ミーン、ミーン、ミンミンミンミン……。
蝉時雨が、ボクの耳をつんざいていた。
もう9月になったはずなのに、日射しがあまりにも“痛い”。チリチリと皮膚が炙られて、茹でたタコのように赤くなっていた。
滝のように流れる汗を腕で拭いながら、ボクは学校に向かっていた。
「はあ、はあ……」
もともと低血圧気味なボクにとって、夏の日射しはまさしく天敵だった。
睫毛の上についた汗の粒が、ぼやけて見えている。足取りも重たく、一歩一歩が牛のように遅かった。肩にかけている鞄も、いつも以上に重く感じる。
でも、こんなになってでも、ボクは学校へ行きたかった。
(……白坂、くん)
今回ボクは、あまりにもラッキーなことに、2回連続白坂くんの隣の席になれた。
白坂くんから離れることが辛くて仕方なかったボクにとって、これは本当に幸運なことだった。
でもだからこそ、1日1日を大事にしなきゃならないと思っていた。
さすがに三回連続、隣同士になるのは確率的にもあり得ない。となれば、今回彼の隣でいられる2ヶ月間が、物凄く貴重なのだ。
次の席替えの時まで、1日も欠かさずに来たい。這ってでも来たい。そんな思いから、ボクは照りつけるアスファルトの上を、修行僧のように歩くのだった。
「はあっ、はあ……」
視界が、チカチカと明滅し始めた。頭がぼんやりとしてきて、足元もふらつき始めた。
「い、いけない。な、何か……。水とか、そういうの……飲まないと……」
ボクは一旦立ち止まり、呼吸を整えてから、肩にかけている鞄の中からステンレスの水筒を取り出し、蓋を開けた。
「あっ……!?」
汗ばんでいたのが運のつきだった。ボクはうっかり、水筒を地面へ落としてしまった。
中に入っていた水と氷が、アスファルトの上をびっしょりと濡らした。
急いで拾い上げたけれど、もう後の祭り。水筒の中は全て流れてしまって、完全に空っぽになっていた。
「ええ……?も、もう……。なんで、こんな目に……」
自分の鈍臭さにイライラしながら、ボクは水筒を鞄へ入れた。
この炎天下の中、水分補給ができないというのはそうとう危険だ。特にボクみたいに貧弱な人間は、学校へ着く前にどうにかなってしまうかも知れない。
(コ、コンビニか、スーパーか……ないかな……)
ボクはスマホの地図で検索をかけて、付近に飲み物を買える場所がないか探す。
だけど、一番近いコンビニでも、ここから歩いて20分以上かかってしまう。
さすがに20分もロスするのは、憚られてしまう。学校にも遅刻してしまうだろうし、何より20分も待てない。
(ううう……。ほ、本当に何もないかなあ……)
ボクはすがるような思いで、辺りをキョロキョロと見渡した。
ふと見ると、30メートルほど先に、自販機があるのが見えた。
(あ、よ、よかった……。あそこで、買おう……)
砂漠でオアシスを見つけた時ってこんな気持ちなのかなと、そんなことを頭の片隅で思いながら、ボクはゆらゆらと自販機の前まで進んでいき、鞄の中からお財布を取り出す。
(えーと、水は……140円か。だいぶ値上がりしたなあ)
ボクが小さい頃は、100円とか110円とかで買えてたはずなのに……。時代の流れって辛いなあ。
(……ん?え、あ、あれ?)
ボクは財布の中身を見て、戦慄した。これまた、あまりにも運のない出来事が起きてしまった。
財布の中に入っているのは、1000円札が3枚と、500円玉が一枚、そして10円玉が5枚あった。
一見すると、140円の水を買うくらい造作もない……全然容易く買える範疇であるはずなんだけど……。
1000円札と500円玉が、どちらも新しいバージョンのものだった。
この自販機には、コインの投入口の横に、『新札・新500円玉は対応不可』と、そう書かれたシールが貼られていた。
つまり、ボクの財布に入っている3550円のうち、使えるのはたったの50円しかないのだった。
「え、ええええ……」
弱々しい慟哭を上げて、ボクはその場にしゃがみこんだ。
困った、本当に困った。
神様にいじめられているのかと思うほどに、今日のボクはあまりにも運がない。
3000円以上もあって、水の1本も買えないって、そんなことある?
「……時代の流れって、辛いなあ」
ボクの情けない呟きが、小さく辺りに木霊した。
「……ねーねー、どーしたの?」
その時だった。
しゃがみこんでいたボクに向かって、声をかけてくる人がいた。
顔を上げてみると、そこにはボクと同世代の、学校の制服を着たギャルっぽい人がいた。
長い金髪が太陽の光に当たって、キラキラと輝いていた。ボクは最初、それがあまりにも眩しくて、少し眼を細めていた。
「もしかして、お腹痛い系女子ー?」
「え?あ、い、いや……その……」
「じゃあなんで座ってんのー?足挫いたとかー?」
「え、えっと、だ、大丈夫です。なんでも、ない、ですから……」
いきなりぐいぐい質問攻めにあって、ボクは動揺してしまった。
向こうも心配して声をかけてくれたのだろうけど、人見知りの陰キャであるボクには、逆に辛かった。
(……あれ?この人、誰だっけ?なんか、知ってる気がする)
ボクはそのギャルの人に、どこか見覚えがあった。
よくよく観察してみると、同じ学校の制服を着ていたから、もしかすると学校の中で見かけたことがあるのかも知れない。
(でも……なんか名前もちゃんと知ってた気がするけど……うーん、誰だっけ……?)
ボクは人の名前を覚えるのが凄く苦手で、同じクラスの白坂くんのことも、最初名前が分からなかった。
モヤモヤする気持ちを抱えながら、ボクは彼女の顔をじっと見つめていた。
「あっ、あーね!お金ない系ね!」
「え?」
「だって、お財布持ってるじゃん?お金なくて困ってた感じでしょ?」
「あ、ま、まあ……はい」
「えーとね、ちょっと待ってー」
そう言って、彼女は肩にかけている鞄の中をまさぐり始めた。
ボクは何をしてるんだろう?と思いながら、ゆっくりと腰を上げた。
「あっれー?さっき使ってたのに……。あ、あった!」
彼女はニマッと笑うと、鞄からスマホを取り出した。
そして、自販機の電子マネー用のタッチパネルにそれを当てた。すると、自販機に並んでいる全ての商品のボタンが点灯した。
「はい!どーぞ!」
「え?ど、どうぞって……?」
「とりま、あーしのPayPai貸したげる!」
「ほ、ほんとに?い、いいんですか……?」
「うん!」
「………………」
友だちでもなんでもないはずの間柄で、よくもこんなあっさりとお金を貸せるなあ。
ボクは貸して貰える喜びよりも、申し訳なさの方が勝ってしまった。
普段のボクなら断ってる場面なんだけど、あまりにも喉が乾いていたこともあって、結局いただくことにした。
「すみません、じゃあ、あの、これ……貰います」
そうしてボクは、140円の水を買った。それを見たギャルの人は、「えー!?」と驚いた声を上げていた。
「マジー!?水とか買うんだね!」
「あ、ご、ごめんなさい、ダメだったでしょうか……?」
「いや、水って味しないし、美味しくなくなーい?」
「え?い、いや、ボ……“私”は、別に全然、水でも……」
「へー!すごーい!なんか大人ー!」
「は、はあ……」
何を言ってるのか全然分かんなかったけど、取り敢えず水のペットボトルを受け取って、彼女に頭を下げた。
「えっと、あの、助かり……ました。ご迷惑をおかけして、す、すみませんでした……」
「うん!今度100億円にして返してくれたらいいよー!」
「え、あ、えーと……」
「嘘ウソ!ジョーダンだって!きゃはははは!」
「………………」
「あ、てかさー、名前なんてゆーの?」
「えっと、“私”ですか?」
「そーそー!たぶんタメだよねー?どこ高なのー?」
「……?あの、一緒の高校だと、思いますよ」
「え!?マジ!?そーなの!?あれ?会ったことあったっけ?」
「ほら、制服……一緒ですし」
「あーーー!!ほんとじゃーん!あーしマジ馬鹿すぎー!きゃははははは!!」
「………………」
愉快な人だな、と思った。
ボクとはまさしく真逆で……明るくて天真爛漫で、人見知りせずぐいぐい人に迫れるタイプの人。
金色に輝く髪は、彼女の心をそのまま反映させているかのように思えた。
「あ!そうだ!名前なんだっけ?」
「あ、えーと、く、黒影 彩月、です」
「おっけー!じゃあ“さっぽん”さー!今度2年1組来てくれるー?そこ、あーしんとこのクラスだからー!」
「は、はい、分かりました」
「あっ!やばー!もうこんな時間じゃん!あーし、宿題やってないからホームルーム始まる前にやんないとやばいんだよねー!」
「は、はあ……」
「そんじゃ、さっぽんまたねー!」
そうして、嵐が去っていくかのように、そのギャルの人……金森さんは走って学校に向かって行った。
(さ、さっぽんって……)
いつの間にか、勝手にあだ名をつけられていた。そんな経験今までなかったから新鮮ではあるけど……こんなにも、会ってすぐの人にあだ名をつけるものなのだろうか。
(……あ、あの人の名前、聞きそびれちゃった)
結局名乗ったのはボクの方だけで、誰なのかもよく分からないまま、お金を借りてしまった。
……確かにどこかで見かけた人だと思うんだけど、一体、誰だったろう?
「………………」
ミーン、ミーン、ミンミンミンミン……。
蝉時雨を聞きながら、ボクは遠くに見える入道雲を眺めていた。
夏が終わる気配は、まだまだ感じられなかった。