「そんでさー!勇気!あーしさ、肉ダイエットってのやろーと思うんだー!」
金森さんはいつものように、元気ハツラツな声で僕にそう言った。
「肉ダイエット?なんだい、それ?」
「最近SNSでバズってたんだけどー、肉だけ食べて痩せるってやつなの!あーし肉好きだし、これ超いいじゃん!と思って!」
「に、肉だけ食べるの?それって本当に効果あるのかな?」
「えー?たぶんあると思うよー?ていうか、このダイエットじゃないとあーしやりたくないもーん」
「もう~。本当は、金森さんがお肉食べたいだけなんじゃないのー?」
「きゃははは!バレちゃったー!」
金森さんは目を細め、口を大きく開けて笑った。
彼女とは、実は一年生の頃に同じクラスだった。
家庭科の授業の時にたまたま同じ班になって、その時に仲良くなれた。
今は別のクラスだけど、たまにばったり会った時は、こうして雑談を交わすことがあった。
底抜けに明るい人だから、男女問わず人気があった。彼氏がいるかどうかは知らないけれど、凄くモテるという話はよく耳にする。
「んじゃ、またねー優樹ー!ばいばーい!」
金森さんは、自分のクラスである2年1組の入り口前に立って、僕に手を振った。
そして、「みんなおはよー!」と元気な声で、教室の中にいる人たちへ挨拶をしていた。
僕はそんな彼女を見送ってから、自分の教室である3組へと入っていった。
「ふー……」
息を吐いて、席に着く。窓の外では雨が続いていて、どんよりと暗くなっていた。
ガタッ、ガタガタ
その時、隣の席に黒影さんがやって来た。
彼女は机の上に鞄を下ろして、ゆっくりと椅子に腰かけた。
そうだ、今日は黒影さんからダーク・ブルーを借してもらう約束をしてたんだ。楽しみだなあ、黒影さんがあれだけ熱弁するんだから、きっと凄く面白いに違いないぞ。
「黒影さん、おはよ!」
僕がそう言って挨拶すると、彼女はこちらへ顔を向けた。
「あ、う、うん……。お、おはよ……」
その時の黒影さんは、なぜか……異様に曇った表情だった。
目線も泳いでいて、妙に落ち着かない様子だった。
(……なんだろう?何かあったのかな)
僕は彼女の顔を覗き込みながら、「大丈夫?」と尋ねてみた。
「もしかして、どこか具合でも悪い?」
「え?あ、い、いや、全然……へ、平気」
「そう?それにしては……顔色がよくないけど」
「ほ、ほんとに平気、だから……。し、心配させて、ごめんなさい……」
そう言って、黒影さんは僕から顔を逸らしてしまった。
僕は結局、それ以上追及することができなかった。
……その日、僕は一度も黒影さんと話すことができなかった。
あからさまに嫌な顔をされたとか、「話しかけないで」と言われたとか、そういう明確な拒絶はなかった。
ただ、目に見えない透明な壁が……僕と彼女の間にあるような感覚だった。黒影さんと初めて出会った頃に感じていた「仲良くなるのに難航しそうな雰囲気」が、また戻ってきたような様子だった。
いつもは授業の合間の休み時間になったら、楽しく漫画の話ができていたのに、今日はもう、目を合わせることさえない……。
(何か嫌なことでもあったのかな?それとも、僕が……何かしてしまったのかな?)
いろいろと、頭の中でぐるぐると考え込んでしまう。
とにかく、放課後にでも話しかけてみよう。僕のせいなら、ちゃんと謝ろう。
それが今の僕にできる、最善だと思うから。
……キーンコーンカーンコーン
放課後を知らせるチャイムが鳴った。
クラスメイトたちが我先にと教室を出ていく中、僕はごくりと唾を飲んで……隣にいる黒影さんへ話しかけてみた。
「あ、あの……黒影さん」
彼女はびくっと肩を震わせて、恐る恐るこちらへ目を向けた。ああ、やっぱり……最初に会った時みたいだ。
「は、はい……。なに?白坂くん」
「今日は、どうかしたの?」
「どうかって……?」
「いや、ずっと……元気、なさそうだったから」
「………………」
「もしかして、僕……君に何か、酷いことしちゃったかな?」
「……ううん、違う」
「違う?」
「ちょっと、今日は……熱っぽくて。具合、悪かっただけ、だから」
「そうだったの?」
「うん」
黒影さんは、強張った笑顔でそう答えた。
朝方、体調について尋ねた時は、大丈夫だって言ってたけど……。僕に心配かけまいと思って、気を遣っていたのかな。
「ボクの……私のせいで、し、白坂くんに、嫌な気持ちにさせちゃったみたいだね。ご、ごめんなさい……」
この時、彼女はなぜか一人称を“ボク”から“私”へと変えていた。
なぜわざわざ言い直したのか気になりながらも、まだそこを尋ねる勇気はなかった。
「大丈夫、僕のことは気にしないでよ。それにしても、休まなくてよかったの?」
「うん、だって今日は……白坂くんに、漫画を、貸す日だったから」
「そんな……。全然明日でもよかったのに」
「………………」
黒影さんは、どこか寂しそうに目を伏せていた。
気がつくと、教室には誰もいなかった。さっきまで人の体温で暖かったこの部屋も、今はひんやりと冷たい空気が流れていた。
ザーーーーー……
外から聞こえる雨の音が、ぼんやりと耳に届いていた。
「……とりあえず、これ、渡すね」
彼女はそう言って、鞄の中から漫画を取り出し、僕へ手渡した。
「……ありがと、黒影さん。わざわざ僕のために、ごめんね」
「ううん」
「今日は家に帰ったら、ゆっくり休んでね。また熱上がっちゃったら、大変だから」
「……うん」
「ダーク・ブルー、じっくり読ませてもらうよ。今日貸して貰えるの、すっごく楽しみだったんだ」
「……うん、よかった」
「いつまでに返せばいい?明日?それとも明後日」
「……私は、いつでも、大丈夫だよ。読み終わったらで、構わないから」
「そっか、わかった。改めてありがとね、黒影さん」
「うん」
僕と彼女は、お互いに固い笑みを浮かべた。
「………………」
「………………」
少しだけ、僕らの会話に間が空いた。僕も彼女も視線を下に向けていて、言葉にし難い気まずさがあった。
「……えっと、そうだ。黒影さん」
場を解したいと思った僕は、彼女へ聞きたかったことを尋ねてみることにした。
黒影さんは顔を上げて、「な、なに?」と、小さく返事をした。
「一人称、“私”に戻したんだね」
「え?」
「いや、ほら、“ボク”って一人称は、確か友だちとのゲームでやってたんだよね?」
「………………」
黒影さんはちょっと顔を強張らせた後、「うん」と答えた。
「もう、そのゲーム期間が終わって、“私”の方に戻したんだね。なんだかちょっと不思議な感じだよ~。僕は黒影さんと話すようになったのは、君が“ボク”って話し始める時だったから、“私”って言われる方がむしろ違和感覚えちゃって。はははは!」
「………………」
「黒影さんは、そのゲーム、なんて人とやってたの?」
「なんて……名前の?」
「うん。ウチのクラスの人?それとも、他のクラス?ほら、もしかしたら、僕も友だちの人かなー?と思ってさ」
「………………」
黒影さんは、また視線を下に向けて、眉をひそめた。
……そして、ぼろぼろと、泣き始めた。
「……え?」
呆気に取られた僕は、思わず身体が固まってしまった。
彼女目の端には、大粒の涙がいっぱい浮かんでいた。そしてそれは、次々に頬へと滑っていった。
「……う、うう、うう……」
「………………」
「ぐすっ……。すんすん、うう……」
「く、黒影、さん……?」
彼女の目は、ウサギのように真っ赤に腫れていた。
口もへの字に曲げられていて、下唇が小刻みに震えていた。
僕はどうしていいか分からなくて、ただただ呆然としていた。
雨の音が、静かに聞こえていた。