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第8話 奥深い

 一口、大きく息を吸う。

 ふぅと吐き出すのは、白い煙。


 ただいま、絶賛自己嫌悪中です。


 最近のオレはおかしい。

 呼び方が変わったからって、落ち込んでどうする。


 特に昨日のオレはおかしかった。

 別に、新人さんが入ったからって、オレが動揺する事じゃない。

 仕事を教えるのが、長友部長じゃないからって……要さんが直に教えるからって、オレがどうこう言うのはおかしい。

 仕事だからね。

 社会人だからね。

 小学生じゃないんだよ。

 ああ、もう嫌になる。


 出勤前に、近所のコンビニで朝の一本。

 社内に喫煙者が少ないから、外で一服してからの出勤。


 もう少し自分をしっかり持ちたいなと思う。

 オレは何にもできないだけじゃなくて、結構グダグダで、ヨレヨレだ。

 何かに気持ちを持っていかれたら、ホントにダメになる。

 要さんが好きだなんて、気がつかなかったらよかった。

 社内恋愛なんて碌なことにならないって、身をもって知ってたはずなのに。


 さあ、て。

 喫煙場所に置かれた灰皿に、煙草を落とす。

 気合入った。

 入ってなくても、入ったことにする。

 今日もしっかり働こう。




「ええとねえ、今日はデータ入力です」


 井上さん渡されたのは、どっかの会社のなんかのリスト。

 こういうのは、中身を深く考えちゃいけない。

 枠線やら印字された文字を見るに、多分、かなり古いタイプのワープロソフトで作られたもの。


「営業さんから回ってきたの。紙ベースしかないリストなんですって。表計算ソフトで入力してもらえる?」

「出来上がってる表はあるんですか?」


 さらっと表を見てから、確認。

 井上さんはオーダー票を見て、首を傾げた。


「計算式は使わずに、数値入力をって書いてるとこ見ると、一から作るっぽいけど……確認してくれる? ええと、営業の清塚さんに」

「了解です。これ、結構前の分までしかないですけど、途中じゃないんですよね?」

「うん。北島くんへのオーダーは過去のリスト作成。そこから直近の分までは、芳根くんが入力フォーム作りながら作るって」


 ああ。

 事務作業用のソフトでってことかな。

 じゃあ、何も考えないで表を作って、数字を入力すればいいんだろう。

 共用のノートパソコンを起動させる。


「まとめて北島くんにオーダーすればいいのに……ややこしいね」


 自分の作業に取り掛かりながら、井上さんがポロっとそんなことを言った。

 よくある誤解に、オレはどう説明しようかなと迷ってから、口を開いた。


「オレは事務仕事用のソフトは苦手なんで」

「はい?」

「パソコンの仕事してましたけど、事務作業はしてなかったんで、ワープロとか表計算とかは、井上さんや芳根さんの方が詳しいと思いますよ」

「違うの?」

「全然違います。まあ、入力自体は慣れなんで早いかもですけど」

「へえ……パソコンって、奥が深いのね」


 ふむふむと納得してるけど、オレからすれば普通の事務仕事の方が、多岐に渡ってて奥が深いと思う。

 単純に数値を入力するだけの作業は、午前中だけで終わった。

 チェックは井上さんに任せて、第二資材室に行く。

 最近、陽さんの要求が上がってきたのだ。

『北島くんの字は、素直でいいのだけれど、もう少しだけ崩してみましょうか』

 にこにこと柔らかな要求。

 オレは習字の経験者ではないから、教科書通りの一文字ずつ独立した楷書に近い文字を書く。

 そこを、せめてもう少しさらっとやわらかく崩して、続け字にして欲しいと。


 いやもう、ホントに、事務仕事って奥が深いよね。


 そんなわけで、急ぎの仕事が入るまで練習させてもらうことにしたんだ。

 作業スペースにいったら、ぽつん、とそこにピンクの物体。


「なんで……? なんなんだよ、これ」


 この間もらったのと同じパッケージ。

 だからきっと、これは要さんが置いていったロリポップ。

 訓練学校に通っていた時、要さんはオレが喫煙するのを意外そうに見てた。

 それから今に至るまで、喫煙を止められることはないけど、今度はなんとも不思議な顔で見守るようになった。

 だから、ホントはあんまり好ましく思ってないんだろうな、とは思っていた。

 でもほら、つきあってるとかじゃないし、言われる筋合いないじゃん。


「わっかんねえな、もう……」





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