どんなに頑張っても、慧芽にできるのは知識を蓄えることくらい。蓄えた知識をもとに何かを成し得ることは可能だろうが、家畜どころか竜の調教は専門外だ。
世間知らずの姫君に最低限の教養を身につけさせるくらいなら、慧芽にもできたはずだった。わざわざ七才媛である慧芽が指名されたのも、姫君に皇帝陛下が目をかけていたとの姿勢を広めるための布石と考えていた。
それが、蓋をあけてみればこの状況。
正直、慧芽には荷が重すぎた。
軒炎の意向により、慧芽と克宇以外に離宮を管理する者はいない。離宮に来る前のヴェラの素行があまりにもひどく、普通の女官や武官では太刀打ちができなかったとか。竜であるヴェラに対し、好意的に接することのできる者がいなかったため、慧芽が呼ばれたらしい。
そのため、必要な物資は城から送られてくるものの、受け渡しはすべて離宮の外。克宇は基本的に昼夜問わずにヴェラのそばに控えていなければならないので、雑事はすべて慧芽が担っている現状だ。
その中で、さらに教育。
衣服すら着るのを嫌がる竜の姫君に教育。
もう少しくらい余裕をもらえると思っていたのが、まさかのひと月。
普通の人間であれば、付け焼き刃でもどうにかなる日数ではある。でも相手は竜だ。果たして人間ではない姫君に、すべての所作を仕込むことが可能な日数なのだろうか。
「……ふ、ふふふ。私、ひと月後に首が繋がってるかしら。いえ、首が繋がっても梔家の名を貶めてしまったら……」
思わず虚空を見上げてから笑いを上げてしまう。
勅命という二文字に失敗は許されない。
今の軒炎皇帝はかなり寛大な方ではあるけれど、間違いなく血気盛んな青年であり、自ら竜退治に赴くような気概と勇猛さがある傑物だ。故に、言い逃れのできない失態を犯した時の罰が、笞打ちだけで済むのだろうか。
それに万が一、勅令を反故にしたとして。それはそれで、これまで培ってきた梔家七才媛としての名を貶めてしまうことになりかねない。そうなった時には間違いなく梔家本家から追放される。追放だけで済めばいいが、梔家本家は陰気で粘着質な輩が多くいるから、何されるか分かったものではない。
勅令という重圧が、慧芽を悪いほう、悪いほうへと、思考を傾けさせていく。
始まってしまったものはどうにもならない。今の慧芽は一人で頭を抱え、明日からの不安を押し抱くことしかできない。自尊心高く、勅令が下されたことを誇らしげにすら思っていた、数日前の自分に後悔しっぱなしだ。
そんな時。
「……慧芽殿?」
どうにも今日の分の観察記録を記す気分になれず、ひたすら文机の前に座っていただけの慧芽の耳に、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
珍しい。
こんな時間に訪れる非常識な来訪客に顔を上げると、慧芽は椅子から腰を上げた。
そのまま扉へと向かおうとし、途中、夜着しか着てないことに気がついて、肩掛けを一枚体へ巻く。それから扉を開けて。
「克宇様。夜分遅くに、いかがいたしましたか」
そろりと扉の隙間から声の主を拝めば、当然のように克宇がいた。この離宮にいるのは慧芽含め三人しかいないのだから、それ以外の来客なんてありえないのだけれど。
克宇は手燭を手に、頭一つ分低い慧芽を見下ろしてくる。
「失礼。まだ部屋に明かりがついていたので、お声がけに」
「申し訳ありません。書き物をしていたもので。明る過ぎたでしょうか。それとも姫様の護衛等で何か差しつかが?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
言い淀む克宇に、慧芽は怪訝そうな視線を向けた。
訝しげな視線を向けられた克宇は、慌てて言葉をつけ足す。
「主上が帰られてから、何か悩ましげな表情をされていたので。何か悩みなどあって、眠れないのだろうかと思ったものですから」
「態度に出てしまっていましたか。世話役として失格でございますね」
いたって平常どおりにしていたというのに、克宇に見抜かれていたらしい。隠していたつもりが隠しきれていなかった内心に、慧芽は恥ずかしくなると同時、少しの情けなさを覚えた。
反省し、慧芽が肩を落としてため息をついていると、克宇が目を丸くする。
「意外ですね。慧芽殿がそんな表情をされるなんて」
「克宇様の中で、私の印象がどうなっているのか、一度深く聞きたいとは思いますが。……そんな表情とは?」
「年相応の、どこか不安そうな表情でしょうか」
自分の言葉に自信がないのか、疑問系で答える克宇に、慧芽が眉をしかめる。
「これは見苦しいものをお見せしてしまいました。明日からはまた、一層精進させていただきます」
「あ、いえ、すみません。そんな追いつめるつもりはなく。ただ、同じ使命を持つもの同士、何か力になれることはないかと思っている次第です」
「同じ使命、ですか?」
「はい。竜の姫君を守り、いつか竜と人の共存を夢見るための。慧芽殿も同じ志を持っているからこそ、主上からお声がかかったのではありませんか?」
克宇の率直な言葉に、今度は慧芽が目を丸くする番だった。