……6月16日、月曜日。
「おはよー白坂くん」
「おっす風太~」
クラスメイトたちから告げられる朝の挨拶に「おはよー」と答えながら、僕は自分の席に着いた。
(あーあ、朝からついてないなあ。自転車がパンクするなんて……)
僕はいつも自転車で通学しているのだが、今日はなぜか朝から自転車の調子が悪く、家からちょっと行った先でパンクしてしまった。
自転車屋もその時間は営業開始前だったので、パンクを直すことができず、仕方なく今日はバスでやって来たのだった。
「………………」
ふと、隣の席に気配を感じたので、今度はそちらの方へ目を配ると、黒影さんがいた。
鞄から教科書とノートを取り出して、それを机の中に入れていた。
「やあ、おはよう黒影さん」
僕がそう言うと、彼女は顔だけをこちらに向けて、「お、おは、よう」と返してくれた。
「昨日は偶然だったね。まさか黒影さんに会えるとは思わなかったよ」
「あ、う、うん、そうだね……」
「あの本屋は、黒影さんちから結構遠くない?電車か何かで来てたの?」
「うん、そ、そう。バスに、乗って……」
「あー、バスでね。時間ってどれくらいかかるの?」
「え、えーと、さ、三十分くらい、かな」
「へー!やっぱり結構かかるんだ。でもいいね、なんかちょっとした旅みたいで」
「は、ははは……」
黒影さんは肩をすくめて、ぎこちない笑みを浮かべていた。
外では冷たい風が吹いていて、窓枠をカタカタと揺らしていた。
……今日も淡々と、1日が過ぎていく。
先生たちが僕たち生徒に背を向けて、黒板につらつらと文字を書く。それを僕たちは、あくびを噛み締めながらノートに写していく。
そんな作業を何回か繰り返していたら、いつの間にか1日が終わる。最近はそんな感じで、毎日が退屈だ。この曇り空みたいにグレーな日々を送っている。
でも、退屈だと感じられるのは、ある意味で幸せなんだろうと思う。それは、何も事件がなく、平和であることの証明だから。
「つまり、円柱の体積を求める方程式は……」
先生が教科書を読みながら説明しているところを、僕は目を擦りながら聞いていた。
「…………………」
その時、不意に視線を感じた。
人間の第6感というのは不思議なもので、黒板の方へ目を向けているはずなのに、なぜか隣の……黒影さんから見られていることが、感覚的に理解できた。
(なんだろう?何か用事でもあるのかな?)
そう思いながら、僕は隣にいる黒影さんへすっと目を向けてみたら、彼女と目があった。
「!」
黒影さんはびくっと顔を強張らせて、ぷいっと逃げるように視線を逸らした。
「…………?」
僕に、何か用があるのだろうか。
尋ねてみたかったけれど、見られていたのは僕の勘違いという可能性も捨てきれなかったから、結局その場では訊かず仕舞いだった。
……放課後になり、いつものようにクラスメイトたちは教室から素早くいなくなる。
「おいサトルー!早くしろよー!もう練習始まるぞー!」
「ふぁ……ねみぃ……。家帰って寝よ……」
「ねえねえミサキー!今日カラオケ行かないー?」
早く部活へ向かいたい者や、さっさと家へ帰りたい者、そして友だちと遊びに行きたい者と、教室から出たい理由は人それぞれだが、教室に残りたいと思う者は誰一人としていなかった。もちろんそれは、僕も例外ではない。
リュックに教科書やノートを詰め込み、それを背負って教室を出た。「今日は久しぶりにコンビニでアイスでも買おうかな」なんてことを考えながら、下駄箱へと向かった。
「ん?」
ちょうどその時、下駄箱で黒影さんと出くわした。彼女はまさに、上履きから外靴へ履き替えている最中だった。
「やあ、黒影さん」
僕がそう言うと、彼女は「あっ……」と呟いて、ぺこりと頭を下げた。
「黒影さんって、いつもどうやって学校まで来てるの?」
「え、えっと、バスに、乗ってるよ……」
「おー、バス通なんだね。確かに黒影さんの家、学校からまあまあ遠いもんね」
「う、うん」
「僕も今日は自転車がパンクしちゃってさ、仕方ないからバスで来たんだよね」
「え、あ、そ、そうなんだ」
僕と彼女は、珍しく並んで歩いていた。
今日はなんだか、いつもよりスムーズに会話できているような気がする。
昨日たまたま本屋で会ったのが、よかったのかも知れない。
『ボ、ボクも!ボクもレイン好き!』
あの引っ込み思案の黒影さんが、あれだけ前のめりになるくらい好きなものがあると知れた……。それが、僕には嬉しかったんだ。
いつも寂しそうにしていた彼女の顔が、あの瞬間は本当に輝いていた。心の底から漫画が好きなんだなって、そう実感した。
そういう一面を知れたことで、僕は黒影さんのことを、前よりも身近に感じられるようになった気がしていた。
「……あ、あの、し、白坂、くん」
黒影さんが、おずおずと僕に尋ねてきた。僕は「どうしたの?」と言って返してみると、彼女は息を飲んで、一呼吸置いてから、改めてこう言った。
「し、白坂くんは、どんな漫画、好きなの?」
「え?漫画?」
「う、うん。どういう系のが好き、なの?」
「えーと、そうだね。わりと何でも読むかなー?」
「た、例えば、どういうの?」
「例えばねー、んー、ドラゴンボーイはもちろん好きだしー、スライムダンクも好きで読んでたなー」
「うん」
「あとは、最近だったら創送のフリーメンとかも読むかな」
「な、なるほど……」
「黒影さんは、昨日の……ええと、なんだっけ」
「ダーク・ブルー?」
「そうそう!それが好きなんだよね?」
「う、うん」
「ちょっとさわりしか読んでないけど、あの漫画は結構重めのダークファンタジーだったね。黒影さんは、ああいうジャンルが好きなの?」
「うん、そ、そう。世界観が凄くて、な、何て言うか、没頭できるのが、いいなって……」
「なるほどね~。他には、どんな漫画が好きなの?」
「え、えーと……」
黒影さんは眉をひそめて、じーっと何かを考え込んでいた。
どうしたんだろう?と思いながらも、僕は彼女の言葉を待った。
「あ、あの、も、もしかしたら、白坂くんは……知らない漫画かも、知れないんだけど、いい、かな?」
「え?うん、もちろん全然いいよ」
「え、えっと……ベルセルグって漫画、知ってる?」
「あ!知ってるよ!主人公が大きな剣を背負ってる話だよね?」
「そ、そう!それ!その漫画!」
「あれ、僕も前に読んだことあるけど、面白いよね!特にあの、グリフォスが仲間を捧げるところは、もうほんとエグかったね~」
「う、うん!あそこは、わ、忘れられない、ところ、だよね!」
黒影さんのテンションが、一気に上がっていた。声が格段に大きくなって、瞳も爛々と輝いていた。
僕も、まさか彼女がベルセルグを挙げてくるとは思わなかった。なかなかディープで重たい作品だから、女の子は苦手な漫画だと勝手に決めつけてしまっていた。だから最初、この漫画のタイトルを出さずに、 メジャーな作品のタイトルを述べたのだった。
でもそっか、あのダーク・ブルーという作品が好きなんだから、ベルセルグも好きなのは納得できるかも。
同じ漫画が好きだという驚きと喜びが、僕たち二人に……同時に押し寄せていた。
「黒影さんは、ベルセルグの中だとどのキャラが好き?」
「え、えーと、キスカかな。女の子だけど、剣ができて強くて、でも恋もしててって……。凄く、いいなって思って」
「うんうん、キスカいいよね~!ちょっと男勝りなところが逆に可愛いよね」
「う、うん!そう!」
「僕はあの子が好きなんだよね、妖精のパク」
「パ、パク!そ、そっか、白坂くん、ああいうキャラが、好きなんだね」
「そうそう、ちょっと生意気だけど、優しいところもあってさ。ああいう元気なキャラっていいなあって!」
「な、なるほど。でも確かに、パクは、可愛いね」
いつもの比ではないくらいに、僕たちの会話は弾んでいた。
正門を出て、通学路を歩いて、横断歩道を渡って……と、帰り道を進む間、ずっと僕たちは漫画談義に花を咲かせていた。
「それにしても、よ、よかった……。ボク、安心した」
黒影さんは胸に手を当てて、安堵したように息を吐いていた。
「どうしたの?黒影さん」
「い、いや、あの……今日実は、ずっと白坂くんに、話しかけたくて……」
「え?」
「き、昨日、本屋で僕の大好きなディープ・ブルーを読んでたから、どんな漫画が好きなのか、ずっと、聞きたくて……」
ああ、それでだったんだ。
今日1日、なんとなく黒影さんから視線を感じていたのは、僕へ話しかけるタイミングをずっと測っていたわけか。
「………………」
僕は言葉にこそしなかったけど、彼女の繊細で不器用な性格が……なんだかいじらしく感じられた。
「あ、ここ……ボクのバス停だ」
気がつくと、僕たちはバス停の前に着いていた。そこは、黒影さんがいつも乗るところだったらしい。
「バスは、いつ頃来るのかな?」
「えっと、もうそろそろで……。あ、うん、今来ちゃった」
僕たちが来たのとほぼ同じタイミングで、彼女が乗るバスが停車した。
『三浦通り前~、三浦通り前~』
車掌さんの声が、バスの中から聞こえてきた。
「ご、ごめん、白坂くん。ボクは、ここで……」
「うん」
楽しい漫画の話が途中で終わってしまったことに、一抹の寂しさを抱いていた。
「それじゃ、また明日ね、黒影さん」
「うん。あ、あの、時間取らせて、ごめんなさい。たくさん、話しかけちゃって……」
「ははは、時間を取られたなんて思ってないよ。むしろ、ありがとね」
「え?」
「話しかけてくれて、嬉しかったよ。一緒に漫画の話ができて、楽しかった」
「………………」
「それじゃ、またね黒影さん。明日学校で会おうね」
そう言って、僕は彼女に軽く手を振った。すると彼女の方も、ぎこちなくはあるけれど、手を振り返してくれた。
黒影さんはバスに乗って、そのまま去って行った。
僕は彼女のバスが見えなくなるまで、ずっとその場に立っていた。
「……よし、僕も帰ろうかな」
そうして、僕は来た道を引き返していた。
僕の家は、黒影さんの家とは反対方向にある。だからバス停も、全然違う場所から乗らないといけない。
でも、僕は全く苦に思わなかった。それどころか、黒影さんがバスに乗る直前まで、ずーっと会話が途切れずにいれたことが、そわそわするほど嬉しかった。
「今日は、自転車がパンクして、ラッキーだったかも」
そんな独り言を呟きながら、僕は真っ直ぐな道を歩いていった。