畳の上に足を崩し、楽になる二人。無理もない。今日一日歩きづめであったのだから。江戸の民はとにかく健脚である。”令和”の目から見れば異常とも思えるほどに。肉体的には平気でも、精神的に長距離歩くというのが億劫にもなってくる。しばし休んだ後、湯に入り夕餉をとる。
目の前にはそれなりの膳が並ぶ。それなりの宿である。ここは松戸の宿。敬忠が水戸に用事があって参勤するときにはいつもここが馴染みの宿であった。何しろ瞬を同行しての旅である。風貌的にも親子とも言い難いし、親戚というのも違和感がある。一番しっくり来るのは夫婦という間柄だろうが、明らかに武家の嫁という雰囲気でもない。そのあたりの余計な詮索をしてこないこの宿はうってつけとも言えた。
「わぁ......」
瞬のため息。無理もない。炊きたての飯に、蜆の味噌汁。それに菜のものと、魚の膾がついていた。
「ではいただくか」
旅行、という感じがする。いつもは仕事の一人旅でそういう感じもしなかったが、瞬一人がいるだけでかなり雰囲気が違う。また”ラーメン”を求める旅ということであれば楽しさもひとしおである。
「この膾......鱸(スズキ)ですね」
一口にして素性を見破る瞬。
スズキ。この松戸の宿には河岸があり、銚子から利根川をさかのぼってきた鮮魚が魚市場で取引される。多分このスズキもその一つであろう。刺し身でも十分いいくらいの新鮮さである。
「ううん......いいなぁ......新鮮な魚は」
思わず口に出してしまう敬忠。武士らしからぬ独白に瞬がくすりと笑う。
「しょうがあるまい。”令和”の世であれば回転寿司で百円程度でいくらでも新鮮な魚を食べれたのだから」
「この松戸では」
瞬が続ける。
「かつて、公方様の御鹿狩りが行われていたとか。先程、店の方より聞きました」
「ふうむ」
「地の民は肉食も普通に行っているとか―――おもしろくありませんか?」
肉食。江戸時代、仏教の影響もありいわゆる『四つ足』の動物は禁忌(タブー)とされていた。しかし江戸の後期にも入るとそういった習わしもだんだん廃れ、『薬喰い』などと称して物見高い民衆が動物肉を食べるようになっていた。
”ラーメン”に肉は不可欠である。少なくとも”令和”で敬忠、つまり保坂恭子が好んで食べていた”ラーメン”には必ず豚肉がなにかしら入っていたからである。帰路にこの宿のつてを利用して”肉”を手に入れられれば結構な手柄であろう。
「ありがとうございます。このような贅沢をさせていただいて」
「何を申すか。瞬殿のおかげでこのように私の念願もかなおうとしておる」
首をゆっくり横にふる瞬。
「何度も言うように、これも何かの縁。あまり硬く考えられるな。この世界では立派そうに見える私だが―――”令和”の世では手取りで月二十万あるかないかのしがないサラリーマンであった。もっとも収入的には俸禄もさして変わらんが―――」
不思議そうに瞬が敬忠を見つめる。無理もない。その割には敬忠の生活は余裕にあふれるものであったから。
「私は戯作を書いている。「笈川月町」という名でな」
瞬が目を丸くする。そして飛びつかんばかりに歓声の声を上げる。
「敬忠様が―――あの笈川先生なのですか?!私、大ファンです!......湯屋とかで何度も何度も......借りるほどのお金は持ってなかったので、そんなに種類はよんでいなのですが......あの、あの五平は平安時代であのあとどうなってしまうので......?!」
意外なところに意外なファンが潜んでいたことに、敬忠は嬉しくもまた、不思議さも感じる。
その日、夜を徹して敬忠は瞬に作品について語り明かすこととなった―――