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第5話 旧友

「お忙しい時にすみません」

 翌八月二十一日、瞳は木下喜美江が借りているアパートを訪れていた。木下サチに関する捜査を、独自で再開すると伝え、その協力を取り付けるためだった。

 予め連絡を入れていたため、瞳はすぐ中に通された。喜美江の部屋もサチと同じワンルームだった。必要最低限の家具しか置かれておらず、十畳ほどの部屋にはベッド代りのマットレスと背の低い机、液晶テレビと小物を収納できるラックがあるだけだった。クローゼットは閉じられて中は確認できない。日当たりが悪く、よく晴れている今日のような日でも少々薄暗い。瞳は室内に足を踏み入れた時、廃墟然とした雰囲気を感じた。

「いいえ」

 木下喜美江はそう返事をしつつも「今更なんなんだ」と明らかに迷惑がっていた。言葉には出さなくとも、目や表情がそう訴えていた。

「お時間は取らせませんので」

「はあ」

 瞳はこれから話す内容を何度も脳内で反復した。机を挟んで向かい合う形で座る。フローリングに直に正座すると足首の部分が痛んだ。

「今日お伺いしたのは、娘さん、木下サチさんのことです」

「そうでしょうね」

「……本題に入る前に、まずは謝罪させてください。木下さんが捜索願を届出た際、まっとうなアドバイスをすることもなく、木下さんに寄り添えなかったことについて。誠に申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げる。木下サチは自殺と判断された。捜査中の過失によって命を落とした訳ではないため、謝る必要などない。加えて、警察は捜索願を正式に受理したのだから落ち度まったくない。しかし、とり残された遺族にとってそんなことは関係ない。

 警察がもっと早く動いてくれていたら、誰々は死ななかった。警察が日ごろから目を光らせておけば、誰々が行方をくらますこともなかった。このような言葉を過去にどれだけ投げかけられたか、瞳には分からない。少なくとも片手で数えられる数は超えている。

 警察は事が起こってからでないと動けない。そうだと知っていても、理解していても、愛する者を失ったという想像を絶する感情に理性は容易く押し流されてしまう。瞳はそのことを理解しているつもりだった。

 彼女は市川瞳という一個人ではなく、警察組織の代表として頭を下げていた。

「…………やめてください。そんなことをしていただいても、娘は、サチは帰ってこないんです」

 木下喜美江の声が震える。彼女も瞳たちが悪くないことは重々承知していた。捜索願を出した時も、自分にできることはないかと、相談することもできたはずだった。だが、警察が見つけてくれるだろうと高を括っていた部分もあった。友人たちに娘の行方をそれとなく聞いてみたりもしたが、そもそも分かる訳がなかった。生活圏が違うし、年代だって違うのだ。ランチの時の、会話のきっかけ程度のものだった。

 もっと真剣に探すべきだった。

 そう思うと悔やんでも悔やみきれない。しかし自分を責め立てることもできなかった。娘を女手一つで育てて来て、大学にまで行かせた自分を誇りにしていた。立派な母親だと自負していた。その思いが、責任の所在を警察に求めてしまった。悲しみは警察への憎しみに代わり、矛先を今自分の目の前で慇懃に頭を下げている市川瞳という刑事に向けていたのだった。彼女は職務をまっとうし、娘の遺体を綺麗な状態にするよう手配してくれていたのに。

 木下喜美江の皴が寄った目尻から、涙が頬を伝って零れ落ちる。木下喜美江は口元を手で隠しながら、なるべく自然な口調で瞳に頭を上げさせた。

「市川さん、頭を上げてください。市川さんのお気持ちは、分かりました。……ぜひ、お話を、聞かせてください」

 彼女そうに言われ、瞳は姿勢を元に戻す。瞳は目の前の初老の女性が泣いているのに気づき、鞄からハンカチを取り出して彼女に手渡した。

「ありがとうございます」

 木下喜美江はハンカチを受け取って、涙を拭った。

 瞳は、木下喜美江が落ち着くのを待っていた。涙を拭い終わった彼女からハンカチを返して貰い、少し間を開けてから本題に入った。

「今日お時間をいただいたのは、木下サチさんの自殺について、不可解なことがいくつかあるので、その究明にご協力をいただきたかったからです」

「不可解なこと……とおっしゃいますのは…………?まさか前話されていた麻薬を」

「いいえ。薬物反応は検出されませんでした。ただ、おかしな点が見受けられました。まだ正確なことは言えませんが」

「…………事件かもしれないということですか?」

 木下喜美江の声音が強張った。おそらく、彼女の自殺は何者かにそそのかされたのではないかと考えている。瞳はそう読み取った。

「まだはっきりとは……申し訳ございません。ですが、私はその可能性もあると見ています」

「そうですか…………」

「こちらを見ていただけますか?」

 瞳は何枚かの書類をクリアファイルから取り出した。それらは、死亡証明書や検死報告書をまとめたものだった。司法解剖の結果は本来であれば遺族にも通知がされる。瞳は、明かすことが許されている範囲の情報を書類から抽出してまとめていた。むろん、彼女に見せるためだった。

「骨に丸い穴……ですか」

「はい。主に脊椎、胸骨、助骨に散見されます。解剖を担当した医師によれば、自然にできる類のものではないみたいです」

「誰かに、穴を開けられたということでしょうか」

「それも可能性はほとんどないと思います。木下サチさんの皮膚からは、ご自身でつけた以外の傷は見られませんでしたから」

「…………それでは一体どういう………………」

「まだ分かりませんが、それをこれから調べていこうと思っています……」

 束の間の沈黙があった。室内の空気は重く、陰鬱な雰囲気をはらんでいた。

 セミの鳴き声がガラス窓を通して響いている。室内は冷房が効いていて、快適な温度に保たれているのだが、太陽の熱気に負けじと、自らの存在を誇示する鳴き声は外のうだるような暑さを彷彿とさせる。

 木下喜美江に渡したのとは別のハンカチを取り出して、額を拭った。喉が渇いていたので自分の唾で潤す。生唾を飲み込む音が普段より一層大きく聞こえた。

 沈黙は木下喜美江によって破られた。

「そういえば、娘の件について不可解なこと、というのはこの変な穴のことですか?」

「はい、それもあります。それに加えて、当たり前の疑問と言えばそうなりますが、木下サチさんはどうして行方をくらましたのか、どうして急に戻って来て自ら命を絶ってしまったのか、行方が分からなくなっている期間どこでなにをしていたのか。これらのことがまったく分かっていません。先ほども申し上げました通り、司法解剖の結果、木下サチさんの体内からは薬物が検出されませんでした。また彼女の身辺を調べたところ、誰かに恨まれていたり、敵対しているような人物も見つかりませんでした。そのため、警察では事件性がないと判断されて、捜査は打ち切られました」

 瞳は一旦言葉を切った。聞き手の脳が、話の内容を把握する時間を作った。

 木下喜美江は時折頷きながら、ゆっくりと瞳の話を咀嚼していた。数秒の間、思考を巡らせた後「続きをお願いします」と話を促した。

「警察では、捜査が打ち切られてしまうと、新たな情報や事件性のある証拠が出てこないかぎり、捜査は再開されません。しかし、木下サチさんは普通に生活を送っていて、ある日突然失踪したかと思えば、約二十日後に姿を現して…………命を絶ちました。それも通常では考えられないような方法で。…………本音を言うと、木下サチさんは薬物中毒に陥り、自律神経を喪失してしまって、あんなことになってしまったと考えていました。けれど、薬物を摂取していた痕跡はなかった。つまり、まったくの素面で自傷行為におよんでいたということになります。私は、どうしても信じられません。きっと、なにか裏があるはずです」

「その手がかりが……市川さんがおっしゃった、三つの疑問、不可解な点にあるということですね」

 瞳は木下喜美江の言葉に頷いた。

「それで、私に協力してほしいと言うのは……?」

「SNSでサチさんの目撃情報を集めていただきたいのです。名前と実名などの個人情報を載せると、投降を見た人たちがどんどん拡散してくれます。そうすることで、より広範囲から情報を集めることができるようになります」

「なるほど…………その投稿は、例えば都内だったり23区内限定とかってできるものなんですか?」

「いいえ。基本的にすべての地域、日本全国の人々に公開されます。ですが、行方不明者を探す場合、そちらの方が有効なんです」

「………………娘が県外にいた可能性もあるから、ということですか」

「はい」

「分かりました。少しでも娘のためになるのであれば……。SNSをやっている友人が居りますので、色々聞いてみます」

「そのご友人のアカウントで情報を発信して、集めてもらうということもできますよ。既にやっている方は、ある程度のフォロワー、投降を見られる人がいるので、拡散力は大きいです」

「分かりました。頼んでみます」

「ありがとうございます!」

 瞳は再び頭を下げた。自然と声に覇気が宿る。喜木下美江の協力を取り付けられたのは大きな一歩だった。

「私は私で、再度交友関係から調べ直してみます。正式な捜査でないため、動ける範囲は限られてきますが、全力を尽くします」

「そう言っていただくだけでも…………ありがとうございます。娘もきっと私と同じ思いだと思います…………」


 傷心した母親との面会を済ませた瞳は、その足でK大学附属病院を訪れていた。

 沢村からもたらされた解剖結果について、岩切の見解を求めるためだった。瞳は科学的な判断や考察が必要になった時、決まって岩切を頼っていた。警察には鑑識課があるため、そこである程度のことは分かるのだが、なぜかそちらには足が向かない。岩切も岩切で、忙しそうにしながらも、瞳に応えてくれていた。それに甘え続けてもう何年も経過していた。

 思えば、高校の頃も理科や数学で分からないことがあると真っ先に彼を頼っていた気がする。

 大学に着くと、学び舎と隣接している白塗りの白亜の建物へ向かって歩く。岩切の研究室の場所は知っていたため、解剖室へ足を運んだ時とは異なるルートを通った。解剖室のものと違って、彼の研究室へ続く廊下は明るく人の生気で満ちていた。白衣を着た研究医と思しき人物たちと何度もすれ違った。

「『遺伝研4-1』ここだ」

 引き戸をノックし、岩切の応答を待つ。しかし、いくら待っても反応はない。もう一度ノックしようとした時、背中から声をかけられた。

 瞳が振り返ると、そこには中肉中背の若い男が立っていた。

「研究室になにか?」

 男は不審そうに瞳を見ていた。

 見知らぬ人間が出入口をふさぐ形で立っていれば、警戒して当然だった。瞳は誤解を解くべく、自らの身分を明かして、岩切に用件があることを伝えた。男の顔ははじめて見る顔だった。

 男は瞳が刑事だと名乗った瞬間、驚きの表情を浮かべていたが、岩切の友人だと知ると、にこやかに微笑んで人の良さそうな顔を浮かべた。

「岩切さんなら、急用で今出てますよ」

「急用?アポ取ってたんだけどなあ」

 男は、平野と名乗った。平野の顔を見ていると気が抜けてしまい、思わずため口になってしまった。瞳は慌てて「ついうっかり。すみません」と非礼を詫びたが、平野はまったく気にしていなかった。

「とりあえず中へどうぞ。散らかってますが」

 平野に先導され、瞳は研究室内へ足を踏み入れた。

 室内は雑然としていて、一目見ただけでは用途の分からない機材が並んであった。機能的に配置されたデスクのひとつには、難しそうな書籍や膨大な量のファイルが置かれている。瞳には見慣れた光景だった。瞳が研究室をはじめて訪れた時、岩切は熱心に機材の説明や何をしているかなどを話してくれたが、瞳にはほとんど理解できなかった。唯一聞き取れた言葉は「顕微鏡」と「遺伝子」だった。

 瞳が理解できていないことを岩切は承知していたが、それでも瞳が訪れる度に説明してくれていた。瞳も、楽しそうに話す岩切を見ているのが好きだった。しかし、彼の婚約者だった明美が事故で亡くなってから、岩切は以前のように話すのをやめてしまった。研究室の雰囲気も変わってしまったように思える。以前はテーマパークのように見えていたが、今では打ち捨てられた廃墟のようだった。その変遷は、岩切の心境の変化を再現しているようにも思えた。

 室内を見ていると平野が「どうぞ」と声をかけてきた。瞳は「ありがとうございます」と言って用意されたオフィスチェアに腰を降ろす。

「岩切さん、趣味で創作してるでしょう。中には結構いい線狙えるものがあるみたいなんです」

「へえ。そうなんですか」

 突拍子もない平野の言葉に瞳は少し混乱した。なんの話だろう。

「あれ、ご存知ありませんでした?学生時代からの友人だから知ってると思ってました」

「初耳です」

 瞳は岩切の意外な一面を知ったが、違和感はなかった。むしろ、なにかしらのアートに取り組んでいる岩切の姿は容易に想像できた。

「そうだったんですか。岩切さんなんで言わなかったんだろう。……まあいいか。岩切さんパトロンがいるらしくて、多分その人に呼ばれたんじゃないかなと思います」

「パトロン、ですか」

「ええ。なにぶん我々は懐事情があまり良くないのでね。岩切さん、詳細は教えてくれませんでしたけど、創作活動ってのは結構お金がかかるものらしくて」

「なるほど。だからパトロンがいるんですか」

「ええ。定期的に会っているみたいです。今日もそうなんじゃないかな。進捗状況とか報告してるのかもしれません」

 今の言葉でようやく合点がいった。平野は岩切が席を開けている理由を話しているのだった。事件とはまったく関係なかったが、無言になるのも気まずいと思い、瞳は質問した。

「その会合は、今日のように突発的にやってるんですか?」

「多分違います。今までは、仕事の時間と被ってると、事前に報せてくれましたから」

「なるほど。でも、仕事より優先することもあるんですね」

 私との予定もそうだけど、と瞳は心の中で付け加えた。

「そうですねえ。でもまあ向こうはいわゆる名家の出の人らしいので、断り切れないんじゃないですかねえ。たしか、どっかの大きい財閥の人でしたね」

 瞳はよくそこまで知っているなと平野に感心した。たいていの場合、そのような情報は他者には話さない。平野が独自で調べ上げたのなら大した調査能力の持ち主だし、岩切が語って聞かせたのなら岩切は不用心に過ぎる。

「そんなことまでよくご存知ですね」

「以前岩切さんと一緒にいるところをたまたま目撃しまして。丸に笹竜胆の紋がついた袴を着てたので印象に残ってるんです。かなりの高齢者でしたね。車椅子に乗っていて、体調が悪そうでした」

 平野の説明で瞳は岩切のパトロンの正体が分かった。

 パトロンは、六条財閥の長である六条弘隆だった。丸に笹竜胆の紋は六条家の家紋だ。六条家はもともと華族の子爵家だった。第二次大戦中に家督を継ぐ予定だった長男、そして次男を亡くし没落したが、三男の六条弘隆が事業を興して成功し、そこからどんどん規模を大きくし五指に数えられる財閥となっていた。

 六条弘隆は今年八十八歳を数え平野の言う通り老人だった。国内外を問わず、芸術と文化を愛している人物として知られ、家紋つきの袴を普段着にしているのがその一例だった。過去、なんどか姿がテレビで流されていたが、すべて同じ着物をまとっていた。また、全国各地に勇壮な日本家屋を持っており、都内の郊外には、年代物の洋館を所有しているという噂もあった。

 加えて、文化遺産を保護している博物館や、美術館などの公的機関に出資を惜しまない人物でもあった。このことから、芸を愛する個人が、芸を産み出す人間に資金提供するのも当然だと瞳は思った。

 約二か月前、岩切と飲みに入った居酒屋で体調が回復したと報じられていたことを思い出す。あの時の岩切は、無関係な他人事のように振舞っていたが、内心パトロンの容態が戻って安堵していたのかもしれない。しかし、それから少し経ってからもまた体調を崩して倒れたと報道されていた。その後の続報はまったくなかったが、平野の話を信じるならどうやら一命は取り留めたようだった。

 引き戸が勢いよく開けられる。瞳と平野の二人は振り返る。白衣を着た岩切が二人に向かって歩いてきていた。

「岩切さん、お客さんです」

 平野は瞳を横目に声をかける。

「ああ。悪い市川、急用ができて」

 あまり詮索されたくないのうだろ、と瞳は考え軽く流した。

「いいのよ。それより、どこか人気のない場所ってある?」

「ある。行くか」

 瞳は頷いて立ち上がった。平野に軽い会釈をしてから、岩切の後に続く。

 廊下へ出て二人はエレベーターに乗り最上階まで昇った。

「なぜだかは知らないが、一部屋使われていないところがある。そこには基本的に誰もこない」

 エレベーターから降りると、岩切はリノリウムの廊下を足早に歩いて行く。瞳も岩切の歩調に合わせ歩く。瞳は沢村と歩いた陰気な空気が立ち込めていた廊下を思い出した。ここにも同じ空気が漂っている。

 岩切が足を止めた。二人は一枚の引き戸の前に立っていた。ドアをスライドさせると、がらんとした薄暗い室内が広がっていた。研究室と違い、複雑な機器や実験器具などは置いていなかった。何脚かの椅子が壁に沿って並べられ、こまごまとした備品がいくつかの箱につめこまれている。岩切は入ってすぐ横にあるスイッチを押して照明をつけた。真っ白な光が室内を照らす。

 「適当にどうぞ」

 岩切に促され、瞳は椅子を引っ張ってくる。

「それで、解剖の結果はどうだった?」

 岩切らしい単刀直入な質問だった。瞳は簡潔に結論を述べた。

「薬物の反応はなかったわ」

「じゃあ素でやったってことか」

「そういうことになるわね」

「他には?」

「ええ、あるわよ。そのことについて意見を聞きたいの」

 瞳は沢村の見解をかいつまんで岩切に伝えた。

「穴、か」

「ええ。どう思う?」

「その沢村って奴の言う通り、自然にできたものとは考えにくいな」

「やっぱり?」

「ああ。それぞれの直径も同じだし…………穴が穿たれた場所も加味するとな」

「場所っていうのは、頭がい骨、胸骨、脊椎のこと?」

「そうだ」

 岩切は左手で首筋を掻いていた。目線は虚空へ向いている。瞳は岩切が口を開くまで待った。

「…………市川、どうやって血液がつくられるか知っているか?」

 予想外の質問に瞳は面食らった。瞳は学生の頃から理科はあまり得意でなかった。刑事になったことで、人間の臓器を目にすることは以前より増えたが、それでも簡単な機能や大まかな配置を覚えている程度だった。

「知らないわ。それとなにか関係があるの?」

「ある。そうか。お前はこういうの苦手だったな」

 岩切の口元から笑みがこぼれた。瞳は学生時代、同じ仕草でよくからかわれていたことを思い出し、体が火照った。頬が赤くなっているのが分かる。

「今は、いいから、話を続けてちょうだい」

「その反応も変わらないな。分かった。…………まず血液についてだが、血液には血漿と言う液体成分と血球の細胞成分が含まれていて、骨髄で造られる。これを造血と言い、造血機能が活発な骨髄のことを赤色骨髄と言う。血球を多く含んでいて、赤色に見えるからそう呼んでいる。

 次に、なぜ赤色骨髄で造血されるのか。それは造血幹細胞と呼ばれる細胞が、赤色骨髄にある海綿状の組織に存在するからだ。造血幹細胞は細胞分裂を繰り返し、あるものは赤血球に、あるものは白血球に、そしてまたあるものは血小板にとそれぞれ分化する。

 血液がどこでどのようにして造られるかの大まかな説明だが、ここまでは大丈夫か?」

「ええ。大体は…………」

 岩切が内容をかなり嚙み砕いて説明してくれているのは瞳には分かっていた。しかし、学生時代の頃からある苦手意識のせいか、時々思考が停止しそうになる。

 瞳は岩切を訪ねるにあたって、質問事項に関する知識を少しばかり調べておけばよかったと後悔し、そうしなかった自分を恥じていた。

「まあ要するに、血液はある特定の骨髄で造られるってことだよ」

「ありがとう。ええと、だから、遺体に残っていた穴と血液が生成される器官に関係があるってことよね」

 岩切は首肯する。こうしていると、二人は学生と教師の間柄に見えた。現に、瞳は岩切から理化学系の知識を教えて貰っている時は、そのように思っていた。岩切が理科の先生だったなら、もう少し勉強できていたかもしれない。

「次に進もう。造血は日々赤色骨髄で行われているが、その場所は成長と共に変化する。胎児から乳幼児までは、全身の骨髄で造血が行われる。その頃のヒトの骨髄はすべて赤色骨髄だと言えることができる。しかし、赤色骨髄の中には、ヒトが年齢を重ねると共に造血機能を失ってしまうものもある。造血機能を失った骨髄は脂肪組織に変わる。

 脂肪化した骨髄は、脂肪の黄色い色に変わるため黄色骨髄と呼ばれる。思春期、成長期の頃までは、手足にある長骨でも造血が行われ、赤色骨髄は見られる。だが、それを過ぎると、全身にあるほとんどの骨髄は黄色骨髄になってしまう。成人以降、造血機能を持った赤色骨髄は頭がい骨、胸骨、肋骨、脊椎骨などに限られる」

「それって穴が開いていた場所」

「そうだ。偶然にしてはできすぎだと思うな」

「そうね……。でもだとしたらどういうこと?血液を造る機能に、なにか影響を及ぼそうとしていたってこと?」

「さあそこまではなんとも。沢村はなにか言ってないのか?」

「皮膚に刃物による裂傷以外の傷はなかったから、外部から受けたものとは考えにくいそうよ。体内に寄生虫かなにかが侵入したのではないかって。ごめんなさい、先に渡しておくべきだったわ」

「どうも」

 瞳は喜美江に見せたものと同じ書類を岩切に渡した。

 書類に目を通し、首筋を掻きながら、岩切は考え込んでいる様子だった。沢村の見解を吟味しているのだと瞳は思った。

 互いに一言も発しなくなってから数分が過ぎた。室内には紙の擦れる小さな音が、一定の間隔で聞こえていた。岩切が書類の頁をめくっている。二人の間に得体のしれない緊張感が生まれていた。瞳は全身の体毛が総毛だっているのを感じた。読み終えた岩切は書類をデスクに置いた。岩切は瞳をジッと見つめていた。

「市川はどう思う?」

「……分からないわ。確たる証拠がないもの」

「まあ、だろうな」

「あなたはどう思う?」

「…………他者からそうさせられた」

「え?」

「薬物反応がなく、彼女は素であれだけのことをしていた。しかし、漠然としているが、何か別の、外部からの要因があると俺は思う。その痕跡が不可解な穴だ。なぜこの穴はできたのか、それは現時点ではまだ明確なことは言えない。しかし、木下サチという女性に、自殺を促した人物がいるかもしれない」

 首筋を掻いている。声には困惑の色が濃い。岩切がこのような曖昧な物言いをするのは珍しかった。

「前話してた、洗脳とかってこと?」

「…………」

 岩切は答えなかった。岩切は明確になっていない事柄について、はっきりとものを言いたくないのだろう、と瞳は承知していた。頭の中でその可能性もあると補完した。

「一人で調べているのか?」

「そうね。この事件、既に解決済みって扱いになっちゃってるから。あ、でも喜美江さんには、ちょっと協力して貰ってるけど」

「誰だ?彼女の母親か?」

「ええ、そうよ。SNSを使って、木下サチさんの目撃情報を集めて貰ってるの。他の仕事をこなしながらだと一人じゃ間に合いそうもないし。……正直、今更感はあるけど、なにもやらないよりかはね」

「そうだな」

 岩切は小さく笑った。


 瞳が署に戻ってきたのは午後三時過ぎだった。朝から木下喜美江と岩切へのアポをぶっ続けでやっていたので空腹感に苛まれていた。署に帰る途中、コンビニでパンを買い腹を満たした。

「どうだった?」

 瞳の姿を認めるや小野寺が話しかけてきた。木下喜美江とのやり取りに手応えがあったか、彼自身も気になっているらしかった。

「明かせる範囲で情報を開示して、協力していただけることになりました」

「そうか。良かったな」

「捜査の状況は、小野寺さんにも報告します。事件として認められるものが出てきた場合、すぐ動いていただけるように」

「ああ。そうしてくれ。ちなみに、どのようにして調べていくんだ?」

「喜美江さんには、友人のアカウントを使ってSNSで木下サチさんの目撃情報を集めてもらうことにしました。私は、もう一度交友関係を洗い直します。なぜ彼女は突然いなくなってしまったのか、まずそこから知る必要があると思いますから」

「そうだな。もしかしたら、彼女が失踪する前の行動について、思い出せるようなこともあるかもしれんからな」

「はい」

「小野寺さん、電話です」

 若い男性刑事が、小野寺に電話があったことを告げに来た。

「ああ。ご苦労」

 小野寺は自分のデスクに戻り、受話器を取った。

「もしもし小野寺だが…………ああ。それで、場所は?」

 事件が起きたのだ。瞳はトイレに向かおうとしていた足を止め、小野寺の元へ歩み寄る。その間も、小野寺は相槌を打ちながら、メモ帳に電話口から伝えられた情報を書きなぐっていた。

「分かった。すぐそちらへ向かう。良いか、奴さんを刺激するような行動だけはするなよ!」

 受話器を置いた小野寺の視線が、瞳と重なった。

「銃を持った立て籠もりだ。行くぞ」


 息が詰まる通勤電車から抜け出し、千夏は改札を通ってオフィスに向かって歩いていた。『Tomohiro.S』から送られてきたメッセージが頭から離れない。『自殺する前は人が変わったようだった』ということは、既に和彦も人知れず死んでいるのかもしれない。そう思うと、足が震え立っていることもおぼつかない。

 千夏は、美咲の生前の行動を詳しく知りたがり『Tomohiso.S』は協力してくれることとなった。明日の八月二十二日、近場のカフェで情報交換の予定を取り付けた。

 「おはようございます」

 オフィスに入ると、室内が浮足立っているのが分かった。表立って騒いでいる人物はいないが、皆妙にソワソワして、千夏の姿を数秒余り見つめると、気まずそうに視線を逸らす。

 なにかあったのだろうか。

 千夏は居心地の悪さを感じながらも、適当なデスクを見繕って鞄を置いた。冷水を欲してウォーターサーバーへ足を運ぶ。デスクに戻ってくると、土井和子と同期の山田が千夏を待っていた。

「おはようございます」

「山田さんおはようございます」

「すみません、ちょっとお話いいですか」

「ええ……大丈夫ですよ」

 山田も他と同様落ち着かない様子で、黒縁眼鏡を外して何度も汗を拭っていた。

「なんだか、皆さん落ち着いてないご様子ですけど、なにかあったんですか?……システムに問題でもありましたか?」

「ああ、いえ。そういう訳ではないんです。ただ、土井さんが」

「土井さんが?」

「失踪してるみたいなんです。昨日、彼女の身内の方から会社に連絡があったようです。姿を見てないかって」

「そんな…………」

 和彦、美咲に続き土井和子も姿を消した。この短期間で、同じ症状が出て、同じようにいなくなるなど、まったくの偶然だとは思えない。千夏は彼らの背後に作為的な存在を感じ始めていた。

「市川さんと土井さんが、あそこで話していた日のこと覚えてますか?」

 山田が示した方向に視線を向ける。千夏は軽く頷いた。土井和子の異常な行動は忘れたくても忘れられなかった。

「あの日、土井さんは結局謹慎を言い渡されたみたいで、以降出勤してなかったんです。それに、会社側も厳格に管理できていた訳ではなかったみたいで、土井さんが居なくなったことに気がつかなったみたいです」

「そうだったんですか。でも、どうしてみんな私のことを見てくるんでしょう」

「それは、土井さんと一番交流があったのが市川さんだからですね。多くは、同情しているんだと思います。それにですね」

「その他にもあるんですか?」

「はい。これは僕もそうなんですが、市川さんになにかメッセージを残してないかなと思って」

 千夏は首を左右に振って否定する。昨日から今朝にかけて千夏個人に宛てたメッセージはなかった。一応、社内で使われている連絡ツールを開いて確認してみたが結果は同じだった。

「そうですか。残念だなぁ」

 山田はため息を吐いた。彼の態度は土井和子の身を心配しているというより、非日常感を味わえるイベントに浸っている風に見えた。千夏は不愉快な思いを抱きながらも、先ほどから気になっていたことを山田に質問した。

「土井さんの身内の方はオフィスまで来られたんですか?それとも電話で?」

「電話でしたね。総務の方が取ったみたいです」

「電話を取った方はどなたですか?」

「あ、ええと…………ほらあそこに座ってる方です」

 千夏は土井からの電話を取ったという人物の姿を確認すると、山田に礼を言ってその場を去った。人物が座っているデスクに近づき、首からぶら下げているセキュリティカードで名前を確認する。

「杉山さんおはようございます」

「……おはようございます。市川さんですね。どうかされましたか?」

「昨日土井さんの身内の方から電話を受けたと伺いましたので、その時のことを教えていただきたくて」

「ああ、あれですか。……まあ大丈夫でしょう。市川さん、土井さんと仲良かったみたいですし」

「ありがとうございます。……それで、電話ではどのようなことをお話されたんですか?」

「土井さんが会社に来ていないかと聞かれましたね。彼女は謹慎処分になっていたので、遠回しに伝えました。でも土井さんの自宅は現在もぬけの殻になっているみたいで、長い間帰ってきていないみたいです。それで、社内でも確認してみますと言って会話は終わりました」

「その他にはなにも?」

「はい。なにも。そういえば市川さん、土井さんからなにか連絡着てたりしませんか?」

「さっきも確認しましたが、特には」

「そうですか。……何事もなければいいんですけどね。あんまり連絡がつかないようだと、警察に言わないといけなくなりますから」

 杉山に礼を言って、千夏はデスクに戻った。山田は千夏の帰りを今か今かと待ちわびていた様子で、千夏が腰を降ろすなり、なにか収穫がなかったか聞いてきた。

「特になにもありませんでした」

「そうですか。土井さん、いったいどこへ行っちゃったんでしょうね」

 好奇心に満ちた表情を向けられた千夏は、あいまいな笑顔を浮かべるしかなかった。


 和彦のノートパソコンからは、その他の手がかりになりそうなものは見つからなかった。千夏は今日の『Tomohiso.S』との会合に一縷の望みを託すことになった。

「どうも。坂上友宏です」

 土曜日、千夏は坂上と都内のカフェで落ち合った。全国に展開しているチェーン店で、坂上のお気に入りの店だということでそこに決まった。

 店内には涼を求めた大勢の客がいた。カップルもいれば、スーツを着たサラリーマン、老人など様々だった。千夏たちは、運よく空いている席を見つけ、確保することができた。

「人気なんですねここ」

「まあ、まず間違いないですからね」

 それぞれアイスティーと、ブレンドコーヒーを頼んだ。しばらくすると頼んだ品物と一緒に、サービスのピーナッツがついて運ばれてきた。千夏はアイスティーを口に入れ、坂上がこの店を推す理由を理解した。ほんのりと広がるレモンの味が、渇いた口内と喉を冷たく潤していく。二人は示し合わせたかのように、カップに口を付けていた。坂上は満足気な表情で窓の外の景色を見ていた。千夏も視線を向ける。

 外には子連れの家族や、学生と思しき若い男女が明るさを振りまきながら、太陽に照り付けられた白い街並みを闊歩していた。思い出を残そうと、炎天下の中を目的地に向かって進んで行く。彼らの姿からは、生命力にあふれたポジティブなエネルギーが放出されているようにも見えた。今の千夏には望むべくもない光景だった。羨望と嫉妬の感情が胸中で渦巻く。

 千夏は瞼を閉じて、坂上に聞こえないようため息を吐いた。視線をアイスティーが入った透明なコップに戻す。

「楽しそうですよね」

 坂上が口を開いた。坂上は物憂げにコーヒーカップを見つめていた。千夏は短く「そうですね」と答えた。二人の間に数分間の沈黙がおとずれた。双方、なにを話せばいいのか分からないでいた。

 ここに来た目的、なぜ合うことになったかは理解しているが、いきなり本題に入ることをそれぞれが躊躇っていた。しかし、我慢できなくなったのか、手持ち無沙汰でカップをつついていた坂上が口を開いた。

「僕たちがまだ小学生だった頃の、和彦の面白い話がありまして」

 坂上の言葉が会話の呼び水となった。

 円卓を挟んで、二人は和彦の昔話で盛り上がった。はじめてやり取りをした日と同じ話もあれば、はじめて聞く話もあった。和彦との長い付き合いを通じて直接聞く彼らの思い出は、液晶画面に表示される無機質な文字よりも遥かに生き生きとしていて、彼らの息遣いが感じられた。

 それは坂上も同様で、千夏から自分の知らない和彦の一面を聴かされて満足している様子だった。楽しい時間は一瞬で過ぎ去る。二人が入店してから、既に一時間近くが経とうとしていた。西日は強くなる一方で、アスファルトでできた世界を焦がしていた。

「さてと……」

 一通り話し終えたところで、空気が一変する。本題に入る合図だった。千夏の姿勢も自然と正された。背筋がいつも以上に伸びているように感じる。

「美咲のことについてなんですけどね……詳しい内容は美咲の彼氏から聞きました」

「彼氏さんは来ないんですね」

「ええ。かなり落ち込んでいます。今日のことも話してみたんですけど」

 千夏は、美咲の彼氏が感じている胸の痛みを少しは理解できるつもりだった。生死はまだはっきりとしていないが、このまま見つからなければ和彦は死んだも同然だった。

「それで、美咲さんについては」

 千夏が先を促すと、坂上は一呼吸おいて話しはじめた。

「美咲は、生来虚弱と言うか、あまり活発な性格ではなかったんです。詳しくは教えてくれませんでしたが、病気持ちで子供の頃から服用している薬もあって、この年になってもずっと飲み続けてました。それがある日突然、人が変わったように明るくなって、彼氏も長年の治療のおかげだと喜んでいたみたいです。で、ある日突然いなくなった。意味不明な言葉を残してね」

 和彦と、土井和子も似たような状況に陥っていた。和彦はスランプから脱しきれず鬱と診断され、土井和子は一年間休職していた。やはり三人はどこかでつながっているのだろうか。

「意味不明な言葉というのはやっぱり」

「はい。和彦と同じような言葉です。花がどうとか、遺伝子がどうとか」

「…………」

 コーヒーを口にし、坂上は喉の渇きを潤し、鞄から一冊のキャンパスノートを千夏に渡した。

「これは?」

「美咲の遺品です。開いてみてください」

 千夏は坂上に言われるがままノートを開く。まっさらだったはずの、A4サイズの頁には黒い線や模様でびっしりと埋まっていた。所々にある僅かな余白のせいで、一層汚く見えてしまう。千夏は適当に頁をめくってみたが、どれも同じように塗りつぶされていた。

 千夏は顔を上げ坂上に目で訴える。坂上は頷くと再び口を開いた。

「美咲は自殺する直前まで、それに書き込みしていたらしいです。この前のメッセージで、僕が『ちょっと似ている』と言ったの覚えてますか?」

「はい」

「和彦の件と似ているのは、人が変わったように明るくなった、元気になった、その後どこかへ消えた、という部分です。けど実は、美咲は行方をくらました後、帰って来てるんです。彼氏の許に。その時の様子も教えてくれました。ずっと『連れて行かれる』と怯えていたといいます。そのノートにも、同じ言葉を書いているんです。ほとんどが文字と文字が重なったり、潰れてたりして読めませんが、いくつか独立して残ってます」

 坂上は千夏からノートを受け取って、あるページを開き、再び千夏に渡した。

 坂上の言った通り、そこにはとげとげしい筆跡で『連れて行かれる』と書いてあった。

「…………でも結局誰かに連れて行かれることなく亡くなったんですよね」

「はい。警察は、そうなる前に自殺したと判断したそうですね。事件の可能性があるとして、捜査はしてくれたみたいですが、結局なにも分からなかったみたいです」

「そうですか……」

「そのノート良ければ差し上げます。彼氏も気味悪がって要らないと言ってましたから」

「……ありがとうございます」

 千夏自身も、このノートが不気味で傍に置いておきたくなかった。だが、和彦につながる情報があるかもしれないと思うと、手放すこともできなかった。

 アイスティーを一口飲み、千夏はノートを鞄にしまい込んだ。

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