びかかってきたところに合わせれば鼻面に当てられるか? いや、顔は凸凹が多い。当てるなら後頭部か、喉や腹などの柔らかい部位に刺しこむべきだ。首を狙うのもありだろう。


 オクリオオカミはなおも左右に行ったり来たりを繰り返していたが、次の瞬間「わう!」と大きく鳴いた。勢いよく走り出す。


 同時に『イケる』と俺は思う。


 タイミングはドンピシャ。距離もいい。こいつが俺の顔目がけて跳びあがった瞬間、阿迦鐘を喉に突き入れて、腹までかっさばける。そう確信する。


 しかし――何かおかしい。


 不思議な違和感。どうにもちぐはぐなような、何か間違ったことをしている感じ。なんだ? 何がおかしい? このまま阿迦鐘を振るうことに、何のまずいことがある?


 考え込んでは駄目だ。喉元に喰いつかれる。喰い殺されるって話もある、と白神は言っていた。焦って違和感の正体を探す。目の前の狼――オクリオオカミ。白い牙。赤い舌。黄色い目。黒い毛並。手がかりはない。別か? 左奥に目をやる。俺が乗ってきた自転車。倒れた自転車。関係ない。今度は右。ただの丘だ、これも違う。左前方には数メートル先に例の石橋。そしてその手前に転がる運動靴……駄目だ、わからない!


 俺は阿迦鐘を握る手に力を込めた。殺すしかない! 違和感は後で調べりゃいい! そう腹に決め、再びタイミングを計る。駆け出したオクリオオカミは俺のすぐ目の前までやってきている。狼が跳び上がるべく、駆ける勢いはそのまま、ぐっと姿勢を低くした。俺は大きく息を吸い込み、その瞬間――。


 ふわりと、良い香りがした。


 脳内で首を捻る。この、匂いは……? 思い出す。最近嗅いだ匂いだ。食べ物ではなく、かんきつ類のような甘い香り。それは何かの――


 何かの、シャンプーのような?


「あっ?」と思い当たった瞬間、オクリオオカミが跳び上がった。


 俺は、咄嗟に――


 ◆


「で、咄嗟に顔をかばった際に腕を噛まれたというわけか。まったく最近の学生は弱っちいね。野犬ごときに負けるなんて」


「は? あんただって野犬と戦えるタマには見えないんですけど」


「おー、大人にそういう口の聞き方しちゃう? 治療してやんないよ? まあ、内科的な方はもうやっちまったけどさ」


 オクリオオカミの件を何とか片付けた俺は、情けないことに左腕を負傷した。血が出ていたのと、一応感染症の可能性も疑って、現在絶賛診察中である。


 溜息を吐きながら、俺はぼーっとした顔のタバコ臭い白衣の女――牛田桔根に腕を差し出す。名前の通り、根っこのようにゲソっとした女である。歳は姉貴と同じ。世話になるのは正直億劫だったが、現在時刻は午後十一時。この時間に開いてるクリニックとなると、自転車で行ける範囲ではここしかなかった。


「ん、噛み跡はそんなに深くないね。包帯巻いとけば多分大丈夫だろう。内服薬も出しといてやる。苦いけどちゃんと飲めるか?」


「飲めるに決まってるでしょ。何歳だと思ってんだよ」


「何歳だろうがガキはガキだろ? ガキは苦い薬が嫌なもんじゃないか。私だってできれば飲みたくない」


「その理屈だと牛田さんもガキってことになりますけど?」


「あ? そうか? まあいいじゃんかそんなん」


「どういうことだよ……」


 俺はがっくりきて、頭を抱えたくなる。


「そうだ、良いことを教えてやろう。夢分析においては、犬に噛まれる夢ってのは凶夢なんだって知ってるかい?」


「あー? そうなん? ていうか怪我した相手によくそういう不吉っぽい話できますね」


「まあそう言うなって。親切で教えてやってるんだぞ? 犬に噛まれる夢というのは、人間関係の悪化を暗示しているそうだ。無意識に感じていた人間関係の違和感が、犬に噛まれる夢という形で表出するのさ」


「ふーん。そいつは怖いっすね」


 だがそれをいったら大抵の悪夢は人間関係の悪化を暗示しそうだ。牛田もそれは思っていたようで、次のように続ける。


「何にでもあてはまるように思えるかも知れないが、犬の夢というのは特に、自分より下っ端の人間との関係を指すそうだ。犬は昔から人間と親しい獣だからねえ。命令に忠実な、家族の一員。話せば言うことを聞いてくれる存在。夢において、犬はそういう人物達の象徴なんだ。具体的には弟や妹、息子か娘、あるいは仕事の部下とか――」


 その後の言葉は俺が引き取った。


「部活動の後輩とか?」


「そう、まさにそういう感じ」と牛田は俺を指さす。


「だから犬に噛まれる夢を見たら、省みた方がいい。君は最近、そういう相手に冷たい態度をとったりしなかったかい? 自覚がないだけで、無意識的にはそう思う要因があるのかも知れないよ?」


 ん? と牛田はこちらを伺うような表情で、ひとさし指を段々俺の顔に近づけてくる。俺は空いてる方の手でガードした。


「夢の話なんかされても知らないっすよ。俺実際に怪我してんすから」


「まあ、そうなんだけどね」


 牛田はすっと手を引っ込める。単にからかいたかったらしい。もしくは喋りたかっただけか。このひんまがった性格が、俺がこいつの世話になりたくない一番の理由だ。

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