「どうしたの?急に」
妹の千夏から相談事を持ち掛けられた瞳は彼女の部屋にいた。
こういう時、昔は自室の勉強机に必ずメモが置かれていた。
瞳は千夏の幼い頃の癖を思い出し、笑みをこぼした。大人になり、実家を出て、それぞれの生活を送るようになると、そういうことはなくなった。千夏の直筆の文字は機械的なフォントに変わり、メモの紙はメッセージアプリに変わった。便利だが、それはそれで少し物寂しい気持ちがした。
また取材のアポでも頼まれたのかしら。
そう思いながら、手入れの行き届いた妹の部屋を、瞳は興味深そうに眺めていた。
「あのね、お姉ちゃん」
千夏が瞳を呼んだのは、和彦のことを相談するためだった。
和彦が意味不明なメッセージを残してから一週間が経過していた。あれから連絡を繰り返しても和彦からの応答は皆無だった。電話はスマートフォンがオフになっているのか通じず、メッセージを入れても既読は付かない。
和彦のことは既に自分の手に負えなくなっている。
千夏はそう判断していた。和彦の残した言葉が脳内にこびりついていた。
「お、ちゃんと健診受けてきたのね。偉いじゃん」
そんな事態になっているとはつゆ知らず、瞳はテーブルに投げ出された診断結果を手に取り、しげしげと眺めていた。瞳の呑気な態度に、千夏は苛立ちを募らせていた。
「あれ、千夏の血液型ってOだっけ?」
「…………うん、そうだよ。でね」
「そっか。記憶違いか。おやおや、千夏ってこんなに軽かったっけ?…………これは作家先生と色々運動してるのかな?」
瞳はいやらしい笑みを浮かべながら千夏をからかっていた。
千夏は、姉の性格を羨ましいと思いこそすれ、不愉快に思ったことはこれまでなかったが、今夜ばかりは事情が違った。その作家先生は、どこにいて何をしているのか分からなくなってしまった。霧のように、あるいは靄のように、消えてしまったのだ。
「お姉ちゃん!」
思わず声を荒げてしまう。驚いた瞳は、ようやくただの相談事ではないのを察して、気まずそうな表情を浮かべ千夏に謝った。
「ごめんね。……どうかした?」
千夏はため息を吐いて、瞳の対面に腰を降した。
「私こそ、ごめん。怒鳴ったりして…………あのね、和彦さんのことで聞いて貰いたいことがあって」
瞳に分かりやすいように、前もって話す内容を準備していたが、いざ口に出そうとすると上手く言葉にできない。脳内で勝手に話が進んでいき、言語化が追い付かなかった。
言いたいことは「和彦さんが失踪したかもしれない」たったこれだけだったが、記憶が混沌としていき時系列がばらばらになって、断片化された膨大な思い出によって思考が埋め尽くされた。
千夏は目を右往左往させる。どうすれば良いか分からなくなっていた。
そんな千夏の様子を見て、瞳は千夏の傍に椅子を持ってきて、肩を撫でながら落ち着いた声音で話しかけた。
「千夏、一回深呼吸して。 そう。もう一度。続けて。ゆっくりね。私を見て」
瞳の言葉に従い、深呼吸を繰り返す。呼吸するたび、新鮮な空気が脳内を掃除してくれているかのようだった。千夏の思考はだんだん落ち着きを取り戻した。
「落ち着いた?」
「うん……ありがとう」
「それで、なにがあったの?」
「和彦さんの行方が、分からないの」
この言葉を皮切りに、千夏はこれまでの和彦の事情や言動を余すことなく話した。長い期間スランプに陥っていたこと、鬱と診断されたこと、自殺未遂をしたこと、急に人が変わって消えてしまったこと。
瞳は真剣な眼差しで千夏の表情や仕草を観察していた。千夏がはっきりと伝えられていない情報や、隠している出来事がないかを確認するためだった。
「これが和彦さんからの最後のメッセージよ……」
和彦とのトーク画面を瞳に見せる。
「上から見みせてもらってもいい?」
「うん……」
「ありがとう」
瞳は千夏からスマートフォンを受け取ると、画面を上にスクロールしていく。
瞳が「止めて」と言った。丁度和彦がスランプに陥りはじめた時期まで遡っていた。
そこから二人のやり取りを確認していく。会話の内容と、今しがた千夏から聞いた話を組み合わせて、整合性が取れているかどうかを見る。問題はなさそうだった。そして千夏の言う通り、和彦からのメッセージは八月十三日を最後に終わっていた。
「『ガイアの子供たちに呼ばれてるんだ。僕は必要とされているんだ。僕は運ぶ者なんだ。ラフレシアの巣へ』か。千夏、このメッセージの意味は分かる?」
作家特有の言い回しだろうか。
千夏に聞いてみたが彼女にも意味が分からないらしく首を振っている。
「分からないよ……無理やり迫られて、いやその、迫られた時も似たようなことは言ってたけど…………」
妹が彼氏である高野和彦に、襲われそうになった。
瞳と和彦はあまり面識がない。二人が最後に会ったのは、和彦が瞳に警察の仕事内容や、具体的な捜査の動きをインタビューしていた時だった。
和彦は数年前に完結した『シルバーバレット』の続編の構想を練っていた。世間的な人気は下火になっていたが、根強いファンがまだ多く、物語の続きを望んでいた。その声に突き動かされたとのことだった。
続編の主人公は警察官にするつもりだったらしく、本職である瞳に話を聞きたがっていたらしい。インタビューの場は千夏がセッティングした。半年以上も前のことだった。
千夏の言葉を疑っている訳ではなかったが、高野和彦という男が女性を襲う場面を想像できなかった。線が細く、弱気でおどおどした男だった。また、瞳が知る限り、高野和彦は妹を心の底から愛していた。二人の雰囲気を見ていればすぐに分かる。お互いを尊重し、支え合っていた。ソウルメイトという言葉がよく似合う、お似合いのカップルだった。
しかし、ある時期から高野和彦という男は変わってしまった。姿かたちは本人に間違いないが、中身が違う。まるでなにかに操られているような、千夏の話を聞いてそんな印象を受けた。
「他に、高野さんはなにか言ってなかった?」
口調が姉から刑事のものへと変わる。千夏の話とメッセージアプリのやり取りだけでは、事件性は見られない。だが、瞳の脳はしきりにアラートを出していた。
「んん…………。あ、そういえば……一言だけど『僕の中の』って言ってた。なんの脈略もなく突然…………」
千夏の言葉を聞いて、なぜ脳がアラートを発信していたのか、その原因が判った。
瞳は高野和彦の失踪と木下サチの自殺との間に関連性があると直感していた。しかし「僕の中の」、「私の中になにかいる」これだけでは、二つの出来事を結びつけるのは難しい。偶然似たようなことを口走っただけかもしれない。現状だとそう判断するしかない。瞳には二人を繋げる証拠が必要だった。
「分かった。ありがとう。…………今のままだと情報が足りないわ。でも、彼の失踪届は出した方が良いと思う。私の署だったら、たしかオンラインで出せるから」
瞳は、和彦が特異行方不明者になった場合はすぐ捜索の手配がなされ、一般家出人と判断された場合は、捜索が後回しにされることをあらかじめ千夏に伝えた。
「一般家出人になっても、後から事件性のある証拠や、情報が出てきた場合、優先的に捜索が開始されるわ」
「お姉ちゃんどうしよう。和彦さんがもし…………事件に…………私………………」
「落ち着いて。考えない方が良いわ。…………ほら、あの人のことだから、急にインスピレーションが湧いて、資料集めとか色々全国飛び回ってるだけかもよ?呼ばれてるっていうのも『土地に呼ばれてる!』ってことかもしれないし…………ね?」
明るく振舞って見せたが、効果はなかった。語尾を弱くしてしまったことで、瞳自身がまったくそう思っていないことを千夏に悟られることとなった。何も言わない方がまだマシだったかもしれない。
「……ごめん」
「ううん。お姉ちゃんが元気づけようとしれくれてるの分かってるから。ありがとう……。捜索願書くから、教えてくれる?」
「もちろん」
千夏はノートパソコンを立ち上げて、瞳から教えて貰った警視庁のWebページへアクセスする。トップページから生活安全局の画面に遷移し、『行方不明者に関する情報提供のお願い』と書かれたリンクを押下した。全国の警察署と管区が一覧表示されている画面に切り替わる。
「警視庁を押して、次にM警察署ってとこ」
瞳の指示に従いマウスをクリックしていく。
「ここで、『捜索願・失踪届の提出』ってとこ押したら、入力できるフォーマットが出てくるわ」
別ウインドウで提出用のフォーマットが表示された。捜索願か、失踪届をプルダウンメニューで選べる仕様になっている。千夏は『捜索願』を選択した。
「後は、必須項目の箇所に、必要な情報を記載していくだけでOKよ。まあ、少しでも情報が必要だから、全部必須みたいなもんだけどね」
「ありがとう」
「千夏、高野さんの部屋はもう見に行ったんだよね?」
「うん。詮索した訳じゃないけど、特におかしなところはなかったよ」
「なるほど」
そう言うと、瞳は立ち上がって出て行く素振りを見せた。
「帰るの?」
「ちょっと署に戻ろうと思って。調べもの」
「そう……」
「千夏、使って悪いんだけど、高野さんの身辺をもう一回調べてくれないかな。こっちはこっちで、心当たりがあるから」
「……分かった。確認してみるね」
「なにか判ったらすぐに教えてちょうだい!」
瞳はそのまま玄関から飛び出して行った。
後に残された千夏は、ノートパソコンの画面に向き直り、和彦の身長や体重など、捜索に必要な情報を記入していった。
「小野寺さん」
瞳はデスクで書類仕事をしていた小野寺に声をかけた。椅子を回して小野寺が疲れ切った表情を向ける。
「ど、どうしたんですか?」
「俺は昔からこういうのは苦手なんだよ。外で犯人と追いかけっこしてた方がよっぽど良い」
小野寺は、デスクに置かれた書類の束を恨めし気に顎で指した。
「で、どうしたんだ?さっき帰ったのに。急用か?」
「実は……」
瞳は千夏から聞いたことをそのまま小野寺へ伝えた。
「へえ。で、それがどうしたんだ?捜索願は出したんだろ?」
「はい、既にアップロードされていると思います。……小野寺さん、私、木下サチさんの件もう一度調べてみようと思うんです」
「なんで?」
「今回の件と関係があると」
「二人を関連付ける証拠があったのか?」
「まだありません。これから調べます」
小野寺は視線を天井に向けて考え込んでいた。瞳に調査の許可を出すか逡巡していた。
「小野寺さん」
「あれはもう終わった事件だ。交友関係を洗った、聞き込みもやった、解剖もした。その結果があれだ」
「はい。しかし、依然として不明点が」
「それは分っている。しかし、新しい情報や証拠がない以上、正式な捜査は認められない」
自殺と判断されると捜査は終了し、捜査報告書、死亡証明書などの公的な書類が作成され保管される。遺族や関係者から新たな証拠を提供された場合や、他の関係者から新たな情報が得られた場合、捜査を再開できるが、現時点での再捜査は難しい。そのことは瞳もよく理解していた。
「そんな!」
「落ち着け。俺はただ『正式な捜査は』認められないと言っている」
「……!」
「そうだ。調べたいのなら勝手に調べればいいさ。過去の事件を調べることが禁止されている訳じゃないしな。ただ、メインの仕事を疎かにするなよ」
「分かりました!ありがとうございます!」
瞳はお辞儀をした後、オフィスから走り去って、書類の保管室へ向かった。
小野寺は憧憬の眼差しを向けて彼女の背中を見送り「やれやれ」と口元に笑みを浮かべていた。
過去の資料を保管している保管室はオフィスから二つ下の階にあった。
中に入り照明を付ける。室内は金属ラックが所狭しと置かれ、ラックには事件の種別毎に分けられた膨大な量のファイルフォルダーが並んでいた。
瞳は自殺事件に関する最も新しいフォルダーを手に取り、部屋の最奥に設けられたデスクへ移る。デスクは電気スタンドが一台あるだけで、キャビネットの類もないお粗末なものだった。椅子を引き、腰を降ろすと耳障りな金属音が響く。スタンドの照明を付けて、瞳は、フォルダーを開いた。
木下サチの書類は上から二番目に閉じられていた。ここ最近で新たな自殺者が出たため、新しい書類が閉じられていた。書類に記載されている自殺者の情報がちらっと目に入った。すぐに頁をめくったため、詳細は分からなかったが、名前は『白石琴音』と言う若い女性だった。自分と同じ性別で、同じ年代の人間が、この短期間に自殺していることを思うと胸が痛む。
彼女たちのような人の助けになりたいと警察官から刑事になったのだが、瞳の願いが成就したことは片手で数える程度しかない。
「警察の仕事は、基本的には手遅れなんだよ」
新米刑事だった頃、被害者を救えなかったと自責の念から涙を流していた時、小野寺にこう言われた。人々を救いたいからこの職を選んだ瞳にとっては、不愉快で心外な言葉だった。
その後、度々小野寺に反発して衝突していたが、職務をこなしていくと彼の言っていることが理解できた。事件が起こってからでないと、我々は動けないのだ。瞳個人がどう思っていようとも、システムがそうなっている以上、従う他ない。
木下サチの書類を開いたまま、瞳はぼんやりと過去のことを思い返していた。気がついた時には、保管室に入ってから三十分余りが経過していた。瞳は目元を軽く揉むと、書類に目を落とした。捜査報告書は瞳自身が作成したものだったが、見落としや新しい発見があるかもしれないと、丹念に目を通した。
本名木下サチ。栃木県出身。父親を幼少の頃に亡くし、高校卒業まで母子家庭で育った。都内のS大学卒業後、渋谷に本社がある、飲食店を経営する会社に勤めていた。年齢は二十六歳。人間関係は良好で、家族仲も悪くない。週に一度、料理教室に通っていた。誰かに恨またり、敵を作るような行いはない。後ろめたい過去もない。借金などの金銭トラブルもなかった。反社会的勢力との繋がりも今のところ見受けられない。経歴は平凡そのもので見事なまでに真っ白だった。
これといった目星がないことを確認すると、死亡証明書の頁を開く。死亡証明書は死亡の事実、死因、死亡日時、およびその他の関連情報を記録する。死亡の事実と死因は、検死を担当した医師によって作成される死亡診断書に記載されている。死因は失血死とされていた。関連情報には、自殺者自身が腹部を切り裂いて臓器を取り出したとあった。素面の状態で腹部を切り裂いた時点で、ショック死を起こしそうなものだ。彼女の母である木下喜美江は、娘が「自分の中になにかいる」と叫んでいるのを聞いている。木下サチは、血を失って絶命するまで、そう叫びながら自分の体を切り刻んでいたのだろうか。
狭い静寂が支配する室内で、彼女の最期の場面を想像すると体が震える。背後に誰かが立っている気がして、振り返ってみるも、金属ラックとファイルフォルダー以外なにもなかった。
「ホラー映画の見過ぎ」
気を取り直して次に進む。書類の中で最も不可解な情報が記載されている検死報告書を開いた。
検死報告書は死因調査によって判明した、死因や死亡状況に関する詳細な情報と、司法解剖や法医学的調査の結果をまとめた書類だった。死因に関する情報は、死亡証明書に記載された内容とほとんど同じだった。付け加えられているのは、死亡に至った経緯と、死因を支持する証拠に関する情報だった。
経緯の項目には、外傷と臓器の状態が詳しく記載されている。木下サチは、包丁を何度も突き刺して無理やり切開していた。その後、胃、腸、肝臓を切除している。特に胃は甚大な傷を負っており、切り離された後、彼女自身の手で引き裂かれたようだった。胃の内容物も記録されている。彼女の部屋に充満していた、腐敗臭の中にあった酸の臭いの原因はこれだった。肝臓も胃と同様の状態であるらしい。腸は切り取られた以外の目だった外傷はなく、おそらく腸に手をかけたあたりで絶命してしまったのだろうと沢村の見解が述べられていた。
失血死という死因を支持する証拠として、身体と内臓の状態が原因だと沢村は述べている。薬物や毒物に関する記載はなかった。
瞳は薬物反応がなかったことをまだ信じられないでいた。
直接的な証拠とは断定できなかったが、脊椎、胸骨などに見られた直径八ミリの不可解な穴についても記載があった。沢村の目測では穴の直径は一センチだったが、検査の結果八ミリしかなかったらしい。深さは骨髄まで到達している。しかし遺体の皮膚には刃物による裂傷以外、目立った傷、かさぶたや瘢痕組織なども見られなかった。そのことから沢村は、これは外部から穿たれたのではなく、内部から開けられたものではないかと述べていた。経路は不明だが、木下サチの体内に外から寄生虫のようなものが侵入し、その生物が開けたのではないか、と。
瞳は沢村の記述を何度も読み返した。彼の推測が当たっていれば、木下サチの不可解な言葉に意味が生まれる。
アニサキスに寄生されると、脳が激烈な痛みを発することは有名だった。それと同じで、彼女も体内に痛みを覚えたのかもしれない。その痛みは耐えがたく、時間が経つにつれて正常な思考ができなくなった。母親への電話は助けを求めるためだったのだが、自力で解決しようとして死んでしまった。
常軌を逸した行動ではあるが、筋は通っているように思える。明確な証拠がないのは懸念されるが、瞳はとりあえず可能性の一つとして筋書きをメモ用紙に書き出していく。
木下サチは寄生虫が原因で自殺した。だとすれば、彼女はいつどこで寄生されたのかという新しい疑問が生まれる。最も可能性が高いのは、彼女が行方不明になっていた時期だった。木下サチは六月の頭から行方が分からなくなっていた。木下喜美江が捜索願を届出たのが六月十五日のことで、出されてから一週間後の六月二十二日、自宅に戻った彼女は死亡している。彼女が失踪してから死亡する日まで、彼女の部屋から物音は一切なかったと、隣室に住んでいて彼女の遺体を目撃した住民からの証言があった。
彼女の遺体には、死亡日以前に付けられた傷はないと結果が出ているため、彼女は寄生虫の存在を感知してからすぐ自殺したと考えられる。つまり、寄生虫が体内に入ってから、症状が出るまで約二十日前後の猶予があると予測できる。六月頭より前に寄生されていたのであれば、症状が出て失踪する前に自殺しているはずだ。
これらのことから、木下サチは六月一日から死亡日を含む六月二十二日の間に寄生されたと考えられる。
「…………」
瞳はメモを書き終えため息を吐いた。ボールペンを投げ出すように置き、椅子の背にもたれかかる。それらしく見えるが、荒唐無稽だと一蹴されても仕方のない出来だった。
もし、同僚がこのメモ書きを見せてきたら自分はどう思うだろう。「ミステリー小説の設定?よくできてるんじゃない?」と言って笑って終わりだ。なぜなら、寄生虫が存在したかもしれないと示唆する痕跡はあっても、明確な証拠がないからだ。
また、自分たちは微生物の専門家ではない。仮にそのような寄生虫が存在していたとしても、今の状態だと信じることができない。今考えた筋書きは、木下サチが六月の頭から既に失踪しており同月二十二日に自殺した、という事実以外に確証を持てるものはない。
「…………」
瞳はスマートフォンを取り出して、岩切にメッセージを送った。明日の昼頃会えないかという内容だった。
スマートフォンを置き、これからのことを考える。
考え出した仮説は、あくまで可能性の一つとして残しておいて、もっと現実的な線を調べていく必要があった。交友関係の洗い直し、彼女の周りで異変が起こっていなかったか、行方が分からなくなる前までの足取りを調べる。そして、行方が分からなくなっていた間、どこでなにをしていたのか追究しなければならない。それが最も難しい課題だった。
彼女の母である木下喜美江によれば、捜索願を提出した後、周囲の人間に娘を見なかったか聞いて回ったそうだが、町中にポスターを張ったりSNSで目撃情報を集めるなどはしなかったという。
瞳は怪訝に思い、SNSなどを使って探さなかったのかを聞いた。瞳の質問に木下喜美江は驚いていて、どういうことなのか説明を求めた。瞳は大まかに具体的な内容を説明した。
説明を聞き終えた彼女は口を震わせていた。聞けば、届出を受けた担当者は、そのようなアドバイスをなに一つしていなかった。必要な用紙に必要な情報を書いて持ってくるように言っただけだった。
瞳からインターネットを使った探し方もあると聞いた後、木下喜美江は恨めしそうにこのことを話した。彼女の憎しみや敵意と言った感情は、担当者個人にではなく、警察という組織に向けられていた。もしインターネットで情報を集めていたら、娘の自殺を止めることができたのかもしれないのだから、無理もなかった。
瞳は当時のことを思い出して担当者の杜撰とも言える対応に頭を痛めた。それと同時に今からでも彼女の目撃情報を集めようと考えた。しかし、自殺にはなにか裏があるのではないかという理由だけで、一個人の情報をSNSに公開することは倫理的に許されない。本人は既に死亡して許可を取ることはできない。本来であれば警視庁のホームページや公式アカウントを使って、情報の提供を呼び掛けることもできるが、この事件に関しては正式な捜査は終了しているため使えない。となると、木下喜美江に許可を貰って、SNSなどに投稿するか、木下喜美江本人に投稿してもらい情報を集めるかのどちらかになる。
「…………なかなか骨が折れそうね」
天井に備え付けられた照明が、ジジと不安をあおるような音を立て、老朽化の兆しを告げている。
どうしたら話を聴いてくれるだろう。
瞳は娘を亡くした母親に、どのようすれば寄り添うことができ、話を受け入れてくれるのだろうと照明の悲鳴を聞きながら考えていた。
瞳が出て行った後、教えてもらった手順で高野和彦の捜索願を提出した千夏は、再び和彦の書斎のあるマンションを訪れていた。失踪した手がかりが残ってないか調べるためだった。
過日と同じく、エントランスホールで呼び出してみるが、思った通り反応はなかった。合鍵を回しドアロックを開錠する。エレベーターに乗り込み五階へ向かう。着くとエレベーターから降りて角部屋へ足を運ぶ。玄関に着き、合鍵を使用する。ドアを開けると、千夏の体にむしむしとした熱気がまとわりついてきた。思わず手で払うが、それが余計に空気を攪乱してしまった。千夏は不愉快さを感じながら、違和感を覚えていた。
「……エアコン、消したかしら」
玄関の明かりをつける。違和感は先日訪れた時との差異によって生じていた。千夏が並べた和彦の靴がなくなっている。千夏は自分の勘違いではないかと過去を振り返る。脱ぎっぱなしになっていた靴を整えたのは間違いなかった。千夏はそこから先の、あの日の記憶をもう一度正確に思い出してみた。
玄関から入った後、靴を並べて脱衣所を覗いた。脱衣所は特に目ぼしいものがなかったため、そのままリビングに移ろうとした。そこで、玄関廊下とリビングを隔てるドアがわずかに開いていることに気がついた。エアコンから送り出された冷気は隙間から漏れ出しており、玄関まで空気が冷えていた。リビングに入り、室内の様子を確認した。室内は整理整頓されていて、書斎についていもデスクの上以外の場所は手入れが行き届いているように見えた。異常らしい異常は見受けられなかった。一通り見て回り、夕方頃まで和彦を待ったが、帰ってくる気配はないので、書置きをして出て行った。和彦が帰ってきた時のことを思い、エアコンはそのままに、ドアも昼間と同様少しだけ開けておいた。
やはりそうだと、千夏は確信する。和彦は一度部屋に戻っている。もしくは、和彦以外の誰か、管理人のような部屋を自由に出入りできる人物か、もしくは。
「…………」
冷汗が背中を伝って流れ落ちているのが分かる。千夏は思わず背後を振り返り、奥へと伸びる照明に照らされた外廊下へ目を走らせた。
廊下のすぐ右手には、点々とした灯りの浮かぶ闇が広がっている。車の通りが少ないため、闇は不気味なほどの静けさを湛えていた。このマンションは造りがしっかりしているため、部屋の生活音は外まで聞こえてこない。闇と同様に、無機質で、人の気配がない空間に、千夏は息苦しさを覚えていた。生唾を飲み込む音が、普段より一層大きく耳に聞こえる。
このまま固まっていても埒が明かないので、千夏は一旦和彦の室内に入った。誰もいないが、LEDに照らされた空間は、千夏の心を落ち着かせた。玄関は開けておきたくなかったので閉めた。ドアを閉めると、逃げ場を失った空気が充満する。千夏はエアコンが止まっていれば、ひとまず冷房を効かせようと思い進んで行った。
玄関に鍵はかけず、足音を忍ばせてゆっくりと進んでいく。和彦以外の誰かが入ったかもしれない、という嫌な想像が頭から離れず、どうしても足取りが慎重になってしまっていた。脱衣所のドアを開け、トイレとバスルームを確認する。異常はない。廊下に戻ってリビングの方へ足を向ける。
千夏が思った通り、リビングと廊下をつなぐドアは完全に閉じられていた。曇りガラスの向こう側は黒一色で染まっている。ガラスには、明かりによって反射したぼんやりとした自分の影が浮かび上がっていた。ドアノブに手をかけ、そっと引く。金属の軋む音が聞こえた。千夏の心臓が跳ね、思わず手を止める。
「…………」
少しの間その場で固まり耳を澄ませていたが、なにも聞こえてこなかった。再びドアを引いてみる。するとまた同じ音が鳴った。千夏は蝶番が軋んでいるのだと分かり、ほっとため息を吐きドアを開いた。
リビングに入り明かりをつける。リビングの様子は以前と変わらないように思えた。キッチンも同じく変化はなく、綺麗に片づけられたままだった。
テーブルの上に放置されていたリモコンを手に取り、エアコンの電源を入れる。エアコンは音もなく起動し、室内に冷気を送り込んでいった。熱気が薄れていき、心地よい空気が肌を撫でていく。
千夏は一息ついて、ハンカチで首筋を拭う。きめ細かな生地に汗が染み込んでいく。和彦の死体が転がっているのではないかと、極度の緊張で汗が噴き出していたが、どうやらその心配はなさそうだった。
千夏は自販機で購入したミネラルウォーターを一口飲んで、喉を潤した。書斎の確認がまだだったが、それでも気分はだいぶ楽になった。引き戸を開けて、書斎に足を踏み入れる。先ほど見て来た部屋と違って、書斎には若干の変化があった。
先日千夏が書斎を訪れた時、ウッドブラウンに光るフローリングが顔を見せていたが、今は本棚から落ちてきた本に床は占領されていた。ここ数か月の間、都内で激しい地震などはなかったし、あったとしてもよほどの揺れでなければ、しっかりと棚に収められていた本は落ちてこないだろうと千夏は思った。
自然に落ちたものとは考えにくい。となると、この惨状をもたらしたのは人間で、おそらく和彦だと推測できる。千夏は足元に落ちていた本を拾い上げた。長い間その状態で放置されていたため、なめらかな触り心地のあるページには、折れ目がついてしまっていた。千夏はまた別の本を手に取った。そっちはページが破られており、切れ端が他の本の間から顔を覗かせている。
本を愛している和彦がそのような行為に及ぶ姿を、千夏は想像できなかったが、最後に会った和彦は別人のようだった。麻薬に手を染めてしまったのか、なんらかの影響で人格が突然変わってしまったのか千夏には分からなかったが、あの粗暴な面が強調された彼ならと納得してしまう。
和彦が遠い存在になってしまったと、心に詰まるものがあった。
「和彦さん……なんでこんなことを」
本を拾い上げ、本棚に戻していく。
表紙が剝ぎ取られているものは、元に戻してあげた。切れ端などは、とりあえ分かりやすい場所に、ひとまとめにしておいた。
十数分の時間を使って、床を綺麗にすると、千夏はデスク周辺に目を向ける。デスクは床と違いすっきりしていた。ノートパソコンだけがデスク中央に鎮座している。部屋の惨状などどこ吹く風といった風情を漂わせていた。
千夏はリビングにノートパソコンを持っていこうと思い、電源コードを辿る。机上を奥へ這っていたコードは、壁とデスクとの狭間に姿を消していた。椅子を引いて、デスク下の空間に顔を突っ込んだ。うすぼんやりと黒く細長い輪郭が見える。影をスマートフォンのライトで照らす。コードは床すれすれまで伸びていて、緩いカーブを描いてキャビネットの後ろに隠れている。
姿勢を戻してキャビネットを移動させる。再び覗いて見ると、コードの先端がコンセントに刺さっているのが見えた。手でコードを辿り、コンセントから引き抜く。ノートパソコンからも取り外して、下から手繰り寄せる。千夏はコードと物言わぬパソコンを抱えて書斎を出た。
そのままリビングのソファに腰を降ろした。ノートパソコンのディスプレイを開けると、自動的にスリーブモードが解除された。メーカーの名前入りロゴが表示された後、ログイン画面が表示される。ユーザは選択済みになっており、パスワードを入力するだけだった。和彦の名前、誕生日、メッセージアプリのIDなど思いつく適当な数字と文字列を打ち込んでいくが、すべてエラーが返ってきた。
天井を見上げて、他に思い当たるものはないかと考えてみる。新調した物なだけあって、パソコンは新しい機種だった。ここ数年間、法人個人問わずセキュリティ対策の観念がユーザに浸透しているのもあって、新しいOSがインストールされているものは、たいていの場合ログインを試行できる回数には制限が設けられている。和彦のパソコンは、まだ千夏を締め出してはいなかったが、ロックがかけられるのも時間の問題だった。闇雲に入力していてはじきに締め出される。そうなるとログインを再試行できるようになるまで無駄な時間が生まれてしまう。時間は、数分程度から一時間と幅広く設定できるため、長時間締め出しされる可能性があった。
千夏はため息を吐いた。生成ソフトで作った文字の羅列をパスワードとして設定されていると、解除できる見込みはほとんどなくなる。少しでも情報が欲しい千夏は、是が非でもパソコンのロックを解除したかった。
千夏は顔をしかめ、視線を忌々しい入力欄に戻した。バーが点滅し、入力を待ち受けている姿が憎らしく映る。諦めの境地で自分の名前を入力してみた。すると『ようこそ』と白い文字が浮かび上がり、デスクトップ画面に切り替わった。
デスクトップは綺麗なもので、いくつかのソフトのショートカットと『work』と名前がついているフォルダが一つあるだけだった。
マウスカーソルを『work』に合わせてクリックする。フォルダの中には更に複数のフォルダが存在する入れ子構造になっており、それぞれ異なる名前がついていた。千夏はすぐにそれらが小説のタイトルで、作品ごとに分けられているのだと理解した。更新日時順にソートする。八月二日の日付が最新になっている。
千夏は和彦の行動を思い出した。鬱と診断されたのが六月二十三日のことで、執筆活動を止めるように忠告された。それから一週間後の六月末日に二人で植物園へ行った。彼はそのすぐ後から執筆を再開し、ひと月後に当たる七月三十日に自殺未遂を起こした。その際、以前使っていたノートパソコンは壊れてしまっていたが、バックアップを取っていたのか、データをサルベージしたのだろう。すぐに新しいパソコン、今千夏に向かって無味乾燥的な画面を表示している物を買い執筆を続けた。しかし、そうなると彼がこのパソコンを使ったのはたった二、三日程度になってしまう。自殺未遂の後も、人が変わった様になってからも、和彦が書斎にこもって執筆を続けているものだと千夏は思っていたが、そういう訳ではなさそうだった。そして一週間前の八月十三日、和彦は意味不明な言葉を残して姿を消した。
では、八月二日から姿を消すまでの間、和彦はどこでなにをしていたのだろう。
「……?」
画面を眺めているとSNSのメッセンジャーから通知が送られてきた。送り主は『Tomohiro.S』となっている。和彦の友人だろうか。
千夏は和彦の友人と面識をまったく持っていなかった。付き合いはじめた当時から、彼の交友関係について聞かされたことがない。千夏も詮索する気がなかったので、特に聞くこともしなかった。
和彦のプライバシーを覗き見る罪悪感を覚えながら、千夏は通知をクリックする。トーク画面が開かれた。先ほど送られてきたメッセージを見る。
『美咲が自殺したってよ』
千夏は美咲が誰か調べた。
和彦のプロフィールから友達を検索するとすぐに見つかった。アカウント名は『Misaki_Takeuchi』で、共通の友人に『Tomohiro.S』が表示される。学生時代の友人なのだろうか。彼女のアカウントを確認する。投稿は少なく、最後にアップロードされた写真は去年の日付になっていた。SNSには興味がなさそうな印象を受ける。
千夏はトーク画面に戻り、どうしたものかと逡巡する。メッセージを見てしまったことで、相手には既読マークがついているはずだった。過去の二人のやり取りを見ていると、和彦は早めに返信するタイプのようだった。これは千夏にも身に覚えがあり、基本的に和彦はすぐに返信をくれていた。執筆が本格的にはじまると、前もって知らせてくれるので、彼の邪魔をすることもなければ、返信が遅いと不満に思うこともなかった。どうやら『Tomohiro.S』にも同じように接していたらしい。気遣いのできる和彦のことを思い出すと、千夏の胸は締め付けられて、ひりひりとした感覚が胸中に広がっていった。
『こんにちは。はじめまして。高野和彦の彼女です。諸事情があり彼のアカウントを調べていました。美咲さんはご友人でしょうか。ご愁傷様です。和彦が知れば悲しむと思います』
このままメッセージを無視することもできたが、千夏は和彦が築いてきた信用を損ないたくなかった。そのため、彼が今メッセージを見られないことを伝えて、美咲の死については適当な返事を書いた。
千夏はノートパソコンを閉じて、一旦外に出た。ここ最近、和彦を見たか同じフロアの住民に聞くためだった。冷房で冷えた体に、湿気を孕んだ熱風が吹き付けた。普段なら不愉快に感じる熱風も、妙に心地よかった。
フロアには和彦の部屋をふくめて四部屋あり、その内二部屋は留守中のようだった。エレベーターの前を過ぎ、残りの二部屋を訪ねる。手前にある部屋の住民は見てないとのことだったが、奥にある、和彦の部屋と向かい合う形になっている部屋の住民は和彦を目撃していた。
「そういえばちょっと前、この廊下ですれ違ったな」
「ほ、ほんとうですか!?」
「うん。写真と違って、太ってたけどこの人で間違いないよ。なんか、髪の毛がやたらべたついてたな。もう何日もシャワーも風呂も入ってないって感じで」
「他になにか変わったことはありませんでしたか?」
「ああ。そうえいば、ぶつくさ言ってたな。花が、養分がなんのかんのってさ」
「…………その後、見かけたりはしませんでしたか?」
「その日はもう外に出なかったから、その後どうしたのかまでは分からないな」
「そうですか…………」
「知り合い?」
「……恋人です」
「へぇ。……災難だねえ」
「あの、ここには監視カメラのようなものはないんでしょうか」
「……そういえば聞いたことないな。良く知らないけど、管理会社に聞いてみれば?事情を話せば見せてくれるかもしれないよ。ええと……確かこの辺に……。あったあった、これ番号」
松田と名乗った男は下駄箱に無造作に放置していた資料を出して千夏に見せた。千夏は番号をメモする。
「分かりました。ありがとうございます」
「彼氏さん、はやく見つかると良いね」
松田に会釈をして千夏は部屋に戻り、すぐさま管理会社に電話したが、監視カメラの類は置いていないようだった。
千夏は、自分のアパートにすらあるのにと、意外な思いだった。
ノートパソコンを開くと『Tomohiro.S』から返信があった。千夏がメッセージを送ってから数分後に着ていたようだった。『Tomohiro.S』は和彦に彼女がいたことに驚いていた。はじめは怪しんでいたが、何回かやり取りを続けると、信じてくれるようになった。
和彦は、千夏に友人のことをなにも話していなかったように、友人にも千夏のことを話していなかったらしい。『水臭いやつだなあ』と返信があり、千夏はその点については同意した。
やり取りをしていく中で、『Tomohiro.S』は和彦の現状が気になる素振りを見せていた。二人は小学生からの付き合いだと言っており、幼馴染の身になにか良くないことが起こったのか心配している様子だった。少し迷った結果、千夏は和彦が今どうなっているのか話すことにした。和彦と、自分とのやり取りで、千夏は彼を信用に足る人物だと判断したのだった。
これまでの経緯を簡潔にまとめ、メッセージを送った。既読がついてから五分余り経過したが、返信はない。更に五分後『Tomohiro.S』から返信があった。送られてきたメッセージの内容を読んだ時、驚きと当惑がないまぜとなった感情に千夏は囚われてしまった。
『ちょっと似てますね。美咲も似たような言動だったみたいです。彼氏から聞きました。最後は人が変わったみたいだったって』