シャルロットに地図をもらった二日後、お城を脱出する機会が満を辞して訪れた。
その日は朝から城内が騒がしく、自室でシアンと共に朝食を終えたアルベルトが呼び鈴を鳴らして侍女を呼んだ際、食器を下げにきた彼女が開けたドアの隙間からバタついた城内の喧騒が二人の部屋にも入り込んできた。
「どうした? なんだか騒がしいようだが」
アルベルトにそう聞かれて、侍女はチラッとシアンを見てから小声で何か耳打ちした。シアンの見ている前で、アルベルトの切れ長の目が微かに見開かれた。
「何だと?」
「我々使用人にはあまり詳しくは伝えられていないのですが……」
「すぐに父上に謁見を願おう」
「陛下は先ほどからずっと立て込んでいらっしゃいます。殿下といえどもすぐにお会いすることは叶わないと思われますが……」
「構うものか」
アルベルトはそう言うと、椅子にかけてあった青地の上着をさっと取り上げて素早く袖を通した。
「何かあったのですか?」
不安そうに尋ねるシアンに、アルベルトは一瞬躊躇した後、軽く頭を振ってから小さく微笑んで見せた。
「あなたは何も心配しなくていい。確認したいことがあるから、私は少し父上と話してくる」
「でも……」
「妻のことを頼む」
アルベルトは侍女にそう告げると、いつになく慌てた様子で部屋を飛び出して行った。
(何だろう? あんな様子の殿下は初めて見る。何か悪いことが起こったんだろうか?)
シアンは恐る恐る、食器を片付けている侍女をそうっと振り返った。
「あの、一体何が……」
「殿下が奥様に仰られなかった事を、使用人の私の口から申し上げることはできかねます」
厳しい声でピシャリとそう釘を刺されて、シアンは思わずその場で俯いた。
(あ、そりゃそうだよね……)
「殿下も殿下です。陛下はお忙しいので邪魔しない方がいいとオブラートに包んで申し上げたつもりが、全く聞く耳なんかお持ちになられない。この調子じゃ今日一日謁見室前で跪いていても、お会いできるかどうか怪しいところですよ」
ぷりぷりした口調でそう文句を垂れると、侍女は片付けた食器をワゴンに乗せてさっさと部屋から出て行ってしまった。広い寝室に一人ポツンと残されたシアンは、アルベルトと侍女が今さっき出て行った扉を感情のない瞳でじっと見つめていた。
『……殿下といえどもすぐにお会いすることは叶わないと思われますが……』
『構うものか』
『今日一日謁見室前で跪いていても、お会いできるかどうか怪しいところですよ』
ドクン、ドクン、と心臓の脈打つ音が部屋中に響いているような気がして、シアンは思わず前屈みになって胸をギュッと押さえつけた。
(どうしよう。みんなバタついていて忙しそうだし、殿下もしばらく戻って来られそうにない。今なら誰にも気づかれずにここから抜け出せるんじゃ……)
ガチャリ、と小さく扉を開けて廊下を覗こうとした時、目の前に炎のような鮮やかな赤が広がって、シアンは驚いて大きく体を後ろにのけ反らせた。
「うわっ!」
「ちょっと何やってるのよ?」
真っ赤なドレス姿のシャルロットが大きく目を見開いてこちらを凝視している。
「あ、シャルロット様……」
「入るわよ。殿下は今いらっしゃらないんでしょ?」
おずおずと後ろに下がろうとしたシアンを突き飛ばすように部屋に入ってくると、まるでチューリップの女王のような佇まいでシャルロットが高飛車な視線をシアンに寄越してきた。
「あんた、こないだ言ってたことって本気なの?」
「え?」
「自分の故郷に帰りたいって話」
ギクリとして思わず視線を泳がせると、シャルロットははぁっとため息をつき、苛立った様子を隠そうともせずにつかつかとシアンに詰め寄ってきた。
「今更私にビクついたってしょうがないでしょ。もう知ってるんだから」
「は、はい。申し訳ありま……」
「パスカル伯父様に聞いたんだけど、あんたとカトンテールの部屋が外から施錠されるそうなのよ」
自分の謝罪文に被せるように思いもよらない言葉がシャルロットの口から飛び出し、シアンは驚いてぽかんと口を開けた。
「……え? それはどういう……?」
まさか自分が逃げ出そうとしていることが誰かにバレたのか? それにしてもなぜカトンテールの部屋まで? いやそれ以前にシアンの部屋というのは……
「このお部屋は私の部屋というより、アルベルト殿下の部屋なのですが……」
「まだ極秘の話で私も詳しくは教えてもらえなかったんだけど、近々私がこの部屋に住むことになるだろうって言われたのよ。多分あんたを私の部屋に移して、そこに閉じ込めるつもりなんだと思うわ」
シアンは何も言わなかったが、シャルロットは真剣な表情で彼をじっと見つめた。
「一応あんたには教えておいた方が良いかと思って。逃げ出すつもりなら早くしないと部屋から出られなくなるわよ」
「ありがとうございます、シャルロット様。お気遣いに深く感謝致します」
神妙な面持ちで頭を下げるシアンに、シャルロットは「ただ……」と珍しく自信なさげな表情を見せた。
「正直今出ていくのが得策なのか、私にはよく分からない。鍵をかけられてからだと遅いけど、外で一体何が起こっているか分からないのにのこのこ出ていくのも危険な気がするし……」
「ご心配いただきありがとうございます」
心からの謝辞を伝えられて、シャルロットの白い頬にぱっと赤みが差した。
「別にあんたの心配をしてるわけじゃないのよ! 下手にあんたが捕まったりでもしたら、私の立場だって危うくなりかねないんだから!」
つい上擦った声でそう言った後、黙って自分の話を聞いているシアンの生暖かい視線に気がついて、シャルロットは顔から湯気が出そうなほど真っ赤になった。
「ちょっとあんた聞いてるの!?」
「はい、ちゃんと聞いていますよ」
シャルロットはゴホン、と軽く咳払いをすると、一旦軽く息を吸って気を取り直してから再びシアンに向き直った。
「それでどうするの? 本当に出ていくつもり?」
シアンが黙って頷くと、シャルロットはチラッと窓の外に一瞬目をやった。
「私以外の二人のお妃の部屋を施錠する意味、ちゃんと分かってる?」
シアンは顔を上げてまっすぐシャルロットの碧眼を見つめた。
「獣人連合国との間に何か起こったんでしょうか?」
「まだ確かなことは何も分からないけど、その可能性が高いと思うわ。今逃げ出したら、たとえあんたにその気が無くても、みんなあんたの事を裏切り者だって考えるんじゃないかしら?」
裏切り者、と自分を指差すアルベルトの冷たい視線を想像して、シアンはすっと心臓が凍りつくような心地がした。そんな彼の残像を振り払うように頭を振ると、シアンは自分を鼓舞するようにぐっと強く拳を握った。
「獣人との関係が悪化しかけているのなら、なおさら私は早くここを離れるべきです。一刻も早く殿下にはカトンテール様との仲を深めてもらわないと」
シャルロットは一瞬言葉に詰まったように黙ってシアンを見つめていた。彼の決意に気圧されているようにも、また聞く耳を持たない彼に呆れているようにも見えた。
「……分かったわ。忠告はしたから、もし捕まって酷い目にあっても私のこと恨んだりしないでちょうだいよ」
シャルロットはそう捨て台詞を残すと、赤いドレスの裾を翻してさっと部屋を出て行ってしまった。再び一人ポツンと部屋に残されたシアンは、一旦心を落ち着けるために寝台に腰掛けようとしたが、やはり考え直して今し方シャルロットが出て行った扉の前まで歩いて行った。今もし何かに腰を落ち着けてしまったら、その場に根が生えたように立ち上がれなくなってしまう気がしたからだ。
(……約二ヶ月か)
この部屋でアルベルトと共に過ごした、長いようで一瞬で過ぎ去ってしまった時間。一生をここで終える覚悟を決めて嫁いできたにも関わらず、こんなにも早くここを去ることになろうとは。二ヶ月前の自分が聞いたら驚いて腰を抜かすに違いない。いや、そもそも二ヶ月前の自分は、この部屋を離れるのをこんなにも苦しく思う日が来るだなんてまるで想像もつかなかっただろう。
(アルベルト殿下……)
窓辺に座って俯くように書物を読んでいる彼の髪を、窓から降り注ぐ金色の太陽光が神々しく照らしている。シアンが声をかけるとそっと目を上げ、優しく微笑みながら低くて耳に心地良い声でそれに応えてくれる。なんてことの無い、取るに足らないいつもの早朝の風景。しかしシアンにとっては何よりも幸せで、この先もずっと続いて欲しいと切に願う日常の風景だった。
誰も居ない窓辺から目を逸らし、ドアノブにゆっくりと手を伸ばす。扉を開ける前にもう一度だけ振り返り、アルベルトが自分のためだけにわざわざ用意してくれた小さな寝台に目をやった。
『……あなたが私と一緒に寝られるようになった時、慣れない布団であなたが不自由しないように』
「……さようなら、殿下」
小さく置き手紙のようにそう呟くと、シアンは目からこぼれ落ちる雫に気が付かないふりをして、もう二度と戻らない部屋の扉から一人足早に出て行った。誰も居なくなった部屋の中にポツンと残された窓辺の書籍の表紙の猫だけが、虚ろな表情で二人が過ごした部屋の天井をぼんやりと悲しげに見上げていた。