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第3章〜ピグマリオン効果・教育心理学における心理的行動に関する考察〜③

 10月17日〜21日


 三軍男子の戸惑とまどい深津寿太郎ふかつじゅたろうの場合〜


「聞いていると落ち着く」 (18歳)

「ずっと耳元で聞いていたい」 (16歳)

「聞くとドキッとする」 (17歳)


 半年ほど前、瓦木亜矢かわらぎあやが、《ミンスタグラム》のアンケート機能で、フォロワーに、


「男性のイケボをどう思うか?」


という質問をしたところ、なんと96パーセントの女子が「好き!」という選択肢を選んでいた。

 冒頭に記したコメントは、その際に寄せられた意見を一部抜粋したものだ。


 週明けに行われたプレゼンテーションでも、の重要性を熱く語っていた亜矢は、実際のトレーニング開始前にも、『マインドセット』と称して、持論を補強するかのように、


「現在の女子が、如何にイケボを求め、イケボに癒やされているか」


について、滔々と講義を行っていた。


 教え子に対する厳しい指導が評判のヒギンズ教授……もとい、講師役の瓦木亜矢いわく、イケボを特徴づけるのは、こんな要素があるそうだ。


 ・落ち着きがある話し方

 ・輪郭のある声

 ・心地よい重低音


「落ち着きがある話し方っていうのは、決して早口にならずに、焦らずに言葉を一つひとつ丁寧に伝えるような話し方のこと。トーンを一定に保って、声のボリュームも大きすぎない、心地いい声で話すと好感度が上がるよ」


「輪郭のある声は、つまり発音がきれいで、言葉が聞き取りやすい声のこと。声が低くなると発音がボソボソと聞こえづらくなるイメージがあるけど……イケボと呼ばれる声には、輪郭があって、言っていることがスッと伝わるので感情も伝わりやすくなるんだ」


「心地よい重低音も、イケボの特徴のうちのひとつね。渋い大人の男性の魅力が詰まったような声をイメージするとわかりやすいかもしれません。低いだけではなく、響きのある声であることがポイントでかな?」


 彼女の考えるイケボには、こうした特徴がある、とのことだ。

 さらに、それらの三要素に加えて、亜矢は、


「でも、やっぱり一番必要なのは、かな〜」


などと、で語っていたが、この点に関しては具体的な説明がなかったこと、さらに、女子の求めるというものについて、寿太郎じゅたろうには、まったく想像が及ばなかったことから、彼はあえて、スルーすることにした。


(それは、たとえば、亜矢の元カレであるハルカ君とやらの歌声みたいなモノなのだろうか……?)


 なんて、想像してみたりもするが、つまらない詮索はやめておこう……と、彼はそんな考えを振り払う。


 寿太郎じゅたろうが余計なことを考えている間に、さらに彼女の講義は続いた。

 イケボを習得するためには、三つの訓練が必要だそうだ。


 ・腹式呼吸

 ・鼻腔共鳴

 ・ミックスボイスの習得


 そして、これらの技術を習得するために、開始されたボイス・トレーニングは、これまで訓練や鍛錬といったこととは無縁な生活を送ってきた男子生徒にとって、過酷そのものといえる内容だった。


 LESSON1:腹式呼吸の習得


 鼻腔共鳴やミックスボイスという単語は初耳だったが、スポーツや音楽活動に縁のなかった寿太郎じゅたろうも、腹式呼吸の重要性くらいは聞いたことがあった。

 しかし、その腹式呼吸を行うべく、日常的に腹横筋を鍛えるためのドローイングの継続は、なまっている彼の身体には、なかなかに厳しいものだった。


 ジャケット姿から学校指定のジャージに着替えて行われた鍛錬では、下腹部の膨らみを意識しながら、三秒間で息を吸い、七秒間で息を吐くという動作を十回続けるだけで、呼吸が乱れてしまう。


 しかし、なにより厳しかったのは、視聴覚室のフローリグの床にシートを敷き仰向けになって行われたドローイングの練習で、


「違う! 意識するのはお腹だけじゃなくて、ココも!」


という声とともに、足元にいた彼女が、オレの股の間にある会陰えいんと呼ばれる部分(この名称に心当たりのない人はネットなどで検索してみてほしい)を親指でグイグイと抑えてきたことだ。


 妹だけでなく、クラスメートの女子や映文研の下級生メンバーがいるため、恥辱的な声が出るのを抑えながら行うトレーニングは、肉体的にも精神的にも、想像以上に厳しいモノがあったことは、彼の苦労を伝えるために記しておきたい。


 LESSON2:鼻腔共鳴の習得


鼻腔共鳴びくうきょうめいっていうのは、鼻の奥にある鼻腔びくうと呼ばれる空間に声を響かせるテクニックのこと」


 亜矢の解説によれば、この技術を身に着けていると、「普通に発声するよりも音がよく響くので、温かみのある声になる」ということだ。

 さらに、彼女は、「歌声で人を魅了する歌手は、この鼻腔共鳴のテクニックがとても重要で、身につけている人が多い」と説明を加えた。


 この鼻腔共鳴の練習は、次のような手順で行うらしい。


 ①ハミングで音階練習をする


 まず、鼻の付け根を軽くつまみながら、ハミング(鼻歌)でドレミファソラシドと歌ってみる。

 ハミングは鼻が震えやすく、鼻腔共鳴する感覚を掴みやすいらしい。


「この段階では、まだ音程を気にする必要はないから、鼻が震える感覚をしっかり体に覚えさせてね」


 亜矢の指導のもと、その感覚がつかめるよう、寿太郎じゅたろうは練習を重ねる。


 ②ハミングのまま歌う


「鼻が震える感覚を把握できたら、次はハミングのまま歌う練習をしよう! 歌う曲は、好きな曲や歌いやすい曲を選んで大丈夫だよ」


 彼女の言葉どおり、自分が音程を取りやすく、馴染みのある童謡の『カエルのうた』で、練習してみることにした。

 鼻をかるくつまんで、鼻歌を歌う要領で、童謡を口ずさむ。


「目標は、ハミングで鼻腔共鳴をしながら音程をとれるようになること! ゆっくり時間をかけて練習しよう」


 全体のスケジュールから考えて、あまり時間をかけている余裕はないと思うので、これくらいはスムーズに習得しておきたい。その想いが実ったのか、なんとか、ハミングで鼻腔共鳴をしながら音程をとれるようになってきた。


 ③鼻腔共鳴しながら発声練習する


「最後は発声練習! 鼻腔共鳴をしながら、母音を声に出してみよう」


「母音のイ→エ→アの順で鼻が震える感覚を感じやすいから、最初はイ、それできるようになったらエ…と段階を踏んで練習するのがおすすめだよ」


 彼女は簡単に口にするが、鼻腔共鳴をしながら、母音を声に出すことは、寿太郎じゅたろうにとって、なかなかにハードルの高いことだった。


 自宅に帰ってからも、妹の柚寿ゆずに見守ってもらいながら、彼は、毎日トレーニングを続ける。


 そうして、週末が近づいた頃、ようやく、鼻腔共鳴のコツを掴めた寿太郎じゅたろうは、最後のステップであるミックスボイスの習得とやらの難易度が気になりながらも、着実に自分の声が変わっていっていることに喜びを感じていた。

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