春先になると変質者が出ることはままあるとは言え、この魔物の
アサゴでは、特に老人や子ども、女性等、抵抗が出来ない弱者に対する暴行が厳しく罰せられる。程度によるが、即刻、アサゴを囲う塀の外──魔物の巣窟に追放処分が下されることもある。それが抑止力となり、暴行や殺人事件の発生件数は年間を通しても特に少ない。
清良はその
疑いはさらに深まった。
「出来すぎた話だって言いたいんだろう?」
「そうよ」
「その事件の暴漢は処分されたのか?」
「実質な被害がなかったからって、届け出なかったんですって」
「はぁ!?」
天井から視線を外したモーリスは
顔を向けた先にあったサリーの沈痛な面持ちは、すべてを物語っている。
詳細を語られずとも、染野慎士が被害届けの提出を阻止したのだと察したモーリスは頭を抱える。
「あの男はどこまでクズなんだ?」
モーリスが低くこぼすと、サリーも同じことを思ったようで、二人のため息が重なった。
「……清良ちゃんから聞いたんだけど、届け出れば噂が立つって言われたそうよ。そうなれば店にも悪評がたつかもしれないって」
「そんなことあるか!」
「あなたは私が守るから、もう何も心配することはない……そう言われて、彼女は受け入れちゃったの」
淡々とそう言ったサリーの綺麗な瞳は怒りと呆れの色に染まっている。煮えたぎる
「犯人を野放しにして守るって、頭、可笑しいだろう」
「毎日のように清良ちゃんの家に通って、出かける時は駆け付けてくれたそうよ」
「そして、いつまた襲われるかもと怯えていた織戸清良を守った紳士は、交際を申し込んだって? ますます怪しいな」
「……そうだけど、清良ちゃんは慎士を信じてる」
「彼女のことを本当に思うなら、まず、その暴漢を罰するべきだろう」
その時の状況を把握できなくとも、清良が娼婦めいたことや犯罪を招いた行動をしたとは考えにくい。ならば、彼女が引け目を感じることは、何一つないのだ。
そもそも、暴漢を逃がしたことで他の民間人が狙われる可能性も出てくる。経過がどうあれ、暴漢を野放しにするのは問題だ。なのに、なぜ訴えるのを阻止したのか。
「逃がしても、もう襲われないという確証があると言っているようなもんだな」
何とも
「彼女は、暴漢の恐怖に死のうと思ったのか?」
「そう。不安で押しつぶされそうで、だけどケイには話せないって悩んだそうよ。
「染野慎士は、そこに付け入ったってとこか」
聞き逃しそうなほど小さく「そういうズルい男よ」呟いたサリーは、カップに残る珈琲を睨みつけるように見つめた。
モーリスは、彼の苛立つ様子を見ながら、たまらず
カップの中に視線を落とせば、揺れる黒い液体に、酒に酔いつぶれて泣いていたサリーの顔が浮かぶ。
心の隙に入り込んでも、欲しい時だってある。そんな考えを、モーリスは否定することが出来ない。染野慎士を
「なぁ、そこまでして、彼女と婚約するメリットは何だ?」
「どういうことよ?」
「染野慎士に恋愛感情があるとは思えない。何か目的があって近づいてるとしかな」
「恋愛観なんて人それぞれでしょ」
「じゃぁ、
「それは……あたし達は火遊びだっただけで」
「本当にそうか? それは、何か共通点を隠すためのものなんじゃないか?」
明け透けなく尋ねるモーリスは、怒りと悲しみで顔を強張らせるサリーが唇をきつく噛むのを見て、小さくため息をつく。彼の瞳が忙しく動くのを見れば、必死に過去を掘り返して思考を巡らせているのだと分かった。
出来ることなら、サリーの心に傷を負わせた男のことなど、思い出させたくはなかった。それでも、この問題はあの男が重要であることに変わらない。無視を決め込むわけにはいかないのだ。