アクロは、少年のまっすぐな優しさに触れ──心に抱え続けてきた苦しみから、解放された気がした。
──私は
ずっと──そう思っていた。
今迄──それほど
『知った風な口を聞かないで! 私の、何が分かるの──!?』
誰かが手を差し伸べてくれたとしても、そう言える筈だった。
だが──言えなかったのだ。
世界に対して無知な少年の──素直な言葉──。
だからこそ、信じられたのか──。
その、純粋な瞳に、言葉に、反発することができない──。
何故か信じられると──心が──そう感じる──。
その優しさを──何故か──自然に受け入れてしまう──。
出会いの形が良かっただけの偶然か──出会ったばかりの異種族の少年の事が、無性に気になり始めていた──。
もっと深く──知りたいと──。
「ねぇ……黒猫さん? 今度はあなたの名前を、私に教えてくれないかしら……?」
少女がそう尋ねると、少年は、何故か、一瞬、視線を落とす。
「僕には……名前が無いんだ……。ナナシさ──」
少し
──名前が無い……!?
アクロは両手で口を塞ぎ、息を呑む──。
──ナナシ……。
──そんな悲しい事……なんて……。
そう、思った──。
「
ナナシが、そう淡々と語ることが、アクロにはたまらなく悲しい──。
「──ナナシは普段、この暗い森の中で自給自足で生活している。
アクロの視界が、涙で波打ち、ボヤケていく。
「──この社会では──僕……は──仲間達とは暮らせない。ルールなんだ──」
アクロは、ナナシが途中、少し言葉を詰まらせた事が引っ掛かった。
「〝僕……は〟──? 他のナナシさん達は……?」
アクロがそう質問を続ける。
「──今はもう……ナナシは、僕、一人なんだ──」
それを聞いて、アクロは再び、言葉を失う──。
「──ナナシを産んでしまった場合、その両親は、子供が五歳になるまでの間だけ、町の中で面倒をみる。ナナシはその間に、最低限の生きる方法を両親から学んで、その後は森のナナシと一緒に生活する。両親は子供の事は忘れて、そのまま町の中で新たな暮らしを始める。それがこの国の掟で──正しい在り方なんだ──」
ナナシは表情を変える事なく、流暢に説明を終えた。
「──だから、ほとんどのナナシは十歳を迎える事が出来ない……。大人になると国を出て行く者も多くて、元々、僕みたいにナナシじゃない両親から産まれること自体、珍しいから……。ここでは徐々に数が減っていった──」
そう言って、ナナシは天井を仰ぐ──。
「──猫人にとっては……ナナシが生きようが……死のうが……関係ないんだ……」
ナナシは瞳を閉じて、小さく呟いた。
「ムウゥ……」
アクロの目から、涙が溢れる。
アクロもナナシと同様、迫害され、
だが、決して恵まれた生まれではなかったが、優しい両親が傍らにいて、そのような
ナナシは、自分よりも
「実際──僕の父親は、僕が五歳になった時──迷わず僕を捨てようとした。それまでもずっと、自分の子供を見る様な目じゃ無かった……。気味悪がって、怖れる様な目で僕の事を見てた──いつも怒鳴られて……殴られて──」
ナナシは中腰で立ち上がると、身体中の至る所に手で
「──だけど、母さんだけは違ってて──いつも僕の為に泣いてくれていた。『ごめんね……。ごめんね……』って、そう言いながら──優しく抱き締めてくれた──」
ナナシはそっと目を閉じ──微笑む。
「──本当に──愛してくれていたんだ──」
目を開くと、ナナシは確信めいた眼差しで──そう言い放った──。
「──五歳になった時に、僕を捨てようとした父親に、母さんは怒って、喧嘩の末に二人は別れた。父親が今、
無表情のまま、淡々と、ナナシは語る。
「──それから十歳になるまで、母さんはこの森の中に一緒に住んでくれて、僕を育ててくれた。母さんには、本当に感謝している。母さんがいなければ、ほとんどのナナシと同じ様に、僕は小さい時にはもう……死んでいたと思う──」
ナナシは、
「それで──お母様は……今は何処に……?」
アクロは、胸を両手で押さえながら、恐る恐る尋ねる。
「──母さんは……過労がたたって──病気にかかって、死んだよ──」
ナナシは床を見て、そう答え、唇を噛む。
アクロは胸元で両手を握り、顔を
「──こんな森の中でも、小さかった僕に『不自由な生活なんてさせたくない──』って、そう言って……。無理してたんだ……。母さんはナナシでは無かったけど、
ナナシは再び
「──
ナナシは両手で頭を抑えてうずくまった──。
「──少しでも……森の中でも勉強をできるようにって! 町の子供達と同じように、しっかりと食べられるようにって! 僕の将来の為に、お金を貯めなきゃって!」
ナナシは
「──そう言って……。そんな生活──僕には無理に決まってるのに……。母さんがいなくなってからは、隣に一人で住んでいた、小さい頃から僕の事を可愛がってくれていたナナシのおじさんと、一緒に助け合って生活していた。でも……そのおじさんも数年前に亡くなった……」
ナナシの声は、もう、消えてしまいそうなほど、弱々しい──。
「黒猫さん! もういいの! ごめんなさい……。悲しいお話を……させてしまって……」
二人はそこで言葉を失い──音の無い時間が流れた──。
「あのね! 黒猫さん! あなたと私が出会えた事は──運命かもしれないわ!」
突然、アクロが口火を切る。
「運命って……大袈裟だな……。そんな……気を使って、笑わそうとしなくても大丈夫だよ! アクロは優しいね……。ありがとう──」
ナナシは小さく笑いながら──そう返す。
「──ずっと……胸の奥に、一人で抱え込んでいた……気持ち──初めて、誰かに打ち明けられた──。なんだか、今は──とってもスッキリした気分だよ──」
ナナシは優しく──アクロに微笑む──。
「違うの……! 黒猫さん……私とあなたは──なんだか……とても似ているの──これはきっと……運命よ──」
アクロは目を輝かせ、身を乗り出して訴える──。
「──運命か……。良いね……。それは……素敵だ──」
四角い窓から、外を眺めながら──ナナシはそう答えた──。