「ご苦労さん」
署に戻り、別件の調書を作り終えた瞳に小野寺が声をかける。時計の針は午後〇時に差し掛かろうとしていた。瞳が所属している捜査第一課のオフィスはがらんとしていた。奥に見えるデスクで、キーボードを叩いている刑事の他には、小野寺と瞳を入れて十人ほどしかいなかった。
「小野寺さんこそ」
二人の間にぎこちない空気が流れる。沈黙に耐えかねた瞳は、気になっていたことを口にした。
「そういえば、木下サチさんって結局」
「自殺。だとさ。凶器は包丁。右手のあれさ」
「そうですか……」
「しかしまあ妙な事件だったな」
「はい…………人って自分の体をあんな風にできるんですね」
「驚きだな」
「まったくです」
「事件のこともそうだが、お前にもな」
「どういう意味です?」
瞳は小野寺を睨む。小野寺は、根は善性の人間なのだが、ずっと男社会で生きてきた経歴のせいか、時々無自覚に女性を軽視するような発言をしていた。注意すればやめるのだが、本人に悪気がなく、意識しての発言ではないため、きつく咎めることは難しかった。今回もその類のことだろうと、瞳は決めつけていた。瞳の嫌悪を顕わにした態度に小野寺は、たじろきながら説明する。
「いやいやいや。違うんだ。胆力に驚いたと言っているんだ」
「……女には男ほどの胆力がないとでも?」
「違う違う。そう食って掛かるな。……まったく。これだからいのしし年の産まれは」
「ちょっと!」
瞳は幼い頃から猪突猛進な性格で、自他ともに認める生粋のいのしし年産まれだった。妹の千夏に気性の荒さと行動力を何度もからかわれた。昔はそれで良かったのだが、年齢を重ねてくると、そのことが気恥ずかしくなった。自分の性格を恥じ入るようになってから、いのしし年産まれであることを突っ込まれると、ついつい過剰に反応してしまう癖がついてしまった。普段は自分を律して、大人しく冷静に行動しているが、この癖だけは治りそうもなかった。
この時も瞳は声を張り上げてしまい、遠くから聞こえてきていたキーボードを叩く音が一瞬だけ止んだ。他の刑事たちの視線が瞳と小野寺の二人に注がれる。少しの間をおいてまた打鍵音が聞こえてきた。刑事たちもそれぞれの仕事に戻る。瞳は頬を紅潮させてながら「まったく」と言って、深呼吸を繰り返していた。
「悪い悪い。弱点をついて」
「良いんです…………それで、なにが言いたいんです?」
「つまりな、男でも駄目なタマは駄目さ。普段は青筋立てて威張ってても、非常時にしなびるんじゃあ、役に立たない。ふにゃちんさ」
どうしてこの男が刑事をやれているのだろう。瞳ははなはだ疑問だった。タマだのなんだの、これまでセクハラで訴えられてなかったことが不思議だった。
「正直に言うが、俺は木下サチのあの有様をはじめて目にした時、悲鳴を上げそうになった。情けないだろう?まあ、なんとか我慢したがあのまま口が開けば出ていただろうな。でもお前は驚き、うろたえながらも毅然とした態度で職務を遂行した。立派だよ。そう言いたかったんだ」
「じゃあ、はじめからそう言ってください」
「はっはっは」
小野寺は豪快な笑い声を上げる。それからも、小野寺との会話は続いたが、適当に流しながら瞳は仕事を終わらせる。
「さて、仕事も終わったし、私はそろそろ上がりますね」
「おう。ご苦労」
素早く帰り支度を済ませ、警察署の建物を後にする。駅まで走れば終電に間に合う時間だった。しかし、今夜は一人でこのまま帰りたくなかった。木下サチの、臓物が散乱していた光景が脳裏に焼き付いて頭から離れない。ビルの隙間風が瞳の肩を撫でていく。その感触も今日に限っては不愉快だった。
気分を変える必要がある。時間がもっと早ければ妹の部屋を訪れることもできたが、姉とはいえ夜更けに突然訪問されるのも迷惑な話だろうし、彼氏との水入らずを邪魔したくはなかった。
「あいつ、まだ居るかな」
瞳は、暇であることを願いながらスマートフォンを取り出して『岩切』と名前がついたトーク画面を開く。素早く文字を打ち込んでいき、送信する。返信に時間がかかると思い、そのままその場で待つつもりだったが、岩切からの返信は早かった。
「やったね」
瞳はまた素早くメッセージを返し、駆け足で駅に向かって行った。
「やっほ~」
電車をいくつか乗り継いで、瞳はK大学附属病院までやって来た。門の所で気怠そうに佇んでいる細身の男に声をかける。呼び出し相手である岩切だった。
「よお」
岩切悠二は遺伝学の研究医としてこの附属病院に勤務していた。瞳とは高校の時からの仲で、一番の親友でもあった。瞳にとって学生時代を思い出させてくれる唯一の存在が岩切だった。
「相変わらず遅くまでやってるのね」
「まあ、これくらいは普通だよ。この後も戻って色々やるし」
「間が悪いのね。呼び出してなんだけど、また今度にする?」
「良いよ。気分転換は必要だ。そういえば、この前はありがとう」
「この前?」
「明美の三回忌」
瞳は「あっ」と声を上げた。
宮本明美は岩切の婚約者で、二人と同い年だった。面識は少ししかなかったが、穏やかな性格で落ち着いた印象があった。また瞳と宮本明美は瓜二つとまでは言わないが、容姿がそっくりだった。岩切に「見てくれは同じなのに一方は落ち着いていて、一方はいのししだもんな」とそのことでよくからかわれていたことを思い出す。
彼女は二年前、交通事故に遭い他界していた。死因は失血死で、輸血が間に合わなかったと記憶してあった。
「いいのよ」
瞳は宮本明美のことについて触れなかった。
宮本明美が生きていた頃、岩切は会う度に婚約者の惚気話を延々と瞳に聞かせていたものだった。岩切が心底嬉しそうに話す様子を見て、瞳は耳を傾けていた。しかし、何事にも限度というものがある。はじめは純粋に羨ましく聞こえていた話も、内容は違えど何度も聞かされていると煩わしくなり、嫉妬心に変わってしまう。途中からは、瞳は、私に当てつけとして話しているのではないかと訝しんでいた。
しかし宮本明美が死んでから、岩切は一切彼女の話をしなくなった。それに加えて岩切はどこか人が変わったように思えた。
そういえば悠二が今の道に転向したのも、明美さんが亡くなってからだったわね。
愛する人を失った悲しみが、岩切にどのような影響を与えたのか計り知れなかったが、目の前にいる岩切悠二という男は、人のためを思い行動できる正義感のある人物だった。岩切の研究テーマは、明美の死因と関係があるのだろうか、と瞳は分からないなりに考えていた。
「それで、どこ行くんだ?」
互いに視線を交わすと、ぶらぶらと歩き出した。
「特に決めてない」
「俺、あんまり店しらないんだが」
「適当に見つけて入れば良いよ」
「はいはい」
それから十分近くが経った頃、ようやく二人で入れる居酒屋を見つけ、腰を下ろすことができた。
「とりあえず生二つで!」
瞳が店員に注文をつける。何の気なしに店内を見回すと、どのテーブルでも談笑が盛んだった。中にはすっかり出来上がっているグループもあって、常にげらげらと大口を開けて笑っている。それに比べ、二人の席は静寂が主役で、同じ店内にいるのかと疑いたくなる空気だった。
「にぎやかだね~ここ」
瞳がはにかみながら岩切に話題を振る。
「そうだな」
岩切は素っ気なくボールを返す。
「もう~。辛気臭いぞ悠二~」
「おいおい、入ってまだ酒も飲んでないのに、もう酔ってるのか?」
「酔ってないし」
岩切は瞳の顔を凝視する。
「気のせいだったら申し訳ないんだが、お前の顔、赤いぞ」
「そんな訳ないでしょう?まだ一口も飲んでないのに」
岩切の指摘通り、瞳の顔には既に赤みが差して、言動も日ごろの彼女から徐々に離れていた。瞳は酒飲みだが、すぐに酔っぱらってしまう。体調があまり良くない時は、アルコールの臭気を嗅いだだけで酔ってしまう。岩切はそのことを重々承知していた。
「それで、なにかあったのか?」
岩切の質問と同時に、ジョッキになみなみと注がれた生ビールが運ばれてきた。
「お通しです。どうぞ」
「ありがとうございます」
岩切は店員に礼を言い、ジョッキとお通しが盛り付けられた小鉢を瞳の側へ寄せる。
「それじゃ、乾杯~」
カチンとグラスのぶつかる音が鳴る。
「で?なにがあったんだ?」
「……まあ色々」
「良いから話してみろよ」
瞳は酒の力を借りて、小野寺とのやり取りや木下サチの変死体のことを洗いざらい喋った。
「なるほど」
「これ内緒だからね。バレたらクビだから」
「分かってるよ」
「それで、話を聞いてなにか言いたくなった?」
「まあ。とりあえず婦警誕生までの歴史を教えてやろうか」
「断っても話すんでしょ?」
岩切は瞳の言葉を無視して語り始めた。
瞳は頬杖をついて、岩切から流れ出る言葉の濁流を聞き流しながらも、脳内で婦警の歴史を要約していった。
日本において、女性が警察官としてはじめて採用されたのは、一九四六年のことだった。
この年、警視庁で六十二名が採用された。採用数が少ないのは、日本社会は男尊女卑の思想が強かったことと、軍隊と同じく警察組織は完全な男社会であり「女性には務まらない」と根強い差別が背景にあった。その証拠に、戦前では女性の任官が禁止されていた。
戦後になると、GHQの指導もあって、日本ではじめて婦警制度が実現した。しかし、初期の婦警の役割は広報や、「職場の花」という言葉があるように、あくまで装飾品としての側面が強かった。婦警は男性職員が行っている職務に従事することはできなかった。
だが一九五十年代頃から、女性の社会進出が増加し、警察内での男女差別も徐々に弱まっていった。それ以降、婦警の数は増加傾向にある。
「だから、その小野寺って人はこういう背景も知っていて、瞳をほめたんだろうよ。昔ほどひどくはないだろうが、差別は完全になくなった訳じゃないからな」
「ああそう。ご高説ありがとう。その他の話についてはどう思う?」
「……変死体のことについてか?」
瞳は黙って首を縦に振る。彼女の目には好奇心と、真実を追求しようとする光が宿っていた。小野寺の話は撒き餌で、本題はこちらにあった。瞳が昔からよく使う手だった。居酒屋に誘ったのも、話を切り出しやすくするためだった。
「変わってないな」
そう小さく呟いて、岩切は思考を巡らせていた。
瞳はビールを飲みながら、岩切の態度をどことなく観察していた。岩切は気づいていないが、彼は考え込んだり、何かの決断を迷っていたりすると、左腕に右手を添えて左手の人差し指で首筋を掻く癖があった。
心当たりのある前例があって、話すか迷っているのだろうか。
瞳は無意識の内に岩切の話に期待を抱いた。
「いくつかあるにはあるな」
「ほんと?」
「ああ。と言っても、そっくり同じという訳じゃない。関連性が見られるという程度のものだが」
「いいから聞かせて」
岩切は冷水を流し込み、喉を潤した。周囲では賑わいがどんどん増している。笑い声、怒鳴り声、机を叩く音。喧噪が二人を飲み込んでいく。周囲との熱量の差はどんどん広がるばかりだった。
「まず前提として、通常、人間は自分の体をそこまで傷つけることはできない。痛覚があるからな。防衛本能と言ってもいい。ある程度自傷行為をすると、脳がストップをかけてくる。自殺者っていうのは、多くの場合、外からの力を借りている。首吊り、飛び降り、線路への飛び込みなど。それらの死因は、その行為をしたことで起きる現象にある。線路に入っただけで人間は死なない。線路に入って、猛スピードで走る電車と衝突してバラバラになるんだからな」
岩切は箸で冷奴の角を綺麗に切り取って口へ運んだ。瞳は岩切の切った冷奴が欠損死体に見えて目を逸らした。
「つまり木下サチさんは通常ではなかった、と」
岩切は頬張りながら頷く。彼女の母親である木下喜美江が言っていた言葉が脳裏をよぎった。岩切は水で口の中のものを胃に流し込むと再び口を開いた。
「ヘロインは知ってるな? それならいい。一九五十年代のアメリカで、貧困層の間でヘロインが大流行した。ニューヨークやロサンゼルスのような大都市をメインに広がった。ヘロインはオピオイド系の鎮痛剤の一つだ。
オピオイドはケシ由来のアルカロイドやそこから合成された化合物、または体内に存在する内因性の化合物を指す。で、オピオイドには過度の多幸感をもたらす作用があった。言わずもがな、過剰な使用は薬物に対する依存や副作用を発症させる」
「モルヒネの代用品として開発されたっていうのは聞いたことあるな」
麻薬がらみの事件を担当した際、仲の良い鑑識から教えて貰ったことを思い出す。
「そう。モルヒネも同じオピオイド系の化合物で、ヘロインは『モルヒネに代わる依存のない万能薬』と題されて発売されていた。まあその結果は知っての通りだ。ちなみに、一般的にヘロインのことをジアモルヒネ、化学的には3,6-ジアセチルモルヒネと呼んでいる。
さて、ヘロインを吸入した使用者において、海綿状白質脳症と呼ばれる病態が報告されている。症状は様々で、運動不穏、無関心、協調運動障害、麻痺などがある。これは時間が経って消失する、治ることもあるが、症状が進行すると、自律神経に異常をきたしたりそのまま死に至ることがある。世間の注目を浴びたのは、この『自律神経の異常』という部分だった」
「アメリカで流行した時、そのなんとかっていう症状が原因で亡くなった人、自分で自分を傷つけた人がいるのね?」
「話が早くて助かる。その通り。自律神経が狂って、自傷行為を繰り返し、結局死んだ。遺体は凄惨極まる状態だったみたいだな。…………あったあった。これだ」
岩切はスマートフォンの画面を瞳に向ける。画面には白黒で撮影された惨たらしい死体が写っていた。新聞の切り抜きだろうか。岩切に小さく礼を言って、写真を下げさせる。一息ついて、話を再開させた。
「つまり、木下サチさんの場合も、薬物が原因という可能性があると」
「そうだ。司法解剖はまだなのか?」
「うん。でも、現場に来た医師の話によると薬物を摂取した痕跡は見つからないって。まあ今ではカプセルに入っている物もあるから、薬物を摂取したから注射痕が残るとは言えないけど」
「そうだな。まあ俺は実際に死体を見た訳ではないから、なんとも言えないが調べてみる価値はあるだろう。日本では一般にヘロインなどの薬物は流通してないから、検出されればその女性が裏のマーケットでなのか、ブローカーを介してやり取りしていた証拠となる。
そうだ。ついでに言うと、ヘロインが血液中から検出されるのは平均して約六時間から十二時間となる。ところが毛髪だと数か月から一年単位で検出されるから、解剖医に伝えておくんだな」
岩切のこの話に瞳は同意した。彼の言う通り、薬物の市場は海外に比べて小規模であり、広く普及している訳ではない。しかし、薬物絡みの事件は数年連続で増加し続けている。その歩みは牛歩であるが、だからと言って見逃せる類のものではない。少しでも可能性があるのなら、追究するべきだと瞳は思う。
「ありがとう。ちょっと掛け合ってみるわね。この他に例はないの?」
「あるにはあるが、全部薬物が原因のものだから、基本的な内容は変わらない。…………すみません」
岩切は店員を呼んで、何本かの焼き鳥とだし巻き卵を注文した。瞳はピリ辛きゅうりを追加で頼む。頼み終えると、岩切は瞳に顔を向け話し出した。
「ヘロインの他に代表的な薬物だと、オキシコドン、メタドンなどがある。全部オピオイド系の化合物だ。中でも、オキシコドンは重度の急性の痛みを抑制できる。本来は癌の疼痛治療に用いられる鎮痛剤なんだが、乱用して依存した挙句、自傷行為に走ったという例はある。このオキシコドンも、ヘロインと同じく毛髪中には長期間で成分が残る」
「分かった。それも併せて伝えておく」
「ああ、他にもあった」
「自傷行為の話?」
「そうだ。お前が検分した彼女や、薬物中毒者よりかは、損傷は激しくない。あるカルト宗教に所属していた連中が自分の腹を切り開いて、臓物を供物として神に捧げていたんだと。……腹を割くのは自分だが、内臓を取り出したのは別の人間らしいな。死ねば崇め奉る神に会えると洗脳され、行為に及んだようだ」
「ひどいわね…………でも、洗脳でそこまでできるものなの?」
「俺は専門家じゃないからなんとも言えんな。まあ、やりようはあると思うがね。洗脳するだけならオウムの例もあるしな。ただ、自分の腹を捌かせようってなると、洗脳とは別の外的な力が欲しいな。しかしまあ今から数年前にこんな事件があったとはね。時代錯誤に感じるのは俺だけか?人間の精神構造は、有史以来、進化もしてなければ発展もしてないんじゃないかな」
瞳は頷きながらこれまで携わってきた事件のことを思い出す。
人間は様々な理由で他者を傷つける。中には同情できる類のものもあった。恋人を殺されたからその復讐をした、状況証拠は揃っているのに明確な証拠がないため裁判で無罪となったのが許せなかった、少年法によって守られて実刑には及ばなかったから、など。そういう者たちには、まだ救いがあると瞳は思う。どんな理由があろうと、他者を殺めることは赦されないことだが、彼らはそれを認識している。認識していてなお、暴力というヒトに根差す本能を抑えることができなかったのだ。
しかし、ただ己の快楽や欲望を満たすためだけに何の関係もない他人を殺す人間も存在する。そのような人物は、普通の人間とはどこか違うことを瞳は肌で実感していた。彼らには善悪がない。彼らにとって殺人とは食後のデザートのようなものだ、と小野寺が語っていた。本来は必要がないのに、そうしたいからというそれだけの理由で人を殺す。被害者や、被害者に関係する人々の感情を無邪気に踏みにじって、未来を奪う。瞳には理解できなかった。ただ本能のままに生きている獣としか思えなかった。
彼らのような犯罪者の存在を考えると、岩切の言うことは間違いではないかもしれない。
「まあ、一部の人たちはそうかもね」
「どうした?」
「ちょっと、昔担当した事件を思い出してね」
注文したつまみがテーブルに運ばれてきたので、二人はこの会話を中断した。話の内容を聞かれ、店員に注目されるのを避けたかった。
「美味そうだな」
「うん」
岩切は好物であるぼんじりにかじりついた。満足気な表情を浮かべ、瞳にも分けようとする。
「私はいい」
「どうして?」
「気分じゃない」
「……死体を想像して喉を通らなくなったか?」
図星だった。だが瞳は恥じたりしなかった。瞳には、木下サチの話を聞き、薬物中毒者の死体を目にしておきながら、これだけ食欲旺盛な岩切こそが奇異に映る。
「よくそれだけ食べられるわね」
「ああ。今日も一日研究室に籠っていた。腹が減ってしょうがない。……確かに亡くなった人についてはご愁傷様だとは思うが、俺の食欲には関係ないからな。健康に生きていることに感謝しないとな」
そう語る間にも、岩切は焼き鳥をすべて食べ終えて、だし巻き卵も半分は平らげていた。
「なんだ。あの爺さん元気になったのか」
「え?」
「ほら。今流れてるだろ」
岩切が顎で示した方向に視線を移すと、天井の隅に備え付けられた薄型テレビがニュースの速報を流していた。
「『六条財閥の六条弘隆、危篤から回復する』か。長生きだな」
「この前も倒れて復活してたよね」
六条弘隆は、数年前猟奇殺人の容疑をかけられていたことがあった。六条家に仕える使用人たちが、胃や腸、腎臓などの主要な内臓が切り取られている死体を埋めているのを目撃されたことに起因していた。六条家の使用人の一人が、金に目がくらみ品物を盗み出そうとしたのを別の使用人に見咎められ、その者を惨殺したというのが真相だった。
瞳はその事件に関わっていなかったが、小野寺が辛気臭い顔を浮かべながら「気に入らねえ」と呟いていたのを思い出した。
「ああ。軟弱な若者はどんどん自分で命を絶っているというのにな。……戦後の時代を生き抜いた奴っていうのは図太いんだろうな色々」
そう言うと岩切は好物のぼんじりを追加で注文した。
瞳は岩切の言葉を脳内で反芻しながら生ビールを喉に流し込んだ。
岩切と飲みに行った翌日、厳密に言えば十時間余り後、瞳は小野寺に掛け合い、薬物接種の可能性があるとして司法解剖の手続きを進めていた。作業を進めながら、被害者の母親である木下喜美江にも小野寺に話したものと同じ内容を伝えた。
「分かりました……。結果は、結構です……」
電話越しに聞こえる喜美江の声は今にも消え入りそうなほどか細く、娘の死を思い出させてしまった挙句、違法薬物に手を染めていたかもしれないと疑わせたことを瞳は悔いた。
数時間後、解剖は岩切が勤めるK大学附属病院で行われることが決定した。午後一時過ぎ、木下サチの遺体はK大学附属病院へ搬送される。小野寺は別件の対応に追われていたため、瞳一人が立ち会うこととなった。
最寄り駅に着き、そこから歩いて行く。まだ六月の末だというのに、空は青々として太陽は容赦なく人々を照り付ける。動いていなくても汗が噴き出す暑さだった。早く日陰に入りたい一心で、瞳は歩調を早める。昨夜岩切と待ち合わせた門を通り過ぎ、建物の中へ入る。エントランスでは、解剖担当の執刀医である沢村が瞳を待っていた。やっと着いたと一息つく暇もなかった。
「お疲れ様です。急なことですが、本日はよろしくお願いいたします」
「お疲れ様です。大丈夫ですよ。ちょうど空いてたので」
解剖室へ続くリノリウムの廊下を二人は歩いて行く。夏晴れの光が射し込み所々にまばゆい光沢が生まれているが、周囲には湿った陰惨な空気が漂っていた。昼間だからだろうが、照明はついていない。瞳が履いているローファーのコツコツという心地の良い音と、沢村のゴム長靴のキュッキュッという音が混ざり合って薄暗い廊下を舞台に不協和音を奏でている。
廊下を曲がり突き当りのドアを開ける。室内から水の流れる音が響く。かなりの勢いで水が出されていた。一間区切られた向こう側が解剖室になっていて、解剖室の様子はガラス窓から見ることができた。部屋の中央に解剖台が設けられ、木下サチが横たわっていた。若さ特有のきめ細かな艶のあった肌は、今では紫がかった色に変色していて、死の臭いを放っている。解剖台のすぐ横に流しが設置されており、ミントグリーンのスクラブをまとった男が、解剖に使う用具を丁寧に洗っている。流しの蛇口は通常のものより広くなっている。ほとばしる水の柱は、白く太い。
「市川さん、これに履き替えてください」
「分かりました」
瞳は渡されたゴム長靴に履き替え、ローファーを指定の場所に置く。解剖室にいるのは、執刀医の沢村、臨床検査技師、解剖助手、写真技師、記録係と刑事である瞳を含めて六人だった。
全員が同じ長靴を履いている。解剖がはじまると、水は常に流しておくため、十坪余りの室内は水浸しとなるためだった。
「薬物、ヘロインを摂取した疑いがあるそうですね?」
助手と同じスクラブを身につけながら沢村が瞳に確認する。
「はい」
「ヘロインの成分が血液中に残るのは通常六時間から十二時間になります。その他の薬物だと、種類にもよりますが、たいていの場合十二時間から四十八時間の間です。最後に摂取したのが死亡日だとしても、おそらく残ってないと思います。そのため毛髪検査も行います。よろしいですね?」
「はい。お願いします」
午後二時ちょうど、担当の法医学者である沢村と解剖助手によって解剖がはじめられた。沢村は慣れた手つきで遺体にメスを顎の下から胸部にかけて滑らせる。これで木下サチの体内がすべて露わになった。いくつかの、あるべき臓器がそこにはない。沢村はカッターに持ち替え、肋骨を折って、一本ずつ除去する。
「……肋骨に1センチ程度の傷あり」
言いながら沢村は肋骨をすべて取り除く。その後、肺を取り出して助手に渡す。助手は肺の重量と大きさを測定した。結果を口述し、記録係が伝えられた情報を専用の用紙に書き留める。その間、摘出された肺は様々な角度から写真技師によって撮影される。そのため、解剖室にはフラッシュが絶え間なく光った。瞳はその閃光を見ながら、マスコミが押しかけて来た時の様子を思い出していた。
解剖が終了したのは午後三時を過ぎた頃だった。
「結果が分かればすぐお知らせします」
沢村は解剖を終えると、すぐに検査をはじめる旨を瞳に伝えた。瞳はすぐに連絡が取れるようにと連絡先を渡した。
瞳が司法解剖に立ち会っていた頃、千夏と和彦の二人は診療所を訪れていた。院内の待合室は、どこかで聞いたことのあるピアノのメロディーがゆったりと流れていた。千夏は和彦を待つ間、瞼を閉じて眠ってしまわないように気を張っていた。診察を終えて、和彦が戻ってきた時、千夏の体には無駄な疲労が蓄積していた。
「和彦さん……どうだった?」
和彦の腕に手を添えて、千夏は状況を聞いた。和彦はなにも答えなかった。
「市川さん」
名前を呼ばれ、千夏は声の方向に顔を向ける。和彦が出てきた引き戸の傍に医師の大和田が立っていた。千夏は和彦をソファに座らせてから、診察室に入った。ドアは半自動で、手を離すと閉まっていく。背後で呆然と座っている和彦の姿が、だんだんと見えなくなっていった。
「こちらにおかけください」
「ありがとうございます」
大和田に促され、千夏は腰を降ろした。
「高野さんね、結論から言うと鬱ですね」
和彦は中程度の鬱状態であると診断が出た。
千夏は驚かなかった。むしろ、やっぱりそうかと納得していた。鬱の症状について詳しい訳ではなかったが、それくらいのことは、ネットを使っている人間ならある程度察することができる。
千夏にとってこの診断結果は当然のものであった。しかし、だからと言って喜べる訳ではない。職場で良くしてくれた先輩である土井和子も鬱になって休職していた。後任がなんとか仕事を回している状態だったが、彼女が得るはずだった実績や、経験の機会が損なわれてしまっている。和彦もそうなってしまった。鬱の状態で小説を書くというのは、とてもじゃないができないだろうと千夏は考えていた。仮にできたとしても、良質なものが産み出せるとは思えない。その結果が、更に和彦を追いつめてしまうことになるだろうとも。
千夏の考えに同調するように大和田は口を開いた。
「作家業ということですが、一旦止めた方が良いでしょう。 ああいえ、既に連載を止めているのは把握しています。その他のことです。例えば、物語を考えたり、プロット……っていうんですかね、そういう創作活動に関わることをです。今のままだと、満足な作品を作ることは難しいと思います。その状態で、作品を作ろうとして挫折し、自分を責めてしまう。これは高野さんが回復する妨げになります。高野さんと同じく、書き物を生業にしていた友人が私にもいました。しかし彼は今私が言った悪循環に陥って、最終的に自殺してしまったんです。そのことを知った時には手遅れでした。……創作活動に身を置くことで、改善できると診断する医師もいるでしょうが、私は反対です」
千夏は静かに首肯した。大和田と自分の考えが同じだと分かって安心していた。
和彦は書くことが好きだ。どれだけ体調を崩そうとも、執筆しなかった日はなかった。文章を書くという行為が、彼にとっては呼吸するのと同じで、人生そのものだった。
大和田の言葉は彼から生き甲斐を奪う内容だった。大和田は和彦本人に伝えるより、恋人を介して伝えてもらった方が良いと判断したに違いない。
だから私を呼んだのだ。
千夏は大和田の思惑を察して、和彦にかける言葉を慎重に吟味していった。
診療所を出て、タクシーを拾う。電車を使う方が安上がりだが、人ごみに紛れて帰宅するのは避けたかった。
「墨田区立花まで」
千夏は細かい番地を伝える。運転手は相槌を打ちながら、タッチパネルを操作してナビに情報を入力していった。千夏は自分のシートベルトを締め終わった後、和彦の分も締めた。その様子を運転手はルームミラー越しにうつろな目で眺めていた。
「発車します」
聞こえるかどうかのぎりぎりの声量で呟き、運転手はタクシーを発車させた。
マンションに到着するまでの間、千夏は時々和彦のことを横目で見ていた。和彦は黙ったまま、車窓からの景色を見ているようだった。その表情は千夏から見ることはできなかった。
自宅に着き、千夏は和彦の好物であるココアを淹れた。
「ありがとう」
和彦は小さな声で言った。
「いいのよ」
二人でソファに腰を降ろす。その後、二人はしばらくの間無言だった。千夏は大和田の話を伝えるきっかけを探していた。どのようにして話をはじめれば良いのか正解が分からなかった。
彼の作品をはじめて読み、どんな感想文を送ろうか延々と迷っていた、あの時の自分に戻ったような感覚だった。
翌日、デスクで事務作業を処理していた瞳に沢村から連絡があった。検査の結果を伝えるものだった。
「薬物の反応はでませんでした」
「え」
報告を聞いた瞳は当惑した。岩切の話を聞いて、木下サチが薬物を使用していたはずだと思い込んでいた。また、瞳自身、そうでなければあんな風に自分を傷つけたりできないと確信していた。
だが現実は違った。木下サチはまったくの素面で、自分の腹を切り裂き、臓物を引きちぎっていたのだ。自分の中になにか居ると確信して。
瞳は困惑を隠せなかった。
「ほ、ほんとうですか?」
「ええ。念のため血液と、何本かの毛髪を使って数度に渡って検査しましたが、結果はすべて同じでした。しかし、妙なものがありましてね」
「と言うと?」
「私が肋骨に1センチ程度の傷があると言ったのを覚えてますか?」
瞳は昨日の解剖室のことを思い出す。脳裏に思い浮かべるだけで、湿った陰惨な空気が体にまとわりついてくる感覚だった。スクラブをまとって、手早く遺体を解体していく沢村の姿が出てくる。
「ええ。確かにおっしゃってましたね」
「はい。あの後詳しく調べたんですが、あれは傷ではなくて穴でした。直径は8ミリで骨髄まで達してます。それと同じ物が頭がい骨や胸骨、脊椎に何点か見られます」
「一体、どういうことでしょうか?」
「正確なことはなんとも……しかし、自然にできたものとは考えにくいです。また正式な書類を送るので、確認してください。それでは」
「そうですか……分かりました。ありがとうございました」
沢村とのやり取りはそれで終わった。疑問は解決するどころか、新たに加わった。骨髄にまで到達している穴。医学に明るくない瞳でも、異様なものだとは分かるが、事件性があるとも思えない。
やはり単なる自殺で、その時になんらかの形で付いた傷なのだろうか。
瞳はぬぐい切れない違和感を覚えたまま、目の前の雑務に再び取り掛かったが、まったく捗らなかった。
「小野寺さん、ちょっと」
午後六時、なんとか書類仕事を終えた瞳は、デスクでコーヒーを飲んでいる小野寺に話しかけた。
「ああ、どうした?」
瞳は目配せして、場所を移した。オフィスを出て廊下を少し歩くと、自動販売機のあるちょっとしたカフェテリアとなっているスペースがある。しかし窓から見える景色はオフィスビルが並ぶばかりの、殺風景なもので、自動販売機で買える飲料もせいぜい数種類しかないため人気はあまりなかった。そのため、瞳は人に聞かれたくない話をする時、決まってここを利用していた。
「で、どうした?」
「一昨日話した解剖の件なんですが」
「ああ。例の、どうだった?薬物は検出されたか?」
小野寺の問いに首を横に振る。
「その代わり胸骨や脊椎などに直径8ミリの穴がいくつかあったそうです。これと同じものは肋骨にもありました。書類での報告はまだですが、自然にできたものとは考えいにくいそうです」
小野寺はため息を吐いて苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。
「なんだそりゃ…………。まあいい。薬物がでなかったってことは、奴さんは素であんなことをしたってのか」
「検査結果を信じるなら、そうなります……」
「裏社会との関連性は認められないか」
「はい。喜美江さんに、遺留品の中からなにか妙なものが見つかったら、私に報せるようお願いしてるのですが、連絡はありません」
「ふうむ…………」
「……小野寺さん、どう思いますか?」
「どう、とは?」
「本当に…………ただの自殺だったんでしょうか」
瞳の問いに小野寺は答えなかったが、瞳にはそれが答えだった。
小野寺も自分と同じく違和感を覚えている。
小野寺の仕草から、瞳はそう読み取った。
医師の話を聞いてから一週間が経っていた。千夏はリモートで仕事をしながら和彦の面倒を見続けていた。心なしか、医師に見て貰ってから和彦の表情が柔らかくなっている気がする。
肩の荷が下りたのだろうか。前より会話も続くようになったし、ぎこちないが笑顔を見せることも増えてきていた。
急ぎの作業をこなして、一息入れる。和彦は執筆活動こそしていなかったが、読書することは止めてなかった。穏やかな眼差しでソファに座り、小説の世界へ意識を投影している。話しかけてはまずいと思い、千夏は残りのタスクを消化していった。
定時を過ぎ、夕食の時間となった。千夏は和彦の好物である麻婆豆腐を作った。ダイニングテーブルに食器を並べていく。和彦も千夏を手伝った。並べて終えて、いざ食べようとした時、和彦がおもむろに口を開いた。
「明日、植物園に行ってみたいんだよね」
「植物園?」
これまでのデートで植物園を訪れたことはなかった。二人とも植物より生き物の方に関心があったので、動物園や水族館にはよく足を運んでいた。
「うん」
「良いけど、珍しいわね。植物園なんて。今まで行ったことなかったのに」
「うん、緑を見たくてね。ほら、緑色って目に優しいって言われてるだろう」
「確かによく聞くわね」
「千夏はずっとパソコンの画面を見ているから、まあ千夏にとっても良いんじゃないかなと思ってね」
「あら、ありがとう」
口数も増えている。順調にいけば元気だった頃の彼に戻れるかもしれない。
千夏は笑顔を浮かべて麻婆豆腐を口に運んだ。和彦もそれに倣う。
「美味しいね。この麻婆豆腐」
翌日、二人ははじめて植物園に足を踏み入れた。植物園は多くの人で賑わい、こんなに人気なのかと千夏を驚かせた。
「ほら、あれ」
和彦が示した先を見ると、壁に大きなポスターが一枚張られている。
「最近話題になってる朝ドラだって。……なるほど、植物学者が主人公なのか。その人の記念展を今やってるみたいだね」
ポスターには整った顔立ちをした若い俳優が、前時代的な衣装に身を包んでいる姿が写されていた。ドラマや映画をあまり見ない千夏でも知っている人気俳優だった。館内でスタンプラリーをしているらしく、全部集めるとグッズが貰えることも書いてあった。
「だからこんなに人がいるのね」
客の中には明らかに俳優目当てで来ている者もいた。彼らは植物をじっくり眺めることなく、スタンプを押すとスタスタと先を歩いて行くため分かりやすい。せっかく来たのだから、少し眺めていけばいいのにと思うが、少しでも混雑が緩和されるのであれば、ありがたかった。
「高知出身の人なんだね」
順路を歩いて行くと、すぐに植物学者の記念展に至った。そこだけは植物園というより博物館と言った様相で、人物の略歴と、家族構成、当時の人が彼に宛てた手紙などが展示されていた。
「先に進もう」
展示物を眺めるのも程々にし、二人は順路を進む。
少し行くと開けた空間に出た。周囲にはうっそうとした木々が生え、文明が息づく場所から未開のジャングルへ姿を変えた。しかし足元から奥へと続く道は整備されたものになっており、客がみだりに植え込みへ入らないようレールが設けられていた。
「凄い。こんなになってるのね。結構わくわくしちゃうかも」
「森の中のアトラクションみたいだね」
二人はゆっくりとした足取りで森の中へ入っていった。途中、橋が架かっている場所があり、眼下には人工池が広がっていた。水草がゆったりと水面で浮かんでいる。透明の天井からは太陽の光が降り注ぎ、反射した光がきらきらと池を彩っていた。
森を抜けると高山植物を育成するエリアに切り替わった。冷えた空気が二人の肩を撫でていく。薄着だった千夏は思わず体を震わせた。
「千夏、見てよ。綺麗な花だ」
和彦が腰をかがめて紫と白が混ざった色をした花弁を持った植物を見ていた。
「『ムシトリスミレ』だって。『亜高山帯~高山帯の湿地などに生える食虫植物で、舌に似た内巻状の葉で、虫を捉えます。葉の表面には密生した腺毛があり、腺体から消化粘液を出すことが出来ます』か。結構怖いね。自分が虫になって、もしこの美しい花弁に誘惑されでもしたら最後。溶かされて殺されてしまうんだ」
千夏は和彦の言葉から、垂れ下がり気味になっている花弁に絡めとられ、粘り気のある液体が体にまとわりつき、自分の骨身を溶かしていく場面を想像してうっすらと吐き気を覚えた。
和彦は興味津々といった表情を浮かべてムシトリスミレをずっと観察している。もしかしたら、小説のアイディアを思いついたのかもしれない。大和田医師からは創作活動を控えるように言われており、そのことは和彦にも伝えていた。
「もしかして、何かアイディアでも閃いた?」
千夏はおずおずと和彦に質問する。
「いや。まったく。これは駄目かもしれないな」
和彦はため息を吐いて次のエリアに進もうとしていた。
千夏は、和彦が言いつけを守っている安堵感と、彼の才能が本当に枯れてしまったかもしれないという不安感とを胸中に抱きながら彼の後を追った。
順路も終わりに差し掛かってきたところで、人が溜まっている箇所があった。「何これー」「気味悪い」など、揶揄するような声音が束になって聞こえてくる。
千夏たちが気になって近づいてみると、ぽっかりと口を開けた空洞を中心にして、それを取り囲むようにして暗赤色で白い斑点が散らばっている巨大な五枚の花弁を持つ植物が展示されていた。
「ラフレシアだね」
「はじめてみた。ラフレシアって日本でも咲くのね」
「いや、どうやらレプリカみたいだよ。ほら」
人垣で見えにくいが、壁にはめ込まれた説明文の冒頭に『レプリカ』という文字が見える。
「なんだ。本物じゃないのね」
前の人が動いて二人はラフレシアのレプリカのすぐ前にやってきた。圧倒的な迫力を前にするとつい及び腰になる。今にも花弁が動き出しそうだった。それだけ本物に似せて作ってあるのだろう。植物園の情熱がひしひしと伝わってくる。
「怖いよ~!」
横に立っていた男の子が大声を上げて泣きはじめた。
「早く行こうよ!食べられちゃうよ!」
男の子はそのままお母さんの腕を引いて、雑踏の中へ消えていった。千夏と和彦はお互いに顔を見合わせてくすくすと笑った。
「想像力豊かな子ね」
「うん。でも確かに僕もあの子と同じくらいだったら、怖くて泣いてたかもな」
「どうせなら、本物を置けばいいのに」
「法律の関係で栽培できないみたいだよ」
「へぇ」
千夏は五枚の花弁に取り囲まれた中心部を覗いてみる。大きな口に思えてならない。円形をしていて、周りには小さな粒が点在している。口の中は幾つもの棘が規則正しく並んでいた。
「寄生植物なんだってさ」
隣から和彦の声がする。熱心に説明文を読み込んでいるようだ。
「そうなの。見た目がちょっと気持ち悪いけど、面白い花よね」
「確かに」
間もなくして、人の流れにのまれる形で二人は植物園を出た。
午前中から活動していたおかげで、時刻はまだ正午を過ぎたところだった。気持ちの良い晴天だが、太陽の暑さとアスファルトの照り返しで溶けてしまいそうになる。二人は涼を求めるついでに昼食を取るため、付近の商業施設に入った。暑さのせいか、二人ともあまり食欲はなく、カフェの軽食で済ませることにした。
その後、ぶらぶらとテナントを見て回り、千夏の部屋へ戻ってきたのは午後五時前だった。
「今日は楽しかったよ。ありがとう」
「私も楽しかった。またおでかけしましょう」
千夏が言い終えると、和彦はぎこちない動作で彼女を抱擁した。千夏の頭は和彦の肩を少し上回った位置にあった。はじめて会った時は、ぎりぎり届くか、届かないかだった。和彦が小さくなってしまったのか、自分の身長が伸びたのか千夏には分からなかった。
「大好きだよ千夏」
和彦の言葉で、千夏の胸は温かな感情で満たされた。
千夏は和彦の背中に手を回し、優しく撫でてやる。溢れ出る和彦への想いが、少しでも彼の心の隙間を埋めてくれるように願って。