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第3話 異変

 千夏と和彦が最後にデートをしたのはひと月前のことで、植物園に行ったのが最後だった。その日の翌日から、和彦は書斎として使っていた賃貸の部屋に籠りはじめた。千夏は心配したが、話をする度に「大丈夫だから」と受け流された。千夏は好きにやらせてあげたいという思いから、うるさく口出しすることはなかった。

 和彦がいなくなった1LDKの自分の部屋は、千夏の目には空虚に映った。稼ぎに比して、今の部屋は申し分なく、むしろ過剰とも言える広さだった。会社の福利厚生で、家賃補助が八万まで出るため、和彦と半同棲するために申し込んだ。

 いつもならソファでゆったりと読書している恋人の姿はそこになく、LEDの真っ白なライトに照らされた無機質な空間だけが残っていた。人のぬくもりを持たない部屋に、千夏は空恐ろしい思いを味わっていた。

 和彦とはあれから会っていない。メッセージでやり取りをするが、レスポンスは芳しくない。メッセージを送ってから、二十四時間以内に返ってくれば良い方で、たいていは三日か四日の空白期間が存在した。その間、既読すらつかないので、彼の身になにかあったのではないかと、千夏はソワソワさせられていた。

「大丈夫かな」

 メッセージを送ろうとしてアプリを立ち上げた途端、知らない番号から着信があった。昨今は悪質な業者や、詐欺師からの迷惑電話が多くなっている。千夏は知らない番号から着信がある時、電話番号を調べてからかけ直すようにしていた。

 いつもの迷惑電話なら数秒から十秒前後で向こうが諦めるのだが、今回は違った。ずっと千夏のスマートフォンを鳴らし続けている。一分ほど待ったがまだ鳴らしているので、千夏はうんざりしながらも相手の電話番号を調べることにした。入力欄に番号を入れて検索する。

「警察……?」

 千夏はハッとすると、素早い手付きでスマートフォンを取り通話ボタンをタップした。

「もしもし、市川ですが」

「あ、やっとつながった。市川千夏さんですか?」

「はい、そうですが、なにか?」

 心臓の鼓動が早くなる。ドクドクと激しく律動しているのが聞こえてきた。

 もしかして和彦さんのこと?

 口の中が急速に乾いて行き、最悪の事態を予想してしまい目の前の世界が不規則に揺れる。

「高野和彦さんって、あなたの彼氏さん?」

「は、はい……」

「そっか。いやね、彼自殺未遂して、今K大学附属病院に運ばれてるのよね。それで緊急連絡先が」

「そ、それで、和彦さんは無事なんですか!?」

 電話口の気だるそうな声をかき消すようにして、千夏は和彦の容態を確認する。

「まあ大丈夫なんじゃない?血はかなり出てたみたいだけど、すぐに近所の人が通報してくれたから」

「……良かった」

「で、ちょっとお話をうかがいたいんですけど、病院まで来られます?」

「はい、すぐに行きます」

 着の身着のままで千夏は部屋を飛び出した。

 K大学附属病院だと、電車で行けるが、二回乗り換えをしなくてはならず、待ち時間を考慮するとタクシーを拾った方が早く到着できそうだった。千夏は大手を振って一台のタクシーを止めて後部座席に乗り込んだ。

「どちらへ行かれますか?」

「K大学附属病院に!」

「分かりました。シートベルトをお締めください。それで、えーとルートはど……」

「お任せしますから!」

 運転手はバックミラー越しに千夏を見やり、呆れた表情を浮かべて車を発車させた。

 千夏がK大学附属病院へ到着したのは部屋を出てから二十分近く経った頃だった。カードで決済を済ませ、救急外来の出入口まで走る。

「市川千夏さんですか?」

「は、はい…………そうです……」

 声の主は制服をまとった警察官だった。

「私、お電話でお話しました田畑です。とりあえずどうぞこちらに」

 田畑はドアを開け千夏を先に通した。

 白い照明に照らされ、しんと静まり返った廊下には、千夏のひっ迫した息遣いがこだましている。まだ夜も深くないのだが、この空間には人の気配をまるで感じられなかった。

「こちらでお願いします」

 並べられた待合椅子に促された千夏は腰を降して息を整えた。

「あの和彦さんは今は?」

「ああ。治療室にいますよ。大丈夫。手首を切っちゃいるが、通報が早くてね。助かりますよ」

「良かった…………はあ」

 千夏が落ち着くのを田畑は待ち、頃合いを見計らって話を続けた。

「市川さんにうかがいたいたのは、高野さん自殺を考えたり、実行に移したりする素振りがあったかどうかなんですが、心当たりありますか?」

「…………はい。彼、作家なんですが、ここ数か月スランプになって元気がなかったんです。それで、一か月くらい前に二人で病院へ行きました。そこで鬱と診断されました。創作活動から離れるよう言われて、その後は少し元気になってたんですけど、ある時急に書斎として使っている自分の部屋にこもるようになって…………。メッセージしても、全然返ってきませんでした」

「なるほど。高野さんの部屋に、なにかが書きなぐられていたノートや、原稿用紙が散乱してました。元気が出て、創作活動を再開したは良いものの、うまくいかず自暴自棄になった…………こんな具合でしょうか」

「和彦さんはパソコンで執筆してるはずなんですが……」

「ああ。それね、壊されてたんだよね」

「どういうことですか?」

「多分の高野さんがやったんだろうけど、もう使い物にならないくらいの有様でね。液晶は割れてるし、キーボードの部分はところどころ砕けて中の基盤が見えてる状態だしで」

「…………そうですか」

「なんか宗教にはまってたとかない?」

 突然の質問に千夏は当惑した。和彦は歴史や宗教の見識が深かかったが、それは作品の執筆に役立てるため勉強したからだった。彼自身が、どこかの信者だったり、宗教にはまっていたなどということはなかったはずだった。

「ない、と思います。少なくとも私は知りません。あの、和彦さんの部屋になにか、そういうものがあったんですか?」

「いや、そういう訳じゃないですよ。まあ決まり文句みたいなものです。薬物の使用もなかったですか?」

「……処方されたお薬以外は特にないと思います」

「分かりました」

 田畑は更に、二、三質問してきたが、どれも千夏にははっきりと答えられないものばかりだった。質問を終えると「ご協力ありがとうございました」と言って、彼は病院から去った。

 千夏は急に心細さを感じた。たとえ警察官でも話をしていれば気がまぎれた。寂寞とした感が胸中に広がる。千夏の感情を体現するかのように、リノリウムで出来た廊下は静寂に包まれていた。

「高野さんの身内の方ですか?」

 医者から声をかけられたのは、田畑が去ってから間もない時分だった。

「彼女です」

「彼女さんですか。切り傷は深かったですけど、すぐ治療にあたれたので命に別状はありません。また、後遺症が遺るということもないです」

 その言葉を聞き、千夏は胸をなでおろす。緊張が一気に解けた。

「私は専門ではないので、正確なことは言えませんが、またやらないとも限らないので、しばらくは傍にいてあげてください」

「はい。そうします。あの、和彦さんには会えますか?」

「構いませんよ。どうぞ」

 個人仕様の病室へ案内される。ドアをスライドさせると、高野和彦がベッドに横たわっていた。

「なにかあれば呼んでください」

「ありがとうございます」

 互いに会釈をすると千夏はドアを閉め、ベッドの傍に椅子を引き寄せて腰を降ろした。

「和彦さん」

 千夏が声をかけると、和彦は緩慢な動きで顔を千夏に向ける。

「やあ…………ごめんよ迷惑かけたね」

「いいのよ」

「あの、レプリカのラフレシアを見て、僕もなにかを産み出さなきゃと思った。医者に止められているのは重々承知だったけど……それでも衝動を抑えきれなかったんだ」

「だから、書斎にこもっていたのね」

「そうだね。結果は見ての通りだけど」

「…………でも和彦さんが本当にやりたいことなら、やっても良い、と思う……」

「……本当にそう思うかい?」

「…………正直、分からないわ。ただしばらくは安静にいて。お願い」

「分かったよ」


 自殺が失敗に終わってからも、和彦は執筆を止めなかった。新しいノートパソコンを買ったと千夏に伝え、再び書斎に籠った。和彦は完全に一人でないと身が入らない質で、活動している間は書斎から出てこない。それでも、夕飯の時間になると、千夏の部屋に戻って来るようになった。それは千夏と交わした約束だった。和彦は約束を律儀に守り、二人は毎日顔を合わせることができた。

 自殺未遂から一週間余りが経ったある日、同じように夕食を食べに和彦がやって来た。

「千夏!来たよ!」

「おかえりな……」

 部屋に入って来た和彦を見た千夏は一瞬だけ固まった。

 以前にも増して、いやこれまで見たことがないほど、和彦が元気ではつらつとしていたからだった。本来であれば喜ぶべきことだった。だが、彼の様子は千夏には異様に感じられた。穏やかで柔和な光が揺蕩っていた彼の目は、見開かれて形容しがたい輝きを放っている。鼻息は荒く、仕草も繊細さがなくなり、代わりに豪快さと粗暴さが目立つようになっていた。和彦はダイニングに来るや勢いよく腰を降した。

「もう空腹で死にそうだよ千夏!今日のメニューはなんだい?」

 と声高に叫んだ。和彦の声にビクッと反応しながら千夏は答えた。

「今日はミートローフにしようと」

「もうできてるのかい?」

「もう少しよ」

 千夏が振り向くと、和彦がすぐ背後に立っていた。

 なんだろう、今までと違って和彦さんが大きく見える。

「他になにかないかな?腹が減って死にそうなんだ!」

「あぁ、ええと、コンソメスープならあるけど……」

 スープは出来上がっており、後はマグカップに注ぐだけとなっていた。和彦は目を見開き、食器棚からマグカップを取り出して、溢れんばかりに注いだ。

「……っあー美味しい」

 言い終えるや否や再び注いでいく。和彦は何度もその行動を繰り返し、ものの数分でスープを飲み干してしまった。千夏は唖然と見ていることしかできなかった。

「ほら、ミートローフもうできてるみたいだよ?」

 和彦に声をかけられ我に返る。オーブン付きの電子レンジが、調理が完了したことを電子音で報せていた。中から取り出して、食器に移していく。

 今晩の彼の行動には違和感しかなかったが、とりあえず料理は喜んでもらえるみたいだった。

 きっと、嬉しいことがあったのだろう。だからあんなに興奮しているのだと、自分を納得させる。

「後は、野菜を盛り付けるだけだから、座って待ってて」

「早くね」

 吐き捨てるように言うと和彦はキッチンから出て行った。寒々とした感情が体を巡る。まるで別人だった。たった一週間で、彼の身になにが起こったのだろうか。なにか良くないことが起こっているなら、彼を助けなければならない。

 千夏は深呼吸をして、両手にミートローフとサラダが乗った皿を持って、和彦の待つダイニングへ移った。

 和彦からなにかあったのか聞き出そうと思っていたが、そんな暇はなかった。皿を並べ終えると、和彦は飢えた獣のように料理に齧りついた。

 フォークとナイフを一切使わず、素手で出来立てのミートローフをわしづかみにし、口へ放り込んでいく。和彦はいつも左手首に巻いている腕時計をしていなかった。千夏は贈り物が外されていることに嘆きながらも、和彦を止めようとしたが、和彦は彼女の言葉を聞き入れなかった。一通り食べ終えた和子は、脂でぬめった唇を手の甲で拭う。その際、千夏の視界に和彦の手のひらが写った。ミートローフを掴んでいた手は、熱によって真っ赤になり今にもはれ上がりそうな状態だった。見ているだけで痛々しい。千夏は手のひらを冷やそうと言葉をかけたが、和彦はそんなことお構いなしと言った表情だった。

「もっとないの?」

「え?」

「ご飯」

「え、ええと。ごめんなさい作ってるのはさっきの分だけだったの」

「そう。それ、食べないの?」

 千夏は和彦の喰いっぷりに手が止まり、自分の分をまったく食べていなかった。

「欲しかったら、あげるわ」

「じゃあ遠慮なく」

 身を乗り出して千夏の皿を奪い取る。彼女のミートローフは次々と消えていった。和彦が食べ終えるのに二分とかからなかった。

「ごちそうさまでした。美味しかったよ」

「ありがとう……じゃあお皿洗ってくるわね」

 空になった食器を持ち立ち上がったところで、和彦が千夏に抱き着いた。

「ちょっと、危ないから」

「千夏久しぶりにやろうよ」

 和彦の誘いは、千夏にとっても魅力的なものだった。彼に抱かれたのは半年以上前だったし、久しぶりに彼の身体を味わいたかった。だが生憎生理になっていたため、願望を満たすことはできなかった。

「今アレがきちゃってるから、また今度ね」

「そうか。でも残念だよ」

 和彦の吐息が耳元にかかる。千夏は心地よい小さな快感に体を震わせる。

「残念、って?」

「僕はね、行かなきゃならないんだ。呼ばれているから」

「ん……誰に?」

「ラフレシアにだよ」

 予想外の単語に思考が停止する。

「な、なんのこと?和彦さ」

 無理やり千夏の首を捻って、和彦は千夏の唇に自分のを重ねる。キスもご無沙汰だった。甘い思い出が彼女を刺激して、体を彼に委ねようとする。しかし、千夏は寸でのところで思いとどまった。

「だ、だめよ。和彦さん、離して……」

 和彦を振り払おうとするも、和彦の体は大木のようにまったく動じなかった。

「大丈夫だから。千夏も一緒に行こうよ。さあ行こう」

 耳元でささやく声は、蠱惑的な色合いを孕み、千夏の耳から脳へと忍び込む。声を援護するかのように、和彦の舌が千夏の耳をもてあそんだ。千夏は植物園で目にしたムシトリスミレを思い出していた。舌のような葉が虫を捕らえ、喰らう。千夏は自分が巨大な植物に捕まり、今にも捕食されそうになっている場面を想像した。身動きできず、もがいていると、消化粘液が四肢にまとわりつく。その内に自分の体は溶けて消されてしまうのだ。

 無意識の間に、千夏は抵抗を止めていた。自分が産み出した幻影に恐れ、またそれに魅入られていた。その間に、和彦は両腕を千夏の体に絡めたまま、ゆっくりと下腹部へ移動していた。

「さあ、千夏。君も受け入れて。僕の中の。さあ」

 千夏が抵抗しなくなったのを見て、和彦が抱擁をわずかに解く。二人の間に空間が生まれ、千夏の両腕がだらんと下がった。持っていた皿が千夏の太ももに当たる。小さな、ひんやりとした感触が、千夏の意識を現実世界に戻した。

「…………!やめて!」

 声と同時に、陶器の割れる音が室内に響く。

 千夏は和彦から逃れようとして、手で顔を払いのけたのだが、皿を持ったままになっていた。そして和彦の顔を直撃して、皿は割れてしまったのだった。

「か、和彦さん!ごめんなさい、私……」

 和彦はこめかみの辺りから血を流しながら、佇んでいた。

「ごめんなさい。傷つけるつもりはなかったの…………消毒液と、絆創膏取って来るから…………」

「君も分かってくれると信じているよ。千夏」

「和彦さん…………?」

 何事もなかったかのような笑みを浮かべて、和彦はゆったりとした足取りで玄関まで歩いて行く。

「和彦さん手当を」

「僕は呼ばれてるんだ。行かなきゃ」

 言い終えると和彦は千夏の部屋から姿を消した。

 千夏は気が抜けたようにその場に座り込んだ。和彦が来てから、出て行くまでの数十分の間に起きた出来事を千夏は理解しきれないでいた。

 夢なのだろうか。いや違う。夢なら和彦の生々しい唇の感触などとうに忘れてしまっている。

「和彦さん、どうしちゃったの…………」

 砕け落ちた皿の破片が照明に照らされてきらめいていた。


 しばらく距離を置こうと考えていたのは、自分だけではなかったと、千夏はほっとしていた。あれから四日経つが、和彦から連絡はない。もちろん、部屋に来ることもない。千夏も同じで、自分からメッセージする勇気を持てないでいた。もうしばらくは、出来事が時間によって風化するのを待った方が良いと判断していた。

 今の季節は仕事が忙しくなる頃合いで、次々と舞い込んで来る作業は彼女を忙殺した。そのおかげで、千夏は苦い思いを忘れることができていた。うんざりした点は、この時期になるとリモートワークから強制出社に切り替わることだった。暑い季節に、わざわざ早起きして電車に揺られて出社するなど、生き地獄に等しかった。しかし、家ではエアコンをつけっぱなしにするので、その分の電気代が浮くことについては感謝の気持ちもあった。

「おはようございます」

 オフィスに着くと冷えた空気が一瞬で千夏を取り囲む。外界との寒暖差に千夏は体を震わせた。オフィスはフリーアドレスとなっているため、千夏は空調の風が直に当たらない席を確保する。

「おはよう!」

 元気のいい挨拶に振り向いて応じようとした。声の主は土井和子だった。千夏の七年先輩で中堅社員として活躍していたが、この一年間、鬱病の療養ということで休職していた。

「土井さんお久しぶりです!」

 新卒で入社したての頃から、千夏は土井に可愛がられていた。他の先輩より、千夏にはなんでも懇切丁寧に教えていた。その甲斐あって、千夏はどんどん実力をつけていた。和子はそれを自分の手柄などとは思わず、千夏の能力だと高く評価していた。

「どうしたの?なんか元気ない顔してるわねぇ」

「ちょっと夏バテで…………」

「気をつけなさいよ。熱中症になったら、脳細胞は元に戻らないんだから。ところで、どう。最近。作家先生とはうまくいってるの!?ん?」

「まあぼちぼちです」

 和子には和彦との仲が知られているが、今の二人の状態を正直に話そうとは思わなかった。そんなことより千夏には気がかりなことがあった。

「あの、土井さん。もう具合の方は?」

「ん?ああ、もう全然大丈夫!ゆっくり休んだおかげで人生で一番元気あるわ!」

「なら、良かったです」

「これからバンバン働いて遅れを取り戻してやるわよ!あははは!」

 豪快に笑う和子の姿に、千夏は和彦の影を見た。

 二人とも鬱病から立ち直って人が変わったように元気になっている。千夏の記憶にある土井和子は、確かに快活な性格の持ち主だったが、なにかが違っていた。千夏は違和感の出どころがすぐに分かった。和子の目だった。異様に見開かれた目は、ギラギラと輝いている。

 和彦さんと同じだ……。

 目の前に立っている面倒見の良い先輩は、あの日の和彦と同じ目をしていた。言動が粗暴になり、かなり興奮している。和子は千夏の対面に腰を降した。その仕草が和彦にそっくりだった。

「ここ、空いてるわよねぇ?」

「はい、空いてますよ」

「じゃあここにしよっと!」

 鞄を叩きつけるようにデスクに置き、中から資料をかき出している。ホッチキスで留められていないA4用紙が、音を立てながら周囲に散乱した。

「あ、落ちたの拾いますね……」

 屈みこんで、足元に散らばった用紙を拾う。そこで、千夏は当惑して手を止めた。用紙にはなにも書かれていなかった。他のものも同様だった。テーブルにぶちまけられた白紙の紙が頭上から落ちてきていた。

「あの、土井さん。これ全部白紙ですけど……」

「良いから!早く置いてちょうだい!まったく散らかってしょうがないわ!」

 唖然としながらも、千夏は彼女の指図通りに用紙を拾い集め、デスクに置いた。デスクの上は今もなお用紙がばらまかれた状態になっている。和子はなにやら呟きながら、一枚一枚丹念に調べている。

 自分が目にしたものがたまたま白紙だっただけで、他のはちゃんとした資料なんだろうか。

 そう思ったものの、和子が睨んでいるのも白紙だと分かった。

「あの、土井さん……それなにも書かれてませんよ?」

「しっ!」

 目前に人差し指を突き立てられ、千夏は後ずさる。和子は鼻先が接触するくらい、用紙に顔を近づけていた。

 この時点で、千夏は土井和子に薄っすらとした恐怖を感じていた。荷物をまとめて、まだ空いている席がないか見回す。何人かの社員と目が合ったが、すぐに視線を逸らされる。彼らは土井和子の奇妙な行いを見て見ぬふりしていた。

 千夏は席を立って、見えなかった場所も見回してみた。空調の真下であるが、一席空いている。既に先客がいて、相席になるが、大き目なデスクでそこまで気にならないだろう。

「先輩、私お邪魔みたいですから、向こうに行きますね」

 黙って立ち去るのも悪いと思い、和子に一言入れて千夏は席を移動した。途中、振り返って和子の様子を見てみたが、相変わらず白紙の用紙をジッと見続けていた。流石に異常だと思ったのか、何人かの社員が彼女の傍までやって来ていた。

 千夏は心の中で謝罪しながら、彼らに後を託すことにした。千夏が席に着くと、先客である男性社員が視線を寄越した。千夏は「お邪魔します」の意を込めて会釈した。彼の方も軽い会釈を返す。もう始業時間を過ぎていたので、気分を入れ替えて千夏は作業に取り掛かった。途中、和子の甲高い声が千夏の席まで響いてきた。オフィスが騒がしくなったのも束の間、和子は警備員によって外へ連れ出されていた。

 正午を十分余り過ぎた時、急ぎの仕事を一通り終わらせた千夏は、背伸びをして体をほぐした。温度が調節されたのか、いつの間にか空調も程よい冷風を送ってくるようになっていた。

「あの、市川さん、ですよね?」

 すると同じデスクで仕事をしていた男性社員が声をかけてきた。

「はい。ええと……」

「あ、自分山田です。あまり話したことはなかったですね。実は土井さんと同期なんですよ」

「え、そうなんですか。」

「ええ。僕らの年代は、特に彼女が目立ってましたから、他の連中は忘れられがちなんです」

 山田は苦い笑みを浮かべた。

「ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」

「気にしないでください。ところで、土井さん今日復職してきたみたいですけど、なにかあったんですか?」

 自分が隠しても、いずれ山田の耳に入るだろうと思い、千夏は今朝の土井和子とのやり取りを話した。話を聞いている間、山田は終始怪訝そうな顔をしていた。

「はあ。そうだったんですか」

「あの、こんなことを聞くのは駄目だと思うんですけど、山田さんって土井さんの同期なんですよね?土井さんなんで鬱になったのかご存知だったりしませんか?」

「詳しくはなんとも。仕事のし過ぎでみたいなことは聞いたことがありますけど」

「そうですか……。そうだ、休職中になにをされてたかもご存知ありませんか?」

「流石に知らないですね。プライベートの交流はなかったし。それがどうかしたんですか?」

「いえ、ちょっと気になったものですから」

 昼食後、千夏は再び席を変えて仕事を続けた。

 何人かの社員から、どうして土井和子があんな風になったのか知らないかと聞かれたが、千夏には答えようがなかった。今朝がた土井とやり取りをしていたのが千夏で、なにか知っていそうだと思われていたらしい。むしろを彼女の変化を知りたいのは千夏自身だった。考えれば考えるほど、和彦と土井和子が重なってしまう。鬱病から立ち直った二人が、以前ではまったく見られなかった、奇異な言動をしている。目に怪しい輝きをたたえて、意味不明な言葉を口にしている。

 そういえば、先輩はなんて言っていたのだろう。

 千夏は先ほど質問してきた社員を捕まえて、警備員に連れて行かれるまで、土井和子がなにか口にしていなかったかと、それとなく聞いてみた。

「んーそうだなあ。小声でぶつくさなんか言ってたよ確か」

「それって、どんなことですか?」

「行かなきゃとか、呼ばれてるとかなんとか」

 心臓が跳ねる。あの日の夜、耳元で和彦がささやいていた言葉が脳裏に蘇った。

「僕は呼ばれてるんだ。行かなきゃ」

 すぐ傍で和彦の声が聞こえた。周囲を確かめるが、彼はいない。幻聴だった。嫌な汗が吹き出して、背中を伝って流れ落ちていく。ハンカチを取り出し、額を拭う。

「大丈夫?」

「だ、大丈夫です」

「そう?それならいいけど」

 その日は仕事が手につかなかった。急ぎの作業は午前中に終わらせていたため、残業することもなく退勤した。最寄り駅に着いた時、千夏はこのまま真っすぐ帰るか、和彦の書斎を訪ねようか迷っていた。

 彼のことが心配だったが、またあの時のように迫られることが怖かった。そこで、メッセージを送信して、反応があったらそのままテキストを通して、近況と会っていない間なにがあったのか探ることにした。反応がなかった場合は、明日の朝早くに書斎へ行くことを決めた。

 改札をくぐり、駅のホームで電車が到着するのを待つ間、千夏は和彦に向けてメッセージを送った。この前誤って怪我をさせてしまったことの謝罪と、執筆活動の具合はどうかという内容だった。

 部屋に帰り付き、スマートフォンを確認したが、和彦からの返信はない。既読も付いていなかった。

『明日、書斎にたずねてもいい?和彦さんに会いたい』

 と新たに送信する。

 夕食を食べ終わり、風呂も済ませて、寝る時間になる。トーク画面はなんの変化もなかった。

 朝になっても、和彦からの反応はなかった。以前であれば、執筆で忙しいのだろうとそのまま放置していたのだが、今回ばかりはそうはいかない。彼に会わなければと、本能が訴えていた。

 午前十時、千夏は二本の電車を乗り継いで、彼の書斎がある、西東京市のマンションのエントランスにいた。エントランスはオートロックになっている。部屋番号を押し、呼び出してみるが応答はない。何回か試すも、スピーカーから和彦の声が聞こえてくることはなかった。千夏は、持ってきた合鍵を盤面に付けられたシリンダーへ差し込んで回す。ロックの解錠される音が聞こえ、ガラス張りの自動ドアは、静かに、ゆっくりと左右に開いた。

 千夏は中へ進みエレベーターを呼ぶ。その間、開いた時と同じように、自動ドアは閉じていった。その様子を見て、千夏は無機質な胃袋に飲み込まれてしまったと思い、体を震わせていた。

 和彦の書斎は五階の角部屋だった。エレベーターを降りると、右手の突き当りに一枚の黒いドアが見える。外界と接している廊下は、日陰になっているが蒸し暑く、どこからか聞こえてくるセミの合唱が、熱気をいや増しているように思われた。

 ドアの前までやってきた千夏は、軽くノックをしてみる。ドアに耳を近づけて、物音がしないか確かめようとするも、雑音でそれは叶いそうになかった。もう一度ノックし「和彦さん?千夏です」と声をかけるも、徒労に終わる。ドアの取っ手に手をかけ、手前に引いてみると、ガチャという音を立て、ドアが開いた。鍵がかかっていないのだ。

 千夏は手を止めて、逡巡する。部屋の中に、和彦さん以外の誰かいたら?もしかして和彦さんは誰かに…………。いや、単に鍵をかけ忘れただけの可能性はある。実際、これまで何度もそういうことがあった。千夏は不用心だと注意するも和彦は「大丈夫大丈夫なんにもないから」と真剣に取り合わなかった。

 今回もきっとそうだ。連絡がないのも、執筆活動に集中して、外の交流を絶っているからに違いない。

 意を決して、千夏は、ドアを開け、室内に足を踏み入れた。玄関にはかすかに冷気が漂っていた。

「お邪魔します」

 玄関の三和土には和彦の靴が無造作に転がっている。千夏はパンプスを脱いで丁寧に並べた。和彦の靴も隣に揃えて置く。

「和彦さん?いるの?」

 廊下とリビングを隔てるドアがわずかに開いており、そこからエアコンの冷房が漏れ出ていた。廊下の右手にはバスルームとトイレ、脱衣所と洗面所を兼ね備えた部屋がある。覗いて見たが、人の気配はない。

 千夏はリビングに移る。太陽の光がカーテンレースを通して室内を照らしていた。壁に沿うように置かれた薄型の液晶テレビが、無言で目の前にある背の低いテーブルとソファを見つめていた。無人となった部屋へ、エアコンは音もなく冷えた空気を送り続けていた。リビングに面する形で設置されているカウンター型のキッチンは綺麗に整えられている。どうやら、この部屋では暴飲暴食はしなかったようだ。

 奥へ行くと、右手に引き戸があった。引き戸の向こうにある部屋が、和彦が書斎として使っている場所だった。千夏は再びノックして声をかけたが、反応はない。引き戸を少し開け、様子を窺うも、和彦の姿は見えなった。

 この結果に千夏は驚かなかった。リビングに入って来た時から、書斎に和彦がいないらしいことは予想できていた。なにかしら活動しているのなら、キーボードを叩く音が聞こえてくるし、そうでなくても人の息遣いや気配は分かるものだが、この空間にはそれが全くなかった。

 書斎に入り、室内を検める。リビングと同じで、誰かに荒らされたような痕跡はなく、整理整頓されていた。壁の両側には本棚が設置してあり、所々本が抜き取られていたが異常性は感じられない。部屋の奥に設置されているデスクの上は、書籍やメモ用紙で散らかっていた。デスクの中央には、和彦が新調したと言っていたノートパソコンが鎮座している。電源が入ったままになっており、エンターキーを押すとスクリーンセーバーが解除され、ログイン画面が浮かび上がってきた。

 千夏はどうしようか途方に暮れた。和彦が帰って来るまで、部屋を掃除して待ってようかとも思ったが、ほとんど手入れは行き届いている。書斎のデスクは散らかったままだが、和彦は昔からデスクをいじられることを嫌っている。帰ってきて、綺麗になっている有様を見た時、激昂しかねない。そうなっては、久しぶりにの再会が台無しになってしまう。

 千夏はメッセージを入れて和彦の帰りを待つことにした。ソファに腰掛け、部屋を見回す。書籍が売れ、映像化の話や、ゲーム化の話が舞い込んできていた頃の思い出に千夏は浸った。その頃は千夏もまだ大学生で、忙しい時期ではなかったので、この部屋に泊まり込み和彦の代わりに家事や身の回りの世話などを引き受けていた。和彦は「余計な負担をかけたくない」と難色を示していたが、千夏は創作活動に貢献できなくなった分、他のことで彼を支えたかった。

 忙しくも、充実していた時間だった。戻れるのなら戻りたいと、今でも思う。千夏は自分の仕事を辞めるつもりは毛頭ないが、いまいちやりがいを感じられずにいた。

 私は、誰かに尽くす仕事の方が向いているのかな。

 しかし、尽くす対象が和彦である場合と、和彦でない場合とでは、自分のパフォーマンスに大きな差が出ることも分かっていた。

 千夏は夕方まで和彦のことを待っていたが、和彦は帰ってこなかった。メッセージに既読はつかず、電話をしても繋がらなかった。今日は帰って来る気配がなかったので、千夏は書置きを残して部屋を後にした。

 茜色に染まったアスファルトの道を、駅に向かって歩いて行く。夕暮れになっても、陽射しは強く、風が吹いたところで、なんの慰めにもならなかった。駅前の商業施設に入り中を通って近道をする。施設内は「暑い暑い」と言いながら、家路につくカップルが大勢いた。千夏はいたたまれなくなり、駅と連絡している通路を通って改札口へ足早に急いだ。

 二日後の月曜日、この日千夏は健康診断で一日公休を取っていた。千夏の会社は健康診断を受ける日が公休扱いになる。また、ほとんどの社員が夏場に診断を受けており、社員によってはお盆休みとつなげて大型連休にしていた。千夏は実家が都内で、お盆休みといってもやることがないため、いつも和彦の予定に休みを合わせていた。

 朝から新大久保の健診センターに出向いていた。この時期は検診を受けに来る人はあまり多くなく、診断はスムーズに進み、午前十一時にはすべて完了していた。更衣室で私服に着替え、フロント近くの椅子で呼び出されるのを待つ。待ち時間は五分にも満たなかった。

「こちら今回の診断の概要です。詳細な書類はまたご自宅に送付いたします」

「分かりました」

「お気をつけて」

 健診センターを出る。今日も晴れていた。真っ青な空の所々に夏の雲が浮かんでいる。千夏の目の前を小学生くらいのグループが笑い声を上げながら走り抜けていった。

「そっか夏休みなんだ」

 そう呟くと同時に、ポケットに入れてあるスマートフォンが振動した。手に取ると、通知画面には和彦の名前があった。

「和彦さん!?」

 声を上げてしまい、通行人の視線を集めたが、気にしてなどいられなかった。ロックを解除し、メッセージアプリを開く。

『千夏、僕はいくよ。ガイアの子供たちに呼ばれてるんだ。僕は必要とされているんだ。僕は運ぶ者なんだ。ラフレシアの巣へ』

 和彦からのメッセージの意味を考えることは後回しにして、メッセージを連投する。既読はついたものの、返信はない。通話ボタンを押して、アプリの通話で呼びかけるが、応答はない。通常の電話に切り替え発信する。

『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません』

 和彦の声の代わりに返ってきたのは、無機質で機械的なアナウンスだった。

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