「100円玉を5枚?」
白坂くんはきょとんとしながら、ボクへそう返した。
お昼休みの、お弁当を食べる時間。ボクは今朝あったことを白坂くんへ話していた。
そして、その通りすがりのギャルの人へお金を返すために、新500円玉を100円玉5枚に交換できないか、相談していたのだ。
「う、うん。あの、ほんとに、よかったらで、いいんだけど……」
「えーとね、ちょっと待ってて」
白坂くんは自分の鞄の中に手を入れて、財布を取り出し、小銭入れの中を凝視していた。
「100円玉は、ひい、ふう、みい……。おっ、ちょうど5枚あった!」
彼はにっこりと微笑んで、ボクの机の上に100円玉5枚を置いてくれた。
「はい、どうぞ黒影さん」
「あ、う、うん。ありがとう」
ボクは彼にぺこりと頭を下げて、お返しに500円玉を彼の机の上に置いた。
正直に言うと、このやり取りは、本来必要のないものだった。
ボクはいつも、お昼休みは学校の購買でパンを買っている。そこでお金を崩せば、100円玉は簡単に手に入る。
わざわざ白坂くんに両替を頼んだのは、彼へ……話しかける機会を作りたかったから。
(きょ、今日……体臭とか、大丈夫かな?汗臭いって思われたら、どうしよう……)
ボクはそんな不安を胸に抱えながら、彼から貰った100円玉5枚の内4枚を財布に仕舞い、残りの1枚をスカートのポケットに入れた。
そして、さらに財布から10円玉4枚を取って、これもスカートのポケットに入れた。この合計140円が、今朝のあの人へと返すお金になるのだった。
……なんだか不思議と、白坂くんから貰った100円玉は、あたたかい気がする。他のものと同じはずなのに、彼から貰ったものというだけで、凄く特別に感じる。
彼が触れていたものをボクが貰えるという事実に、心が舞い上がるほど嬉しかった。
「それにしても、よかったね。通りすがりに優しい人が来てくれて」
「え?あ、う、うん」
「なんて人だったの?助けてくれた人」
「そ、それが……名前を、聞きそびれちゃって……」
「あー、そうだったんだ。まあでも、同じ学校の人なんだよね?それなら、またきっと会えるよね」
「う、うん。たぶん……」
そうだ、確かあの人は2年1組だって言ってたっけ。じゃあ、そのクラスに行けばきっと……。
「………………」
この時、ボクはとあることに気がついてしまった。ボクのような陰キャでは、この小銭を返すことすら、難関な試練がいくつもあることに……。
(違う教室に入って、名前も知らない人のことを呼ばなきゃいけない……ってこと?)
そう、まず違う教室を訪ねに行くというのが、相当な重荷だった。
話しかけられるのすら苦手なのに、こっちから“話しかけなきゃいけない”なんて、もっと苦手に決まってる。
しかも今回は、訪ねたい相手の名前が分からない。「すみません、ボクにお金を貸してくれたギャルっぽい人いますか?」と、そんな風に聞くしかない。それがもし、万が一相手の機嫌を損ねるような言い方になってしまったら……。
「………………」
スカートのポケットの中にある140円を、ぎゅっと握り締める。
……そして、さらにもうひとつだけ、ボクには試練があった。
これはもう、ボクのワガママでしかないし、完全にボクがバカだっただけなんだけど……。
(……あげたく、ない)
白坂くんから貰ったこの100円を、他の女の子にあげたくない。
たとえ間接的だったとしても、手渡したくない。
白坂くんからものを貰えたことが想像以上に嬉しくて、ふつふつと胸の内に独占欲が湧き出てきてしまった。
なんてボクはバカなんだろう。こんなことなら、最初から購買で両替しておけばよかった。
せっかく白坂くんから貰ったのに、結局それを出し渋るんだったら、なんの意味もないじゃないか。
(ううう、ボク、何してるんだろう……)
あまりにも頭の悪い状況に、ボクは声を出さずにため息をついた。
……ガヤガヤガヤガヤ
放課後の下駄箱前。ボクはその端っこの方で、じっと佇んでいた。
結局あの後、ボクは新千円札を購買で両替して貰って、白坂くんから貰った100円とは別のものを用意した。
そして、お昼休み中に2年1組へ訪ねる予定だったけど、それも勇気が出ず、こうして放課後になってしまった。
「いや!マジでお前あの漫画読めって!くっそおもれーから!」
「えー?でもなんか話ムズくねー?」
目眩がするほどの人混みの中を、ボクはじーっと凝視していた。今朝のギャルっぽいあの人がいないか、観察していたのだった。
正直に白状すると、お金を返さなくていいんじゃないか?……と思ってしまう気持ちもあった。
だって、本人はそこまで気にしてなさそうだったし、ボクも……知らない人に話しかける勇気を振るわずに済む。
だから、逃げてしまいたかった。何もなかったことにしたかった。
(……でもさすがに、お金は大事、だよね)
返さなくて恨まれることのようが、よっぽど怖い。だからちゃんと返さなきゃと考え直して、ボクは今ここにいる。
情けない話だった。たかがお金を返すだけなのに、何をびくびくしているんだろう。
当たり前のことすら足踏みしてしまう自分に、ボクはとことん嫌気がさしていた。
「あれ?黒影さん?」
その時、白坂くんがボクのことを見つけてくれた。
下駄箱の方へ向けていた足を変えて、こっちの方に来てくれた。
「どうしたの?こんなところで。誰かを待ってるの?」
「あ、う、うん。そうなの。ほら、今朝話した……あの、お金貸してくれた人を、探してて……」
「あれ?それってお昼休みに教室に行ったんじゃなかったっけ?」
「え、えっと、お昼休みは、その人、いなくて……。だから、また改めてここでって思って……」
「あー、なるほどね。そっかそっか」
ボクはまた、小さい嘘をついてしまった。教室に行く勇気なんて、なかった癖に。さも行ってきたかのようなことを言って……。
……ガヤガヤガヤガヤ
ああ、それにしても人が多い。こんな中で、今朝の人を見つけられるだろうか?
いや、そもそもボクは、ちゃんを声をかけられるだろうか?もう、不安なことしか頭にない。
「………………」
白坂くんはなぜか、じっとボクのことを見つめていた。なんでだろう?と思いつつも、なんだかそのことを聞けずにいた。
気がつくと彼は、すっとボクの右隣に立った。そして「人多いね~」と言いながら、眼を皿のように細めていた。
(な、なんで?帰らないのかな……?)
さっきまで明らかに帰る様子だったのに、どうしてボクの隣に……。
「ねえねえ、黒影さん」
「う、うん。なに?」
「今朝のその人って、どんな人だったの?」
「どんな人って……えーと、か、髪が金髪で、こう、ギャル……ぽい、感じの人」
「金髪か~。ありがと、僕もちょっと探してみるよ」
「え……?な、なんで?」
「うん?うーん、なんて言うか……」
白坂くんは少し苦笑しながら、ぽつりとこう言った。
「黒影さん、ちょっと緊張してた感じだったからさ」
「………………」
「まあ、お手伝い?的なものができたらなと、そう思って」
「………………」
……そっか。
白坂くんは、心配してくれてたんだ。
彼は、ボクが口下手で、友だちも全然いないことを知っている。だから人に声をかけるのも、苦手だってことを分かってくれてて……。
(……嬉しい)
ああ、白坂くん。やっぱりあなたは優しい。
こんな情けないボクのことも、助けてくれる。そばにいて安心させてくれる。
好き。
好き。
ずっと一緒にいたいくらい、好き……。
「………………」
ボクは白坂くんが違うところを見ている内に、一歩分だけ、彼のそばに近寄った。
……ガヤガヤ、ガヤガヤ
人混みは次第に少なくなっていった。帰りのホームルームが終わってから、もう20分近くは経つ。もうそろそろ来てもいい頃だと思うんだけど、未だに彼女は現れなかった。
「……いないねえ」
白坂くんの呟きに、ボクは「うん」と答えた。
「あ、そうだ、もしかすると……」
「なに?白坂くん」
「その人、今日は部活かも知れないね」
「あ、そっか、部活……」
「もしそうだとしたら、まだここへは来ないかもね」
「……うっかりしてた。ボク、自分がどこの部活にも入ってないから、そのことをすっかり失念してた……」
「どうする?今日は諦める?」
「うーん……そうだね」
諦めようかな、と、そう口にしようとした時。
「そんじゃーねー!ばいばーい!」
下駄箱に、今朝の人がやって来た。
彼女は他の友だちに向かって、手を振っていた。
「あの人だ。今朝、会った人」
ボクが彼女に指をさすと、白坂くんは「あっ!」と言って目を見開いていた。
「そっかー!なるほどね、金森さんだったんだ」
「金森さん?」
「そうそう、僕の友だちなんだよ。おーい!金森さーん!」
白坂くんは……その女の子の名前を呼んだ。すると相手の方もこちらに気がついて、顔を向けてきた。
「あれっ?優樹じゃーん!」
彼女はぱあっ!とあまりにも明るい笑顔を浮かべて、こっちの方に小走りでやって来た。
「なになに?どーしたの優樹?あーしになんか用事だったー?」
「いや、僕じゃなくて、横の黒影さんがね」
「んー?」
彼女……金森さんは白坂くんにそう言われて、ボクの方へ目を向けた。
「あー!さっぽんじゃん!おっすおっすー!」
「あ、ああ、どうも……」
金森さんの陽キャオーラに気圧されて、ボクは少し仰け反った。
「あ、あの、今日の朝は……ごめんなさい」
「え?なんかさっぽん、悪いことしたっけ?」
「いや、あの、お金……借りたから」
「あー!そーゆーことね!全然気にしなくていいのにー!」
「えっと、これ、借りたお金……です」
ボクは頭を下げながら、ポケットの中にある140円を金森さんへ手渡した。
「ありがとー!さっぽん優しーね!マジでいつでもよかったのにー!」
「い、いえ……そういうわけには」
「でも、なんでここで優樹と待ってたのー?クラスに来てくれたら、あーしいたのにー!」
「黒影さんは、金森さんの名前を聞きそびれたみたいなんだよ。それで、ここで待ってたんだ」
「あーね!じゃああーし、さっぽんの名前だけ聞いて自分のは言ってなかったんだ!きゃははは!バカすぎー!」
金森さんの笑い声が、廊下に反響していた。
「ごめんねーさっぽん!あーしね、金森 千夏っていうの!よろしくねー!」
「は、はい。分かりました、金森さん」
「あっ!やば!電車間に合わないかも!そんじゃ、またねーさっぽん!優樹!お金ありがとねー!」
そうして彼女は、ぴゅー!と、風にでも乗っているかのように、素早くその場から立ち去った。
「金森さん、今日も元気だなあ」
白坂くんはそう言って、微笑えんでいた。
「………………」
ボクは。
ボクは、なんて言えばいいのか、分からなかった。
いや、正確に表現するなら、何も言いたくなかった。
白坂くんが他の女の子のことを、微笑ましく見ていることが、堪らなく悔しかった。
ボクなんかが悔しがる立場にないんだけど……それでも、この感情を押さえきれなかった。
いつの間にか、スカートの裾をぎゅーっと握り締めていた。
金森さん……。どこかで見たことがあると思ってたけど、そうだ、いつの日か白坂くんと金森さんが楽しげに話しているところを……見たことがあったんだっけ。
今にして思えば、その時からボクは、白坂くんのことが好きだったんだ。自覚はしてなかったけど、二人が楽しそうにしているが悲しかったことは感じていた。
「………………」
これが……ボクと白坂くん、そして金森さんの三人が、初めて一同に会した瞬間だった。