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第3話

 瑛くんは、木曜日までは本当に毎日20時45分まで帰って来なかった。朝も7時から朝練をさせてもらっているようだ。

 おれはといえばまだ、レッスンが始まっていなくて放課後は友達と遊んだり、図書館で瑛くんに聞かせる曲は何が良いかな、と楽譜を見ながら考えたりしていた。おれは、瑛くんと違ってバラードのような曲は苦手だ。テンポが速くてめっちゃ指が動く曲が好き。


「あ、これにしようかな!」


 中学1年生のコンクールの時に初めて入賞した時に弾いた思い出の曲、ショパンの幻想即興曲。始まりがとてもかっこよくて、弾いていてとても楽しい曲だ。最近弾いていなかったけれど、きっと覚えているだろう。楽譜を借りて、おれは瑛くんと再会した公民館へ向かった。あそこのピアノは、いつでも誰でも自由に弾いて良いピアノだそうだ。レッスン室は、レッスンが始まるまでは使えない。寮の中にはピアノはない。学校の方針として、寮は休む所だから、ピアノを始め楽器の練習など全て禁止されている。だから、放課後のレッスンだけでは足りない人は、こういう誰でも弾いて良いピアノがある所を探したり、自分の楽器を持っている人は公園で練習をしたりするようだ。


    公民館へ行くまでの間、何人か楽器を練習している人とすれ違った。普通の学校ならば放課後のこの時間は、部活をしている人が多い時間だろう。だけど、宮瀬川高校の音楽科の生徒は部活は入らなくても良いことになっている。中には放課後のレッスンは1時間だけにして、後は部活をやると言っていた人もいたけれど。おれは、部活には入る予定はない。レッスンの時間をフルに使いたいと思っている。それをさっき、クラスで出来た友達に言ったら意外だなと驚かれた。どうやらおれは、そこまでピアノを真面目にやるタイプには見られていないらしい。こう見えてけっこう、おれは真面目なんだけどな。ピアノをもっと上手くなりたいと思っている。瑛くんほどではないかもしれないけど、クラスの友人達よりかは音楽に真摯に向き合っていられていると分かってちょっと嬉しかった。


   そんな感じで時は過ぎていき、楽しみにしていた木曜日がやってきた。楽しみ、というのと同時に珍しく少しだけ緊張していた。あの日憧れた人とまさか、こんなにも近しい関係になれるとは思わなかったから。この日まで朝、瑛くんとすれ違うことはなかった。夜は瑛くんが帰って来てから少しの間おしゃべりをする時間はあったけれど、本当はもっともっと話したかった。だから、ようやくゆっくり話しが出来る木曜日が来てくれておれは朝から落ち着かなかった。何度先生に注意されたことか……。最後のチャイムが鳴ったが、先生がだらだらと話しているものだから少し時間が過ぎてしまっていた。


  起立、礼、の号令が終わると共におれは素早く教室を出た。……瞬間、誰かに思い切りぶつかってしまった。


「ご、ごめんっ」

「はると」

「え、瑛くんっ!???」


 まさか、瑛くんが先に教室の前で待っていてくれるなんて思わず声が裏返ってしまった。


「ははっ変な声」

「だ、だって、待っててくれるなんて思ってなくてびっくりした!」

「約束してたんだから待つだろ。うちのクラス早く終わったから」

「嬉しい! ありがとう~~~」


 めちゃくちゃ嬉しかった。待っていてくれたということは、瑛くんもおれと放課後一緒に過ごすのを嫌とは思っていないということ。


「早く、行こうっ! おれ、今日の為に練習したんだよ~~」

「へぇ、案外真面目なんだな」

「も~それ、入学してからもう何度も言われてる」

「だって、はると思いっきりスポーツって感じの見た目だし、陽キャ? だし」

「陽キャだって、真面目に練習くらいするんです~~」


 スポーツをやっていそうな見た目というのは、よく言われる。だから、初日も何度も運動部から勧誘を受けた。音楽科の生徒と一般科の生徒は制服が違くて、おれはちゃんと音楽科の制服を着ているというのに……。基本的に、音楽科の生徒には部活勧誘はしないことになっているらしいのだ。なのに、おれは勧誘され続けていた。全く迷惑な話しだ。ちなみに、こんなに間違われるけれどおれは運動は苦手だ。


「それで、何弾いてくれるんだ?」

「色々悩んだんだけど、ショパンの幻想即興曲にした! おれが、中学1年生の時に初めてコンクールで賞取った時に弾いた曲なんだ」

「へぇ、あの曲けっこう難しいよな」

「うん。でも、おれあーいう激しい曲のが好きだし得意なんだ! 瑛くんみたいにバラードって綺麗に全然弾けなくて」

「俺も、別にバラードが得意って訳ではない」

「そうなの?」

「うん。ただ、評価がはっきり分かれるから練習すればする程他人と差を付けられるのが良いなって思ってバラードをたくさん練習するようになったんだ」

「へぇー! やっぱ瑛くんはすごいな~普通なら、そこでバラードは辞めておこうってなるんだけどな」

「難しければ難しいほどやりがいあるから」

「それは、分かるかも」


 そんな会話をしながら公民館へ向かった。公民館は今日も人がいなさそうだ。


「そういえばさ、何で瑛くんは再会した時ここでピアノ弾いてたの? ピアノあるって外からじゃ分からないよね」


 この公民館は、受付の人などもいない無人だし外に中に何があるかなどの案内もない。もったいないなぁと思う。こんなに綺麗なグランドピアノがあるのに……。おれも、たまたまピアノの音が聞こえてきたから誘われるようにしてここに入って来たけれど、何もなければ入ろうなんて思うような所ではない気がする。


「あの日、先生の所のピアノではない場所でピアノを弾きたいなって思って弾ける場所ないか探してたんだ。宮瀬川高校の傍の公園だし、どこかしらにあるだろって思って……適当に歩いてたらこの公民館見つけた。奥に進んだらここがあったって感じ」

「へぇー! じゃあ、おれも瑛くんも偶然ここを知ってここで出会えたんだ。すごいな~奇跡、いや運命!?」

「大げさだろ」


 瑛くんはそういうけれど、おれは本当に瑛くんとここで再会出来たのは運命なのではないかと感じていた。だって、瑛くんは少し前まで海外にいて、たまたま瑛くんの先生が宮瀬川高校に転勤になったから来たわけで……先生が違う高校だったら当然、ここに来ることはなかっただろう。結果として、瑛くんは宮瀬川高校に来てくれたけれどおれが公民館の傍を通らなければ、例えば雨が降っていたら音は聞こえなかったかもしれなくて、そうでなくてもおれの耳が良くなければ聞こえなかっただろう。もし高校で出会えなかったとしても、おれは出会えるまでピアノは続けていたとは思うけれど、早めに再会出来て良かった。全ての偶然が繋がって今があると思うと、やっぱり運命かもと思ってしまう。


「何ニヤニヤしてんの」

「なんでもない! じゃあ、さっそく瑛くんのピアノ聞かせて!」

「俺からなの?」

「もちろん!」

「じゃあ、何かリクエストしてよ。大抵のものは弾けると思うから」

「ほんとに!? えーどうしようかなー」


 おれは、スマホを取り出してプレイリストを開いた。プレイリストの中から瑛くんに似合いそうなバラードを探した。


「ん~そしたらシューマンのトロイメライが良いな!」


 始まり方がとても美しい曲で、おれは最初の1音目がとても好きだ。あの音を瑛くんの音で聞きたいと思った。


「トロイメライか。良いな、俺も好き」


 そう言いながら瑛くんは、ピアノの椅子に座り姿勢を正した。その後ろ姿はやっぱり美しかった。そして、瑛くんのトロイメライが奏でられ始めた。おれの大好きな最初の1音は言葉では表せないくらいとてもとても、綺麗で……。元々流れるように穏やかな優しい曲だけれど、瑛くんが奏でるとより一層優しく感じた。ずっと、ずっと聞いていたいと思う音色。今この音色を一人占め出来ていると思うと、おれはなんて幸せ者なのだろうと思った。


 トロイメライは短い曲であっという間に最後の1音が奏でられた。おれは、大きな拍手をおくった。


「めっちゃ良かった!!! 瑛くんのバラードはやっぱ最高だな~~~」

「ありがと」

「トロイメライ、元々好きな曲だったけどもっと好きになっちゃった! 瑛くんが奏でる曲は全部今までよりももっと好きになっちゃうんだろうな」


 愛の夢もそうだ。何度も何度も聞いている曲なのに、瑛くんが奏でるとまるで初めて聞く曲かのように新鮮な気持ちで聞けてしまう。瑛くんのピアノは、一音一音丁寧で、正確だけど、機械的な音色ではなくてそこにはちゃんと感情が乗っているのが分かる。だから、心地よくてずっと聞いていたくなる。


「瑛くんのCDが欲しい……っ!」

「それはちょっと恥ずかしいかな。じゃあ、次はるとが弾いてよ」

「あ~~~瑛くんの後に弾くのめっちゃ緊張するんだけど!」


 初めて出会ったあの日のコンクールでは、瑛くんのピアノのおかげで緊張が解れたのに今は逆になっている。だけど、またこうして瑛くんのピアノを近くで聞けて、同じピアノで音を奏でられることが嬉しい。


「よし、じゃあ幻想即興曲弾かせていただきますっ!」


 今年はまだコンクールに出ていなかったら人前で弾くのは久しぶりな感じがする。瑛くんが座っていた所におれは、腰をおろした。初めてのピアノで久しぶりに弾く曲を奏でるのはちょっと、いやだいぶ緊張するけれど瑛くんにおれのピアノを聞いて欲しい。こんな見た目だけど、おれは意外とちゃんとピアノに向き合っているよということを知って欲しい。深呼吸をしてから、おれは鍵盤に指を置いた。


 幻想即興曲は、始まりはとてもどっしりとしている。どーんと重たい1音から始まり、指をたくさん動かすメロディからだんだんとゆっくりなテンポになっていく。激しい所とゆったりな所が分かれている面白い曲だ。ここのメロディとここのメロディが同じ曲の中のメロディなのか、と驚くくらい前半と中盤は雰囲気が違う。おれは、この変わっていくメロディを奏でるのがとても好きなのだ。思わず身体が揺れてしまう。ピアノを弾くのって本当に楽しい。楽しくて溜まらない。ずっと、ずっと、弾いていたいって思うくらい楽しくて……。最後の1音を弾き終えた時はちょっとだけ寂しい気持ちになる。


「ふぅ……どうだった!?」

「弾いてる時、身体揺らしすぎ」

「あーそれはよく言われる。でも、動いちゃうんだよな~ってそういうことじゃなくて、おれのピアノ! どうだった!?」

「……まあまあ」


 ぼそりと瑛くんは言った。


「まあまあか~~~瑛くんが出会った中でどのくらいの順位?」

「わかんないよ。だけど……入学式で、ピアノ伴奏してた奴よりかは上手いんじゃない」

「やったー! 瑛くんに上手いって言われた!!」


 きっと瑛くんは、おれ達1年生の中では1番レベルが高いのかもしれない。そんな人に、ピアノを間近で聞いてもらって、名前の知らない他人よりかは上手いと言ってもらえたのが嬉しかった。


「こんな雑な感想でよく喜べるな」

「喜べるよ! ねえ、瑛くん。気になった所あったら教えてよ!」

「ピアノ聞くだけじゃなかったっけ」

「教えてもらいたい!」

「……まあ、良いけど。じゃあ、ちょっとずれて」

「うん!」


 おれは、端っこにずれて座り、瑛くんはピアノの椅子に腰をおろした。小さな椅子に男2人で座って並んでいる姿はなかなかシュールかもしれない。寮の部屋にいる時よりも距離が近い。瑛くんの鼓動の音や匂いがすぐ近くに感じて心臓が変に高鳴っている。瑛くんにも、このおれの心臓の音が聞こえているかもしれないって思うと緊張する。静まってくれ、おれの心臓……!


「始まりは良いと思うけど、テンポ早くなる所から早くなり過ぎだと思う。このくらいで弾いた方が1番盛り上がる所がより良く聞こえるし、後半のゆったりな所との差が更に聞こえが良いと思う」


 おれの心臓がバクバクと鳴り響く中、瑛くんは冷静に丁寧に、アドバイスをくれていた。言葉で示してから、こういうことと言って弾いて聞かせて見せてくれた。確かに、おれの弾く幻想即興曲よりもずっと良かった。


「へぇ、ちょっとテンポ変えるだけでそんなに違いが出るんだね! 瑛くんすごいなー」

「すごくはない。後、はるとがテンポ早くなっちゃうのは絶対ゆらゆら身体動かしながら弾いているせいな気がする」

「あ~~~」


 なんか、同じようなことを昔ピアノの先生にも言われた気がする。


「ジャズとか、ヒップホップとかなら良いかもしれないけど、俺達はクラシックだから。クラシックは、しっかり丁寧にやらないと粗が目立つんだよ。めちゃくちゃ上手い人なら、クラシックでも身体揺らしながら正確に弾ける人もいるかもしれないけど」

「同じこと言われたことあるな~~~でも、つい動いちゃって……おれがなかなかコンクールで入賞出来なかったのってこれが原因なのは分かってたんだけど」

「分かってたのに直さなかったのか?」

「いやいや、直そうとしたよ。動かないようにあえてバラードにしてみたりさ。でも、バラードでも結局動いちゃってね~」


 ピアノの先生には、おれは技術的には上手い方だしどんな曲でも練習すればちゃんと弾ける。才能はあるはずだと言われていた。だけど、ピアノを弾く時、どんな状況でもどんな曲でも踊るようにピアノを弾いてしまう為それが欠点になってしまっていると言われていた。それさえなくなれば、もっと良くなるのにって。コンクールではなくて、趣味で弾く時や発表会とかなら好きなように弾いて良いけれど、神聖な場ではしっかりと弾かないと評価はされにくいのだ、と。


「それなら、まずは動かないように努力してみるところからだな。手伝ってあげるから弾いてみて」

「え!? 手伝うって?」

「身体、抑えててやるってこと」

「な、なるほど……!」


 瑛くんは、立ち上がるとおれの後ろに立った。おれの心臓はもう限界突破しそうなくらいバクバク言っているのに、これ以上刺激が強いことをしてもらって大丈夫だろうか。おれは、ゆっくりと座る位置を真ん中に移して鍵盤に手を置いた。


「俺のことは気にせずに弾いてみて」

「う、うん」


 気にせず何て無理に決まっているのに! なかなか酷なことを言ってくるなぁ、と思いながらなんとか弾き始めた。そしてすぐにあれ、何か違うと感じた。おれのピアノの音ではないみたいな気持ち。瑛くんが身体を抑えてくれているおかげで揺れない。揺れないとこんなに音って変わるのか。さっき瑛くんが教えてくれたテンポが速くなる部分がきた。本当に、身体を揺らさなければテンポをゆっくり弾けることが出来た。ただ、一つの欠点を抑えただけでこんなにも変わるのかと驚いてしまった。そのまま最後まで弾き切ってみた。


「どう、だった!?」

「良かった。どれだけ、身体の揺らぎが邪魔してたか分かっただろ」

「うん、まさかこんなに違うとは思わなかったよ……!」

「一人で、身体揺らさずに弾けるようになると良いな。それをひとまずの目標にしたら良いんじゃないか」

「そうだね!! 瑛くんありがとうっ!」

「別に……」


 瑛くんは照れ臭そうにしていた。その後はまた瑛くんのピアノを聞かせてもらって、公民館が閉まるギリギリまでおれ達はそこにいた。外に出るとすっかり陽が暮れていて明るい月が出ていた。


「なんか、夢みたいな時間だったなー」

「はるとはいちいち大げさ」

「大げさなんかじゃないよ。瑛くんは、覚えてなくてもおれは瑛くんと出会った7歳の時からずっと瑛くんに憧れながらピアノ続けてて、それでこんな先の未来になってから再会してここまで親しい仲になれてるってほんとにすごい奇跡だと思うんだ」


 だから、本当に今この時間がとても尊くて宝物みたいで……。ずっと、ずっと、大切にしたいと思っている。


「これからもピアノ聞かせてくれたり、教えてもらえたりする?」

「良いよ。俺も、今日思っていたより楽しかった」

「ほんとっ!?」

「ほんと」

「小躍りしたくなるくらいめちゃめちゃ嬉しいっ! そうだ、今日は一緒に食堂で夕飯食べよ! 今から帰ればまだ間に合うからさ!」

「そうだな」


 瑛くんは笑って頷いてくれた。今日1日だけで、瑛くんととても距離が近くなれた気がする。今まで瑛くんはあまり表情が変わらなかったから、笑顔が見られたのがすごく嬉しい。これから先も、もっともーっと瑛くんと仲良くなって色々な表情を見られたら良いなぁなんて思いながら、おれ達は寮へと向かった。

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