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(六)

 隠れていた男に気づくのが遅れたみくには、ナイフで刺されたと思った。


 が、そうなる寸前、みくにと男の間に飛び込んできたのは少年だった。


 手足を縛られているにも関わらず、身を投げ出してきた少年の身体は、一瞬静止し、それから膝から崩れ落ちて再び床に倒れた。


「グミくん!」


 少年の名を知らないみくには、彼の綺麗な瞳の印象からとっさにそう呼んでいた。


 倒れた少年の脇腹のあたりが真っ赤に染まり、その下の床に見る見るうちに血だまりができていく。


 あたしを守ったせいで……。


 青ざめたみくにに、再び男のナイフが迫る。

 みくにはとっさにそれをかわした。


 男をキッと睨みつけ、反転しながらナイフを蹴り上げる。


 男は手から離れたナイフには目もくれず、反対の手でみくにの首をつかみ締め上げてきた。


 視界が赤く染まる中、みくには男の腕に飛びつき、足もからめて関節をめると、そのまま全体重をかけて、男を投げ飛ばした。


 男は床に全身を強打し、


「覚えたぞ……おまえのツラ……ぜってー……許さ――」


 喉の奥でうめくと気を失った。


 男に締め上げられたせいで咳き込みながら、それでもみくには少年の元へ駆け寄った。


 さるぐつわを解き、手足を縛っていたロープを引きちぎると、小さな頭を抱えた。


 少年のスーツは半分ほどがぐっしょりと血で濡れている。


「グミくん! グミくん! ごめんね! しっかりして!」


 泣き叫ぶと、閉じられていた少年の瞳がうっすらと開いた。


「グミ……?」


「あ、ごめん、グミみたいな綺麗な眼だから。君の名前知らないもん」


 少年は唇の端にかすかに苦笑を浮かべた。


「僕の名は……王崎……拓真」


 それが自分の運命のひとの名だと、みくには胸にしっかりと刻んだ。


「拓真くん、待ってて! すぐに救急車を――」


 けれど立ち上がろうとしたみくにの袖を、少年が引っ張って止めた。


「その必要は……ない」


「なに言ってるの!? このままじゃ死んじゃう!」


「こんなのかすり傷……」


 拓真の表情が陰り、まなざしには諦念がよぎる。


「それに……きっと……もうすぐ来るから」


「来る? 誰が?」


 拓真はそれには答えず「それより……おまえは誰? ……なんで僕を助けに?」と、みくにを見つめてくる。


「あたしはみくに。広小路みくに。連れ去られた君を目撃したから。ホント~に、心配したんだもん」


 また涙が溢れだす。


 拓真を探していた間の不安がよみがえり、それが今、大怪我を負った拓真への心配と重なり、胸が押しつぶされそうになる。


 拓真は口の中で“ひろこうじみくに”と繰り返し、それから震える手で、みくにの目元に触れた。


「泣くなよ」


 指でそっと涙をぬぐわれ、みくには顔が一瞬で熱くなった。


 胸の鼓動が高鳴り、はじめて会ったばかりだというのに、拓真のことが愛しくてたまらなくなる。


 やっぱりこれは運命の恋!

 もしかしたら、あたしたちふたりは前世で恋人同士だったのかもしれない!


 そんな妄想に気持ちがはやり、みくには頭で考えるより先に口走っていた。


「あたし、あなたが好き! 付き合おう!」


 大怪我している相手に愛の告白をした。

 してしまった。


 その非常識さに、本人がいちばん引く。


 なにやってんのさ、あたし!


 ポカポカと自分の頭を叩くみくにに、拓真は唖然としていた。


 が、やがて大人びた――それは傷を繕ったみたいな――微笑を浮かべた。


「いいよ、付き合っても」


「へ?」


 みくには耳を疑った。


 今、拓真は“いいよ”と応えたのか?


 え? ウソ? まさかの両想い!? じょーじゅ!? 恋愛じょーじゅ!? じょーずにじょーじゅ!?(パニック) 


 目を白黒させるみくにに、拓真は笑みを消して視線を向けた。


 それは息を呑むほど冷たい、絶対零度のまなざし。


「君が僕と悪に堕ちるなら、ね」


「え?」


 意味がわからず、みくにが首をかしげたときだった。


 建物を揺るがす衝撃と轟音。


 その瞬間、事務室だけではなく、フロア全面の壁と天井が吹き飛んだ。


 渦巻く強風が駆け巡り、すぐさま去っていく。


 いったいなに!?


 建物の壁がなくなり、視界は開け、近くのビルや遠くの山並が直接見通せる。


 しかも天井がないので穏やかな青空と、そこに浮かぶ白雲を仰ぎ見ることができた。


 三階部分の一瞬での消滅。

 あまりに非現実的な現象だった。


「いったい……なにが?」


 愕然とするみくにとは対照的に、拓真は苦いものを口にしたときの顔で吐き捨てた。


「これが……あのひとのやり方だ」


 その拓真の発言が終わるより早く、けたたましいエンジン音が響き渡った。


 今度はなによ!?


 驚いて顔を向けた先、戸外の空間にヘリコプターが出現した。


 旋回するプロペラが強風を吹きつけてくる。


 大河原部品工場すぐ横で滞空するヘリ。


 その開け放たれたドアには、黒スーツ姿で黒いサングラスをかけた白髪の老人が悠然と座っている。


 深いしわだらけの顔。


 幼いみくにを見ても、その腕の中の血まみれの拓真を見ても、表情は変わらない。


 すべてを品定めするかのように、冷酷に見据えている。


「あれが……」


 拓真が口を開いた。

 誘拐犯にさらわれ、監禁された際にも見せなかった動揺と怯えとともに。


「僕の父、王崎おうさき剛造ごうぞうだ」


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