つかの間のお忍びから後宮に戻った慧芽は、基本的な礼儀作法までも春蕾に丸投げすることにした。教養だけは春蕾では教えられない部分もあるので、日々の稽古の時間を再調整して、ヴェラへの妃教育をすすめている。
「それでは春蕾様。午後からよろしくお願いいたしますね」
午前中の稽古が終わり、慧芽はヴェラを食堂へと案内する。昼餉に春蕾を誘うけれど、一度毒蛇の地獄絵図羹を見て以降、彼女は決して食事を一緒にしなくなってしまった。
そういうわけで、昼餉は別で摂る春蕾と一旦別れようとすると、春蕾が背中から声をかけてきた。
「……慧芽様、何を企んでいますの?」
慧芽は足を止める。慧芽が足を止めるとヴェラも足を止めてしまうので、克宇にお願いして姫君を先に食堂へと連れて行ってもらうことに。
そうして慧芽と春蕾だけになったのを見計らうと、慧芽は頬に手をやって心外そうに話す。
「企むだなんて。私は私のやるべきことを見つけただけです」
「まぁ、いよいよわたくしに教育係を譲る決心がついたのかしら」
「それは絶対にあり得ませんのでご安心ください」
春蕾のこめかみにぴきりと青筋が浮かぶ。最近の春蕾はヴェラとの芸事の稽古が思うようにいかずに少し怒りっぽくなっている。そんな春蕾に、慧芽は穏やかに微笑んで。
「譲る譲らないはともかく。春蕾様も姫様に心からお仕えしたいと思えば、自然と収まるべきところに収まると思いますよ」
「誰があんなバケモ……っ」
言いかけて、春蕾はハッと口を噤む。慧芽は苦笑した。竜であっても、最下位であっても、ヴェラは宮妃。その悪口なんて言った日には女官として懲罰ものだ。
春蕾はこのままでは分が悪いと思ったのか、慧芽へのちょっかいはそこまでにしてそそくさと去っていく。慧芽はやれやれと首をすくめながらお腹をすかせたヴェラの待つ食堂へと入った。
慧芽がヴェラの教育について、心のゆとりを持ち始めたのとは正反対に、今度は春蕾のほうに心のゆとりがなくなっていった。慧芽が担当する教育の時間を奪っておきながら、成果は目に見えたものにはならない。簡単な舞くらいならヴェラも舞えるし、詩歌だって暗誦できるようになったけれど、そこに情緒はこもらない。日に日に春蕾の稽古は厳しくなり、ヴェラも辟易としてしまっている。
「けーめー、もー、やだよー」
せっかくだからと空き時間の増えた慧芽は、庭の手入れをしていた。後宮を整備する専属の庭師はいるけれど、表からは見えない一区画を譲ってもらって、慧芽が直接手入れをしている。そこでしゃがんで作業をしていたら、音を上げたヴェラが慧芽の背中になだれかかってきた。
「あらまぁ姫様。こんなところに来ては、春蕾殿がお冠ですよ」
「だってムリだよぅ。しゅんらいの言っていること、むずかしいもん! できないもん!」
駄々をこねるヴェラに、慧芽は体を捻って彼女の紫の頭を撫でてやる。髪を結っていないから、毛先が地面に擦っているけれどヴェラはまったく気にする素振りはない。
「そんなに難しいですか」
「うたえって言うからうたうのに。おどれって言うからおどるのに。かなしくしろとか、せつなくとか、分かんないよ」
ヴェラは人間の情緒を表現できるほど、人に触れていない。だからこそ、詩歌や舞に籠める感情というものを指示されても戸惑うのだろう。慧芽だって芸事の極みがそういうものであると理解していても、実際に自分でやれと言われてもできやしない。でも春蕾はそれができるからヴェラにもそれを求めるし、人前に見せることを前提とするなら、それができるのが一番見栄えが良いことも分かる。
ただ、それがヴェラができるかどうかは別なだけで。
慧芽はヴェラの頭を優しく撫でてやると、その手をそっと自分が今まで触れていたものに向ける。
「姫様、ご覧ください」
「ん……ん? これ、なぁに?」
慧芽がしゃがんで手を入れていたのは、枯れ草を集めて編んだ小さな鳥の巣だ。中には卵が入っている。
「庭師がよその妃の宮で見つけたそうです。そこの妃は鳥が巣を作るとうるさくて眠れないと言い、この卵を潰そうとなされたそうです」
「えぇ!? そんなのひどい!」
慧芽もそう思う。けれど後宮において妃の言葉は皇帝の次に絶対だ。だから庭師も巣を回収したあと、人知れず葬ろうとしたらしい。それを慧芽が声をかけて引き取った。
「事前に庭師には伝えておいたのです。ここに鳥の巣を作って良いかと。ちょうど良かったですね」
「う……? どうしてけーめーはここに巣を作ろうとしたの?」
疑問符を浮かべるヴェラに、慧芽は優しく微笑んだ。
「お妃様として学ぶことはたくさんありますが、ずっとお勉強ばかりも大変でしょう? 私の実家のような大規模なものはできませんが、小鳥くらいなら、姫様のそばに連れてあげられます」
たとえばこの小鳥をヴェラの子に。友人に。
この小鳥のために歌い、舞うことができるようになれば、ヴェラの芸も一段高い芸術になるだろう。
文仲邸で動物に囲まれながら楽しそうに待っていたヴェラを見て思ったこと。
竜の姫君に知ってほしいのは、行儀作法や教養なんかよりも、こういったことだ。人の心。だから慧芽が選ばれた。行儀作法に厳しい貫禄のある女官ではなくて、〝地〟の才媛である慧芽が。
だから慧芽は自分の矜持を掲げてヴェラに大切なことを教える。
それが自分の役割だと、慧芽は見失っていたものを取り戻した。