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第7話 再会、そして

 仕事を終え、連日の疲労のせいで重く感じる体を引きずって家に帰る。

 アパートの外階段を上がる。部屋の前には母がいて、「おかえり」と眉を下げて笑った。


「何しに来たの」

「やだ、そんな顔しないでよ。の手紙のこと、謝りに来たの」


 どういう風の吹き回しだろうか。私の顔色を窺うように覗き込まれる。

 私が『なぎちゃん』と呼ぶことさえ嫌がる母が、『なぎちゃん』と甘えるような声で言った。ごめんね、と繰り返し謝る母の声が気になって、部屋に入るように促す。

 居間に入ると、母はもぞもぞと姿勢を正して座った。自分の家のように振る舞ういつもの様子とは違って、これはこれで気持ちが悪い。


「渚の、手紙のことって?」

「知らないって言っちゃったけど、本当は知ってるの」

「……そうなんだ」


 何を今更。知ってるよ、と言ってやりたいけれど、相槌を打つ。


「家を引っ越しする前にね、何度かなぎちゃんから届いていたのよ。が大きくなったら渡そうって私も思っていたんだけれど」

「どうして、そのときに渡してくれなかったの?」

「ほら、あの頃は、なぎちゃんと離れ離れになったばかりで、海ちゃんも寂しくなっちゃうかなって思って」

「その手紙は、今どこにあるの?」

「……ごめんなさい、引っ越しを繰り返しているうちに失くしちゃったみたい。大事にしていたのよ、今朝も海ちゃんとの電話のあと、家の中を一生懸命に探したの」


 本当よ、と母は必死を装う。最善は尽くしたのだと、私に訴えかけてくる。その母の目は、見ることができなかった。


「引っ越ししてからは、なぎちゃんから手紙は届いていないわ。本当に、その男の子……なぎちゃんの子どもは、ずっと手紙を出し続けていたって言ったの?」

「うん」

「でも、子どもが言うことなんて、当てにならないわよね。結構前のことも最近って言ったりするでしょう?」


 母の声が耳を素通りしていく感覚がする。何を言われても、「私は悪くない」と言っているようにしか聞こえない。ぺらぺらなそれらしい理由を並べて、結局最後は、自分のせいじゃないと言う。しおらしいのなんて、表面だけだ。

 その裏にある感情が何かなんて、手に取るように分かる。


「もういいから、帰ってもらってもいいかな。今日、忙しくて、疲れちゃったの」

「そ、そうよね。帰るわね。ごめんね、急に押し掛けて」


 母は床に置いていた、ショッキングピンクカラーのショルダーバッグを肩にかけると、いそいそと玄関先へと向かう。ヒールの高いパンプスに足を通しながら、母は思い出したように振り返った。


「なぎちゃんの家のこと、よろしくね。『大事なもの』は持って帰ってきて」


 頷くことすら馬鹿らしいと思えた。玄関扉が、またあの人が手を添えないせいで荒々しい音を鳴らして閉まって、思わず笑ってしまった。やっぱり、気の遣えない人だと。




 次になぎちゃんの家に行くころには、さらに季節は進んでいた。冬物の服に厚手のコートを着て電車に乗り込んだ。やはり、そちらの方面に向かう人は少なく、なぎちゃんの町に到着するころには、乗客は私だけになっていた。

 暖房の効いた車内から一歩ホームへ足を下ろせば、その温度差に思わず身震いしてしまう。


「寒い」


 つい声が漏れる。駅舎の中にあるベンチに一度荷物を置いて、コートのボタンを閉じる。海が近いからだろうか。それとも車内で体がしっかりと温もっているせいか、自分が住んでいる町よりも気温が低い気がする。体が冷え切ってしまう前に、早くなぎちゃんの家へ向かおう。


 駅舎を出る。ナビがなくても辿り着けそうだけれど、念のためスマートフォンのナビアプリも起動させる。


 定食屋さんの『刺身定食』の横に、『温かいお味噌汁あります』と書いてあって、心が惹かれた。腕時計を見る。正午にはまだなっていないけれど、お腹が「くぅ」と情けない音を鳴らした。お店の前には『営業中』の札がかかっている。腹ごしらえをしてから行くのも悪くないかも。せっかくだから、食でもなぎちゃんが生きた町を堪能しよう。


 定食屋さんの大きな掃き出し窓のような引き扉を開ける。いらっしゃい、と活気の良い女性の声が店内に響いた。


「お好きな場所にどうぞ」

「はい、ありがとうございます」


 あまりこういうお店には入った経験がなく、どきまぎとしてしまう。店内に貼られたメニューを見ながら、一番近いテーブル席につこうとして、「あ、」という声が聞こえて振り向いた。

 隣の席から私を見る幼さの残る目。嫌悪をこれでもかと表現するように眉がしかめられている。そのテーブルには、『こぶた弁当』と書かれた袋が置いてあった。前にも持っていた袋だ。


「黒太郎くん」


 思わず、そう呼んでしまった。彼は、みるみるうちに目を真ん丸にさせて、それから「なんで知ってるんだ」と表情を険しくさせる。


「お隣の大家さんに教えてもらったの」

「クソジジィ、余計なことばっかり言いやがって」


 男の子はそう愚痴を言いながら、袋の中からお弁当を出す。ここのお弁当なのだろうか。店の奥からトレイにお椀を載せた初老の女性が、黒太郎くんのほうへやって来る。湯気の立つそれからは美味しそうな味噌の香りが漂ってくる。


「お姉さんは、何にする?」


 黒太郎くんの前にお味噌汁のお椀を置いた女性は、私のほうを向いた。


「あ、えっと。刺身定食と、お味噌汁お願いします」

「はい、ちょっと待っててね」

「お願いします」


 刺身定食とお味噌汁、と女性は厨房のほうへ戻りながら大きな声で言う。その奥に、調理担当のスタッフがいるのだろう。

 黒太郎くんはお弁当の唐揚げを頬ぼっている。


「美味しそうだね、それ」


 黒太郎くんは一度こっちへ視線を向けてから、背を向けるようにお弁当ごとそっぽを向いてしまう。まだまだ会話をしてくれる気はないらしい。仕方ないか、とまだ着たままだったコートを脱いで、椅子の背もたれにかけた。


 私が頼んだ料理は、十五分ほどで席に運ばれてきた。お昼が近付いてくるにつれ、徐々にお店の中にも人が増えてくる。その内にさっきの女性の店員さんが、テレビの電源もつけるから、黒太郎くんと私の間に会話がなくても、気にならないくらい店内は賑やかになる。


「なぎちゃんも、ここのお店来たことあるのかな」


 心で思っていたことが、独り言として口から出た。


「ないよ」


 言葉にしてしまっていたのだと気付いたのは、隣の席から返事がかえってきたからだ。黒太郎くんは相変わらず私に背を向けたままだけれど、それが彼の声だということは分かった。


「そっか、ないんだ」

「来たいとは言ってたけど」

「そう」


 お味噌汁に一口、口をつける。温かい。体の奥から温まるような、心がほぐされていく感覚。もしかしたら、それは黒太郎くんが返事をしてくれたからかもしれない。心地の良い時間を堪能するように、「おいしい」と呟いた。


 先に店を出たのは、黒太郎くんのほうだった。それ以上の会話は店内でなかったけれど、心の距離が一歩前進したようで嬉しかった。返事をしてくれたのは、ただの気まぐれだったのかもしれないけれど。


 食事を食べ終え、会計を済ませて店を出る。空気の冷たさに目を細めて、すぐ。


「ねぇ」


 コートの袖を引っ張られ、驚く。黒太郎くんが寒そうな顔をして、私を見上げている。私のことを店の外でずっと待っていてくれていたのだろうか。


「あんたに見せたいものがあるんだけど」


 今から渚の家行くんでしょ、と袖から手を離して、彼は続けた。その声は、相変わらずつっけんどんな物言いだけれど、声色は幾分か柔らかかった。


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