……6月28日、土曜日。午後14時頃。
ボクは自分の部屋で、来週実施される期末テストの勉強をしていた。
社会科の問題集を開き、その答えをノートに書き込んでいく。1ページ分解いたら、一度解答を確認して、○付けをしていく。そんなルーティンを繰り返していた。
窓の外はしとしとと小降りの雨が降っていて、窓ガラスに雨が当たる音が小さく聞こえていた。
「……ふう」
10ページ目を終わらせてから、一旦シャーペンを置き、お腹に溜まっていた息を吐いた。
朝の9時から勉強を始めて、もう4時間が経過していた。途中でお昼の休憩を挟んだ時以外は、ずっと勉強三昧の1日になっている。
さすがにちょっと疲れてきたボクは、勉強机から離れ、ベッドに横たわった。そして、息抜きにスマホで漫画を読もうとしていた。
漫画アプリを開き、ブックマークの欄を開く。
(あ……そんな、今日は更新ないんだ)
だけど、その日は残念なことに、ボクが贔屓にしている作品の更新がお休みだった。
いつも土曜日に更新される作品だったので、毎週毎週楽しみにしていたのだけど……。
(はあ、どうしようかな……)
読みたい漫画の更新がなかったから、また勉強を再開しても良いのだけど、一旦寝そべってスイッチをオフにしてしまったボクの身体は、別の漫画を読むことを望んでいた。
(うーん、なんか面白いのないかなあ)
アプリの中にある作品を、スクロールしながら一望する。
そんな中でボクが目に止まったのは、『日向と日陰』という恋愛漫画だった。
どうやらそれは、暗い女の子と明るい男の子の青春ボーイミーツガールものらしかった。
(……へえ)
あまり恋愛漫画を好んで読まなかったボクだけど、ちょっとその作品は気になってしまって、少し読んでみることにした。
あらすじは、とてもシンプルだった。孤独で友だちのいなかった女の子と、明るくて友だちもたくさんいる男の子が恋に落ちるというもの。
ストーリーの展開もありがちなものばかりで、正直そこまで面白くなかったし、あまり肌に合うタイプの漫画じゃなかった。女の子の方に感情移入できるかなって思ったんだけど、孤高の一匹狼タイプになりたいタイプだったから、ある意味でボクとは真逆の人だった。そこもいまいち、漫画に夢中になれない要因になってしまった。
「………………」
ただ、この作品に出てくる男の子が、結構……白坂くんに似てるなと思った。
独りぼっちの女の子をいつも気にかけていて、明るく笑いかけてくれていた。
『気にしないでよ、僕たち友だちじゃないか』
(わあ、優しい……。本当に白坂くんみたい。ボク、この男の子推しキャラかも)
ボクが好きな漫画のタイプには、二種類ある。それは、物語が面白い場合と、特定のキャラが推しになる場合だった。
この作品の場合は後者で、物語はそこまで好きじゃないけど、この男の子の行く末を知りたいという気持ちから、漫画の続きを読み進めていた。
主要人物の男の子と女の子は、すれ違いと衝突を繰り返し、いろいろと紆余曲折ありながらも、無事交際へと発展することができた。
(ああ、よかった。ちゃんと恋人同士になった)
分かりやすいストーリーラインではあるけれど、それゆえに安心して読める。ありがちなものはつまらないといつも思っていたけど、こういう安心感を買えるという点では、ありがちな物語も悪くないかもと思い始めていた。
主人公たち二人がイチャイチャする様を、ボクはほのぼのした気持ちで眺めていた。
「………………」
仲を深めていった二人は、デートの帰り際に、初めてのキスをした。
──その場面を目にした瞬間、何故かボクは、物凄く苦しくなった。
(あれ?な、なんだろう?)
バクバクと、動悸が激しくなる。胸いっぱいに嫌な気持ちが溢れ出して、思わずスマホの電源を切った。
胸の上に手を置くと、内側から溢れる鼓動の力で、手が押し返された。
(い、嫌、嫌だ。なんか、凄く、嫌……)
胸の奥が、ざわざわしていた。まるで無数の虫が身体の中を蠢いているような、そんな気味の悪さがあった。
これはたぶん、推しキャラがキスをしているシーンに耐えられなかったからだと思う。夢女子って訳じゃないんだけど、お気にいりのキャラが別の女の子と……というのが、思いの外辛かった。
あんまりこんな気持ちになることはないんだけど、この漫画は珍しく、そんな気持ちにさせられた。
……ギシ、ギシ、ギシ
部屋の外にある廊下から、足音が聞こえた。
耳を澄まさないといけないほどに、微かで小さな……フローリングの軋む音。それが聞こえた瞬間、ボクはベッドから飛び起きて、直ぐ様勉強机に戻った。
なぜなら、その足音は、間違いなくお母さんだから。
コンコン
部屋の扉が、二回ノックされた。ボクが「は、はい」と言って答えると、扉はギィと音を立てて開かれた。
そこに立っていたのは、やっぱりお母さんだった。
「あら、彩月。勉強していたのね」
「あ、う、うん。そうだよ」
「そう。もう夕飯ができたけど、まだいらないかしら?」
「あ、えーと、そうだね、もう少ししてから行くよ」
「分かったわ。それじゃあね」
「うん、あ、ありがと」
そうして、扉はパタンと閉められた。ボクは強張っていた肩を弛めて、「ふー……」と息を吐いた。
よかった、危なかった。今日のお母さんはそこまで機嫌悪そうじゃなかったけど、もし機嫌悪い時に……ベッドでだらだらしてる場面を見られたら、怒鳴られてたかも知れない。
(そろそろ、勉強を再開しなきゃ)
そうしてボクは、またノートとのにらめっこを始めるのだった。
……週明けの月曜日。この日から、期末テストが始まる。
科目が日によって異なっていて、今日は数学と社会科だった。
「やべー!マジ俺全然べんきょーしてねーわー!」
「俺も俺もー!ずっとゲームやってたー!」
「ねえねえちはちゃん、生類憐みの令ってなんだっけ?」
「ほらあれでしょ?動物大事にしよーみたいなやつ」
クラスメイトたちも、みんなテストの話題で持ちきりだった。勉強していないことを何故だか自慢気に話したり、教科書を持って問題を出しあったりする光景が、あちこちで展開されていた。
「………………」
その日は、白坂くんも熱心に教科書を凝視していた。目を皿のように細めて、「一代目が家康で、三代目が家光……」と、ぶつぶつ唱えていた。
「し、白坂くん、おはよう」
ボクがそう言うと、彼はこちらへ顔をぱっと向けて、「ああ、おはよう黒影さん!」とにこやかに答えてくれた。
「この前はお見舞いに来てくれてありがとうね、お陰ですっかり治ったよ!」
「う、うん。それならよかった」
白坂くんの元気な姿を見て、ボクは嬉しくなった。やっぱり彼が隣に居てくれると、安心する。
「あ、そうだ白坂くん」
ボクはこの時、いつもの流れで白坂くんに雑談を振ろうとした。話題は、昨日読んだ恋愛漫画のこと。
推しキャラがキスしてるのを見て辛くなったという、そんな話。白坂くんもそういうのある?というノリでその話を振ろうとしたのだけど……。
『わあ、優しい……。本当に白坂くんみたい。ボク、この男の子推しキャラかも』
「………………」
ちょっと、待って。
ボク今、凄く恥ずかしいことを考えてない?
だって、白坂くんに似たキャラが推しになって、そのキャラがキスしてたから辛くなったって……。
なんかそれじゃ、まるで、まるで……。
「黒影さん?」
白坂くんから声をかけられて、ボクはハッと我に返った。
「どうしたの?何か用だった?」
「あ、い、いや……」
彼からの問いかけに上手く答えられず、ボクはもごもごと濁すばかりだった。
……今にして思えば、これがきっかけだった。
この時を皮切りに、ボクの中に眠っていた種が芽を出して、やがてつぼみとなり、花を咲かせるようになる。
その最初の種が、ボクの心に植えられた瞬間だった。