*┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈*
傷はもう治ったのですか。
とても大切なことをジルベルトに聞きそびれてしまった。今頃になって、どうしてそんな事を思い出したのか。
マリアはおそるおそる汚れた着衣を脱ぎ捨てる。この浴室は広すぎて落ち着かず、後ろで誰かがマリアの様子を伺っているのではないかと疑心暗鬼に囚われてしまう。
──こんな気持ちになるのは、これまで一人きりになれない環境にいたから?
下働きを始めてから、マリアにプライバシーなんてものは一度も与えられた事がなく。いつでも誰かに見張られているような気がしていたし、実際にそうだった。
居酒屋で働き始めてからはもっと酷かった。入浴中にまでミアたちがやってきて、体つきが貧相だと笑われたりもした。
念のために背後を確かめるけれど、浴室はしんとしていて人の気配はない。少しばかりほっとして、乱れ落ちたまとめ髪をほどきながらマリアは浴槽を眺め、思案に暮れる。
──このお湯、入れたばかりっ……。
ほんとうに私が一番最初に浸かってもいいものかしら?
気を抜いたところで誰かが入ってきて、手違いだから出なさい! なんて叱られそうで……。
この浴室だけでも、昨日までマリアが寝起きしていた屋根裏部屋の倍の広さはあるだろう。乳白色に輝く湯殿は大理石でしつらえられていて、とてもじゃないが使用人が使えるようなものとは思えない。
湯船にゆっくりと足を浸けながら、マリアは思案に暮れる。
──私……。
本当に、アスガルドの『皇城』に来てしまったのね。
天高く聳える城門を抜けてから、白亜の城の正面に辿り着くまでの長い時間と言ったら! それはもう呆れかえるほどで、雨粒が光る木々の合間を馬車がひたすら進めど、皇城そのものがちっとも現れないのだ。
──帝都も皇城も、いったいどれほど広いの……!
これでは、いざとなっても逃げ出すことは不可能に近いだろう。マリアは人知れず腹を括る。
皇城の正殿──剛健そうな衛兵四人が佇む──がようやく姿を現すが、馬車はそちらへは向かわず脇道に逸れる。
正殿から少し行った場所、美しい白薔薇の庭園を抜けた先。豪奢な建物の正面で馬車を引く馬たちは歩みを止めた。
『獅子宮殿』と呼ばれるこの宮が、ジルベルトの住まいなのだという。
繊細な浮き彫りの施された双扉が象徴的で、威嚇しあう二頭の獅子が見事に彫り込まれている。静寂に包まれたその場所は雨上がりの木陰に遊ぶ小鳥が囀り、マリアの緊迫する心を和ませた。
皇城の敷地内にはこの『獅子宮殿』をはじめ、宮廷に従事する貴族たちが住まう宮が数多く存在するらしい。
獅子宮殿に入って早々、待ち構えていたように気難しい顔をした壮年の男性たちがジルベルトを取り囲み、身振り手振りを交えながら口々に何かを訴える。
彼らの剣幕をなだめながらジルベルトはマリアに「すまない」と目配せをし、男性たちに
──あの方達、よほどジルベルトの帰りが待ち遠しかったのね……?
唖然と目を丸くするマリアだが、双扉の脇に佇む黒髪の青年の影に気づく。
「ひっ!」
「君がマリアか」
帝国騎士団の立派な騎士服を纏い、ジルベルトとはまた違った印象の整った顔立ちの青年が仔猫のジルを抱くマリアに冷ややかな眼差しを向ける。
怜悧な翡翠の瞳の奥には懐疑的な光を宿し、マリアの本質を見極めようと鋭く揺らめく。
歓迎されていない……ひと目でマリアがそう感じるほどに。そんな彼の瞳から逃げるようにお辞儀をする。
「は……初めましてっ。マリアと申します」
「ジルベルト様はご多忙ゆえ、ここからは私が案内する」
青年は仔猫のジルを抱いたマリアを頭から爪先まで眺め、あからさまに眉をしかめた。その辛辣な視線に足がすくみそうになる。
──こんなに酷い格好だもの。しかめ面をされても仕方がないわ。
「猫を飼うのか……」
小さく舌打ちが聞こえ、ジルを抱えたマリアはいたたまれなさに苛まれる。
マリアの小さな鞄を持って控えるのは、居酒屋を出る際に荷造りを手伝ってくれた女性だ。青年が目配せをすれば荷物を置き、深々と一礼をする。
「申し遅れたが、私の名はフェルナンド。ジルベルト様の従者だ。この獅子宮殿に於いてわからぬ事があれば、メイドを通じて私に尋ねなさい。何度も言うがジルベルト様はご多忙の身だ。余計な世話をかけぬよう心に留め置くように。よいな?」
「はい……フェルナンド様」
お世話になります、と言うのも何だかおかしな気がする。マリアはただ一生懸命に頭を下げた。
「宵にもなれば、そなたはジルベルト様の自室に伺うのだ。夕食を摂るまでに、その汚れきった身体をしっかりと清めておけ」
──ということは。今夜から早速、ここでの『仕事』が始まるのね……?
獅子宮殿の外廊は閑散としていて、マリアとフェルナンドの他に人の気配は感じられない。
雨上がりの空から光が差しはじめている。外廊に沿って植えられた木々の、鮮やかな緑葉の上にぽたりと水滴が落ちた。
フェルナンドの背中を見つめながら、その異様なまでの静けさがマリアの緊張を増長させる。
片手で荷物を持ち、片手には仔猫のジルがおとなしく収まっている。中庭を囲む広々とした回廊を渡り、案内された先がこの浴室付きの部屋だ。
ちゃぷん………
白い浴槽に
「……気持ちいい」
—— ジルも一緒にお風呂に入れてあげれば良かった。好奇心旺盛なジルのことだから、今頃は広いお部屋をひとりで探検しているかもしれないわね?
あたたかな湯の心地よさに、マリアが恍惚と目を閉じたとき。
「失礼いたします。あら、お召し物……こんなに汚れて? いったい何をどうすればこんなふうになるのかしら……」
静寂を味わうマリアの耳に突然飛び込んできた声。慌てた拍子に湯船の中で足を滑らせ、ざぶんと頭から湯をかぶる。
「………誰……っ?!」