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⑤走ってあやかし界へ!?

 大学生の長い夏休みは大体、サークル・部活か、バイトか、旅行に分かれる。意識の高い少数派は短期留学やワンデーインターンをしていたりもする。その中で、わたしはバイト――狭山ヶ丘治療院の手伝いを選んだ。


(それしか選べなかった、とも言えるけど)


 七月末に前期試験を終えた時点では、部活に明け暮れる予定だった。だから夏季集中講座も、この間のひとつしか履修登録していない。


「明香里ちゃん、家でもサッとできる腰痛体操教えてくれない?」

「あ、はい」


 患者さんに声を掛けられ、集中し直す。


佐藤さとうさんの場合は、壁に両手をついて、腰を後ろに反る体操がおすすめです。こんなふうに」


 説明しながら体操の手本を見せた。治療院では、おじいちゃんが処置、わたしがトレーニング指導と分担している。


「こう、かしら?」

「そうです、そうです!」


 佐藤さんは明るい色のTシャツを着こなす、品のいいおばあさんだ。徒歩五分のところに住んでいる。おじいちゃんの処置を受けに来るのは、ご近所さんと、その知り合いが多い。

 ひと通りトレーニング指導を終えて、身支度をする佐藤さんに声を掛ける。


「腰の痛み、前回とあんまり変わってなければ、一度整形外科で診てもらったほうがいいですよ。よければ市立病院に一緒に行って、代わりに説明しましょうか?」

「うーん、そこまでじゃないのよ。ところーどの特売の時間だから、またね」

「あ……」


 ご近所さんがよく使う「ところーど商店街」の特売と言われては、テープで留めたガラス扉を押す佐藤さんを引き留められない。

 わたしたちトレーナーは、患者さんの痛みを根本から解決できるようあれこれ提案するけれど、最終的にやるかやらないかを決めるのは患者さん自身だ。


 もどかしさに小さく息を吐く。巨大な夕陽が、人のいなくなった待合室をオレンジ色に染める。

 昨日と同じ一日が終わった。


 監督に誘われてから、三日。

 あれ以来、月羽ちゃんは顔を出さない。あやかし出雲駅伝へのエントリー、真高に却下されてあきらめちゃったのかな。猛生くんは、人型の身体の使い方、ひとりで練習しているのかな。

 真高――は、来るわけがないか。


「明香里、今日の夕飯じゃが」

「な、なに?」


 真高の別れ際の表情を思い浮かべた瞬間、おじいちゃんに話し掛けられ、声が裏返る。


「常連の高橋たかはしさんが釣ったっていうアジもらったから、刺身でいいか。久々に捌きたい気分じゃし」

「ふふ、もちろん。お醤油切れてたから買ってくるね。ついでに……ちょっと走ってこようかな」

「おう、行ってこい。えふっ、えふっ」

「またヘンな咳して。飲み過ぎないでよ。じゃ、いってきます!」




 快く送り出され、ランニングシューズに履き替える。私物のトレーニングウェアでバイトしていたから、服は着替えなくていい。女子大生としてどうかとは思うけれど、やっぱりこの恰好がいちばん落ち着く。


 たっ、とアスファルトを蹴る。ポニーテイルが規則正しく左右に揺れる。

 今日はどんなコースにしよう。見慣れた道から、近所なのに通ったことのない路地へ。家々の換気扇から夕ごはんのいい匂いがしてくる。


 心拍数が上がって、苦しいけれど、心地いい。

 走れば、小さなもやもやは汗と一緒に身体の外へ流れ出ていって、空っぽにリセットできる。それだけは昔から変わらない。


 その感覚が好きで、自然と長距離選手になっていた。高校までは、サポート側ではなくアスリート側だったのだ。


 といっても、万年補欠だけれど。女子ランナーが陥りやすい貧血に悩まされて、思うような記録は残せなかった。

 毎年冬に京都で開催される全国高校駅伝は、走ってみたいと思いながら、一度も走れなかった。


(……あれ?)


 もう一年近く前のことなのに感傷に浸っていたら、本格的に知らない道に彷徨い込んでしまったらしい。「山の神の森」を抜けて、県道に出たはずが――


 思わず足を止めた。走っていたときより鼓動が速まる。

 日が暮れたといっても、景色にあまりにも色がない。灰色の一本道沿いに建ち並ぶ木造の家屋は、一見治療院と変わらないけれど、生活感が皆無だった。

 まるで、廃墟。


(やだ。近所にこんなところあった?)


 ミニウエストポーチからスマホを取り出すも、無情にも圏外だ。

 心許なくて、わずかに光のあるほうへ進む。四辻に目を凝らせば、ポツポツと行き交う人影があった。よかった。


「すみません、県道へ出るにはどう行、く」


 道を聞こうと近寄って、振り向いた顔に息が止まる。

 目が、顔の真ん中に、ひとつしか、ない。


「……」


 人間、驚き過ぎると声が出ないらしい。足も固まってしまった。

 もしかして、ここがあやかし界?


 かろうじて視線を動かすも、虎と牛と狸が合体したようなものやら、六つ足で大型の昆虫を思わせるものやら、おぞましい異形のものばかりだ。思っていたのと違う。


(こ、わい――)


 浴衣を着崩した一つ目に、「ん~? んんん~?」とじろじろ観察される。


「人間が何の用だァ?」

 心底不快だと言わんばかりの声色に、ようやくわたしの生存本能が働いた。二、三歩後じさり、全速力で来た道を引き返す。

 はあ、はあ、はあ。

 走っても走っても廃墟は途切れない。途中で曲がってみても、同じような街並みが続く。山の神の森どころか、草一本生えていない。


(家に、帰りたい)


 だんだん目の前が霞んできた。練習中に貧血に襲われたときと似ている。チームで練習していても、走っているときは一人で――。


「誰、か」


 視界の端で、銀色の光が瞬いた。

 間違いない。狼の尻尾だ。色のない世界に、しゅっと長い銀毛が浮かび上がる。一本向こうの路地で、手招きするみたいに揺らめいている。


(真高なの?)


 この間、においがどうとか言っていたから、わたしの居場所がわかったのかもしれない。


 藁にも縋る思いで尻尾を追う。持ち主の背格好は真高によく似ているものの、暗くて確信はない。追いつけそうだと思ったら、また路地を曲がってしまう。それを繰り返すうち、喧噪が近づいてきた。

 コツコツ、コツ。足音を聞き逃さないようにする。

 何度目かに角を曲がった瞬間、視界が開けた。



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