一人の矮小なヒト種が、懊悩に身を捻っている時のこと。
吸血鬼。そは夜の王にして死の化身。
竜。そは捕食者の頂点にして暴と威の具象。
その二雄が相打つとなれば、並のことではない。殺し合いにおいては尋常の領域から逸脱し、それこそ余波で地形が変わり、天変地異に等しい事象が各地に襲いかかり、定命の存在は近づくことさえ危ぶまれる災害の領域。
故に、故にだ、連邦帝国は斯様な種族を内に数多抱えているため、かつては広範に認められていた〝
近代法治国家として至極当たり前の処置である。当人達にとって小突き合う程度のやり合いでも、周りの人間からすれば洒落にならないことになるのだ。
なればこそ、国家はその権力によって古豪達に枷を嵌めた。
議場は登壇者に斬りかかれぬよう貴族院と市民院の間に一刀足ずつの間合いを空けた結界を敷き、議長席は進行を妨害されぬよう概念的に隔絶されている。古典的牛歩戦術が使えぬよう投票箱に続く壇上には長く居座れぬよう制約術法が施されているのもそのためだ。
ここまでお膳立てされた環境があるにも拘わらず、それでも堪えきれないなら、もう少し〝淑女的〟な方法で決着を着けなさいと皇帝から直に叱られる。それが今の連邦帝国という形。
ガツンと重い音が響いた。
重い重い音がリングの上で鐘のように鳴る。それは硬めに硬めた吸血鬼の拳が龍神の頬を抉り、細いが橋梁を支える柱よりも屈強な首を傾ける音。
到底、人類の拳が人類の頬を殴って響いて良い音ではない。
しかして、その拳には怖ろしく分厚い競技用のグローブが嵌められていた。吸血鬼が多用する爪を伸ばす最も身近な凶器でもなければ、血の刃でもなく、敢えて重しを加えることで拳本来の破壊力を殺す枷が。
対戦相手を殺めぬよう何重にも内向きの防御術法や衝撃吸収術法を展開しても尚、吸血鬼が放った一撃には凄まじい威力が秘められている。1,200年に渡って生き、数多の戦で先陣を切ったゼアリリューゼともあれば、これだけ威力を殺されても成機大陸の主力多脚戦車の正面装甲を貫徹しうるだけの威力を持つ。
されど、受け止めるロウファもさるもの。尋常ならざる骨格と竜鱗が衝撃を吸収し、更に顔を着弾と同時に半回転させることで衝撃を殺すスリッピングアウェーという技法にて、常人なら頭部が熟れすぎたザクロのように弾け飛ぶ拳撃を受けて尚も目は敵を睨み続けていた。
再度、重い音。
今度はロウファが放った左の拳が吸血鬼の顎を貫いていた。互いの位置関係、そして自分のタフネスならば回避すると一手損になると読んだ彼女は、今の右を進んで受けたのだ。そして被弾によって無理矢理作り出した隙間に、真下から掬い上げるように放たれたアッパーが顎部を貫く。
だが、頑強性という点で竜に一枚の二枚も劣る吸血鬼であっても、一歩も退くことなく受け止められる。不死性を封じるリングの上であるからこそ、再誕による全回復という〝ズル〟はできないものの、鐘楼を根っこからへし折ることが能う一撃を受けても、利き手でない左の一撃ならば死ぬ気で食いしばれば何とか耐えられるものだ。
互いにいい一撃を入れあった二人は蹈鞴を踏んで半歩下がった。
その身は普段通りの瀟洒な服装ではなく、膝丈の長いパンツと胸下までを覆うシャツで覆われている。
いわゆるボクサーの衣装であるが、これには深いわけがあった。
帝国貴族たる者、私戦は許されない。
であるなら紳士淑女的に〝スポーツでケリを付けろ〟と言われるのがここ百年ほどの流行であるがため、二人は拳闘にて立ち会っていたのである。
拡大解釈すれば、規則さえあれば殴り合いとてスポーツだ。ともすれば一撃で首がへし折れるような拳を何重にも戒める措置があれば、辛うじて殴り合いは興業となり、そして人類の例に漏れず暴力が大好きな住民達は、拳闘を立派な娯楽の一つとして受け取っていた。
いや、平和に貴族らしい
一応規則がある分、何の縛りもなしでぶつかられるより誰にとっても大分マシであるのだが、見守っている側からするとヒヤヒヤすること頻り。余波がまろびでないよう結界が張られていても、一撃毎に余勢を受けて結界が白むリング脇で見守っている両者の家臣団は気が気ではなかった。
しかも、此度の私戦が勃発した理由をロウファ側の家臣団は知らぬのだ。それは見ていて穏やかではいられまい。
ちなみに、本来ならば同じ場所に立っていなければならないはずの主審は不在である。この二人の立ち合いに巻き込まれて耐えられるだけの人員が用意できなかったせいだ。
双方共に姿勢を建て直し、次の一撃をと構えた刹那、拳に割って入るようにゴングの音が鳴り響く。
「チッ……」
「ふん……」
お互いに殺気がプンプンと香る目線でガンをつけ合って、共に悠然とコーナーへ去って行く二人。リング上に差し出された椅子にどかりと腰を下ろすと、吸血鬼の犬歯にも耐えられる特別製のマウスピースが吐き出された。
「ゼアリリューゼ様! 貰いすぎです!」
椅子を差し入れたウィルウィエイラは拳闘に詳しい訳ではないが、何故か帝城の地下にある特設リングで――多分誰かやらかすだろうなと気が利く者が作らせたのだろう――無観客にて行われている試合が拙い展開ではないのかと忠言した。
「もう二八ラウンドです! フルセットは三〇ラウンド、あと三ラウンドで倒しきれないと判定ですよ!」
ヨシュアが聞いたら「え? 長くない?」と首を傾げそうな設定であるが、身体能力に秀でた人類に合わせて拳闘の規則も変わっているため、これがこちらでの基本だ。それも一ラウンドは、全身運動ができる時間に合わせて調節されているため五分と更に長い。
テレビで流したら途中でダレそうな長丁場であるものの、これくらいにしておかねば競技として成立しないので致し方ないのだろう。
「心配要らないよ。私達はどちらも一撃に力を入れる気質だ。最低でも一対一交換になるよう殴り合っている。今のところ、判定は五部さ」
「ですが、龍神種と素の頑強さで比べ合うのは無茶ですよ!」
水筒を掲げながらウィルウィエイラが言う通りであった。
これまではお互いに確実に一発入れられれれば一発入るよう戦況が推移していたが、それは本来、死を経ても再生する吸血鬼の戦法を封じられた現状を無視したような無茶な戦運びによるもの。結界と規則によって賦活術法も使えない中、基礎性能における頑強性が龍神に劣る吸血鬼が選ぶ方法としては下策も下策だ。
何より、ウィルウィエイラが知る限りで、ゼアリリューゼが好むやりようではなかった。
たしかに吸血鬼は膂力だけで言えば竜種にも劣ることはないが、本来彼女は力任せにゴリ押しするのではなく、硬軟織り交ぜた幻惑するような戦いを得手とする。
それがどうだ、今までの試合運びは互いにベタ足、回避を一切捨てたインファイトでの殴り合いで技巧もへったくれもあったものではない。
死霊は仕えている室長が、ロウファのせいでHaven of Restに出禁を喰らった怒りのあまり、ムキになっているのではないかと危ぶんだ。
実際、ロウファはかなりキているらしく、殴り合いの最中にヨシュアきゅんがどうだの、流させた血の千倍をここで購わせるだのと血の気に溢れたことを宣って、憤怒と赫怒を原動力に拳を振るっているような状態だ。
それに釣られているのなら、今からでも改めて欲しいという懇願にゼアリリューゼは余裕たっぷりの笑みで応えた。
「分かっているよ。元々、お互いにこんな〝温い殴り合い〟で殺せないことは承知の上なのだから、この試合は判定でケリがつく」
「ですが室長! ダウンを取られたら流石に……」
口を水で濯ぎ、呑み込むことなく自分の血液混じりの唾と一緒に吐き捨てて、椅子を蹴立てるように立ち上がりながらマウスピースをねじ込む伯爵閣下。
「だから、ギアを上げるのはここからだ」
「まさか、室長……」
再び自動で打ち鳴らされるゴングを背に、ゼアリリューゼは弾き飛ばされたかのような勢いでリング中央へと疾駆する。
それに応えるロウファは、先程と同じ展開になると思っているのか素早くリング中央に討って出ると、そのまま両足を礎石の如く据えたベタ足で迎え撃った。
だが、展開が変わる。拳が交錯する一瞬、ゼアリリューゼは牽制に放たれた左をひらりと躱した。
これが初めての回避、今まで封印していた軽やかなステップ。
龍神は今回も足を止めての撃ち合いになると思っていたからか、反応が一瞬遅れて距離を測るための左を顔面に受けてしまった。
しかし、軽い。弾くような軽快な音を立ててはいるが、骨身に染みる一撃ではなく、命に届きもしない。並の競技者ならダウンを取れていたであろうそれも、龍神にとっては羽虫の接吻程度のもの。
だが構わぬ。吸血鬼は軽いフットワークで左に回り込み、右の主砲を打たせはしないとばかりに速射砲の如き連射を見舞う。
鞭が弾けるような音が連続してリング上に響き渡るも、竜種は牙を噛み締める必要もない、嫌に軽い連打を訝りながら腕を上げた。堅牢なガードが持ち上げられると同時に素早い攻撃は止み、再びステップで拳を放ちづらい場所に逃れるゼアリリューゼ。
ここに来て吸血鬼は序盤から温存していた、残り少ない体力の総てを振り絞り始める。肉体にダメージは確実に蓄積しているが、それはあくまで痛みと苦しみであり、何度も死を味わいながら戦う吸血鬼であるならば克服していて当たり前のこと。
即死しなければ安いの精神で拳を叩き込み合ったのは、後半も後半に軽やかな足運びで〝判定勝ち〟を掴み取るためだ。
端から、この規則と結界で雁字搦めのリング上で殴り合って、スカッとした決着が着くなどゼアリリューゼは考えていなかった。
そのことを怒りでロウファは忘れているようだが、竜種は一度怒りが滾れば静まるまで長い時間を必要とする種族だ。反面、冷たい血が流れる吸血鬼にとって、それは戦略を練る上で突っついてくれと見せ付けている逆鱗に等しい。
真正面から喧嘩を買ってやればロウファは絶対に乗ってくると踏んで、ゼアリリューゼは敢えて殴り合いに付き合ってやった。危ない一撃だけはカウンターを入れるか技巧で威力を殺して凌ぎ、最期の最期に体力が残っているとは思わせぬよう偽装したのである。
そして、致命の一撃は自分が振り下ろす必要はない。
審判という絶対者に断頭台の紐を引かせればいいだけだと割切った潔いまでの戦略。
「オッペンハイムゥゥゥゥ!!」
その姑息さにようやく気付いた竜種であるが、もう遅い。既に判定目当てで入れた拳はゼアリリューゼの方が絶対的に上回っており、これからもう逆転を許すような撃ち合いに乗ることもなかろう。
何とか足を前に出してインファイトに持ち込もうとする竜種の歩みを素早い拳が拒み、反作用を用いて射程外に逃げてゆく吸血鬼。
ロウファの上背は角を抜きにしてもゼアリリューゼより10cmほど高く、その分リーチは長いが、軽いフットワークの前ではあってなきようなもの。
特に今はルールによって、お互いどちらも地面に縛り付けられており、翼を使うことはできないのだ。一歩の間合いが常とは全く異なり、その感覚を把握することに今までのラウンドを使ってきた吸血鬼と、怒りに任せてベタ足で戦って来た龍神では現状の把握という札にも大きな開きが生まれていた。
場を理解して掌握した上で技巧に優れる吸血種が逃げを打ち、得点稼ぎの一撃ばかりを放ち始めれば追いつくことは不可能。
ニィッと挑発するように笑うゼアリリューゼの顔面を抉るべく、渾身の力を込めた右の拳が発射されたが焦がすのは空気ばかり。虚空を穿つ一撃の隙を縫うようにして開いた半身の腹部を拳が叩く。
何の痛痒も覚えない一撃。腹筋と竜鱗の堅牢無比たる護りは的確に肝臓の位置を叩いても衝撃が内臓に伝わることはない。
それでも、これは殺し合いではなく競技だ。拳闘の試合として見ている審判団は、ロウファが痛みすら感じていなくても、良い位置に“普通ならば効果的な一撃”が入れば得点として計上してしまう。
それこそ形がしっかりしていればいいのだ。競技として成立させるための規則は、生来優れた生体装甲を持つ種族と持たない種族のハンディを埋めるように設計されており、クリーンヒットの判定は甘くされている。
「アァァァァァァァァ!!」
「はっ、はは! 鈍い鈍い!」
必死に追いすがる竜種を嘲るように回避して拳を放ち続ける吸血鬼。
最早、一撃でノックアウトするか、大きなダウンを取って点数をひっくり返すほかないと突撃を重ねるロウファを翻弄しきって過ぎていく一五分。
無情に六度鳴り響いたゴングの末、拳を天高らかに持ち上げられたのはゼアリリューゼであった…………。