目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第15話 逃げ出した猫

 普段から庭園が好きでよく散策しているため、シアンが城の外に出てきても気にかける者は一人もおらず、誰に咎められることもなく庭園をぐるりと囲んで外部からの侵入を阻む分厚い城壁の前まで辿り着くことができた。


(さて、ここからが問題だ。さすがに僕も一人で勝手に城壁の外に出たことは無い。城内がバタついているとはいえ、門兵まで出払ってるなんてことはありえないだろうし……)


「なぁ、今日何だかお城が騒がしくないか?」


 突然門の向こうから声が聞こえてきて、門の裏側にいたシアンはぎょっとして思わずさっと門脇にある藪の中に身を隠した。


「そうですか? 何かあったんですかね?」


 若い門兵らしき青年の声が、最初に話しかけた中年の門兵らしき人物にそう答えている。


「まあ誰も何も言ってこないし、大したことないんじゃないですかね?」

「そうだといいんだが」

「それより先輩、もっと困ったことがあるんですけど」

「何だ?」

「俺、どうも腹下しちまったみたいで……」

「はあ?」


 中年門兵の大声がその場に響き渡り、藪の中に身を潜めていたシアンはまるで自分が怒鳴りつけられたかのようにビクッと身を縮めた。


「何言ってんだお前、交代まであと一時間以上あるんだぞ!」

「まあまあ、そのための二人体制じゃないですか。ションベンならその辺の藪ででもしようかと思ったんですけど、さすがに大きい方となると……」

「やめろ! 分かったからさっさと行ってこい。あ、そうだ、ついでにお城で何かあったのか聞いてこいよ」

「分かりました! クソも聞き込みも全力で行ってきます!」

「いいから早く行けって」


 シアンが見守る中、ギイイィッ! と重い鉄の板が地面を引きずるような音が辺りに響き渡り、不自然に背中を丸めた若い門兵が小走りでシアンの潜む藪の前を通りかかった。


「おっかしいな。欲張って食べ過ぎたかな?」


 苦しそうに顔をしかめた門兵がぶつぶつ呟きながら通り過ぎる中、シアンは人一人がすり抜けられるくらいに細く開かれた城門の隙間を見ながら、必死に頭の中で考えを巡らせていた。


(どうする? 今ならあそこを通って外に出ることができる。外にいるのはおそらくさっきの中年っぽい声の門兵だけだ)


 基本的に閉ざされているはずの城門が開いている上、本来二人いるはずの片方しか門を守っていない状況である。まさに千載一遇のチャンスであった。


(これ以上の好機がこの後も訪れるとはとても考えられない。やるなら今しかない。行け! 行くんだ!)


 しかし、頭の中で響き渡る声とは裏腹に体は小刻みに震えて言うことを聞かず、シアンは最初の一歩を踏み出せずにいた。一人とはいえ、外には警備の人間がいることに変わりはないのだ。


(見つかって大声を出されたら? 逃げきれなかったら? 捕まってお城に連れ戻されたら?)


 裏切り者、と氷のように冷たい声で言い放つアルベルトの姿が脳裏に浮かび、後頭部にぞわっと鳥肌が立った。


(いや、何を考えているんだ! アルベルト殿下を裏切ることは既に決定事項だ。後ろ指差される覚悟くらいできていなくてどうする?)


 あんなに自分との関係を前向きに考えてくれて、ひたむきに自分を愛してくれていた。そんなアルベルトに黙って勝手に出ていくなんて、彼に対する最大級の裏切り行為だ。例えそれが彼や彼の国、それに獣人国の未来をおもんぱかった結果の行為であったとしても。


(動け、僕の足! 早く行かないと門が閉まって……)


「やれやれ、あいつ嫌なタイミングで腹なんか下しやがって」


 突然開いている門の隙間から中年の門兵が城壁内に入ってきたため、シアンは驚いてうっかり藪から転がり出そうになった。


(え、ちょ、何であの人中に入って……?)


 中年の門兵はキョロキョロと辺りを見回して誰もいないことを確認すると、シアンに背を向けるようにして反対側の藪の中へと入って行った。細い水の糸が草を打つパシパシという音と、はぁ~という気持ちよさそうなため息が聞こえて、その瞬間シアンは全てを理解した。


(まさか門兵が二人同時にもよおすとは……)



「ふ~、危なかった。危うく社会的に死ぬところだった」


 中年の門兵が満足げに藪から出てきた時、道を隔てた反対側の藪で何かが動くガサッという音がして、ズボンの前を閉めていた彼は不審げな表情で首を傾げた。


「何だ?」


 彼が二、三歩音のした藪に近づいた時、ガサガサッという葉っぱの擦れる音と同時に、四足歩行の黒い影が藪の中からさっと飛び出してきた。


「うわっ! びっくりした。なんだ猫か」


 全身を黒い毛で覆われた猫は、黄色い目を細めて中年の門兵をジーッと凝視している。


「全くどこから入ってきたのか。この城は自由気ままなお前さんたちでも好き勝手に出入りしていい場所じゃないんだ。なにせ王子殿下が猫アレルギー持ちでいらっしゃるからな。さ、とっとと出ていくんだ。シッシッ!」


 黒猫はさっと身を翻すと、門兵に追い払われるように正門の隙間から外へ飛び出し、掘にかかった跳ね橋を駆け抜けてそのままどこかへ姿を消してしまった。


「やれやれ、門を開けっぱなしにしていた隙を狙って入り込んでいたのか?」


 門兵は小さく肩をすくめると、相方がまだ戻ってきそうにないのを確認してから、重い鉄の扉をゆっくりと慎重に閉めていった。彼が黒猫を追い出す前に、銀髪の美しい猫が一匹城の外へと逃げ出していたのだが、門兵が目を上げた時には既に彼の姿は遠い景色の中に溶けて消えた後であった。



 猫科の動物は身のこなしが俊敏で瞬発力に優れる反面、持久力は乏しい傾向にある。かくいう猫の獣人であるシアンも体力の方はからっきしで、ちょっと走っただけですぐに息が上がってしまう。正門の隙間から風のように全力疾走して城壁を突破し、身を隠せる森の中に飛び込んで少し休んでから、シアンはさてこの後どうしようかと考えを巡らせながらゆっくりと歩き始めた。


(輿入れする時は馬車という馬の引く乗り物に乗せてもらって、西領からここまで来るのには丸一日かかった。そんなにスピードの出る乗り物じゃなかったけど、僕の体力じゃ一日でたどり着くのは難しいかも知れない)


 シアンがいないことにお城の人間が気がついたら、恐らく追っ手がかかるだろう。


(そう考えると、あまり人目につくルートは避けなければ。銀髪にエメラルド色の目の人間なんてお城には一人も居なかった。例え耳を隠したところで、この僕の容姿は人間の国ではきっとかなり珍しいに違いない)


 そうなるとやはりこのまま森を突っ切っていくのが、近道な上に身も隠せてシアンにとっては好都合であった。来る時は馬車が通れる開けた道を進むために、この森をぐるっと回って遠回りしてきたのだ。


「痛っ!」


 むき出しの手の甲を森の木の細い枝がかすり、シアンは小さく悲鳴を上げた。長袖の衣服を身につけてはいるものの、毛皮の無くなった彼の体に野生の木々は容赦無かった。冷えた滑らかな皮膚の上を、葉を落として硬くなった木の枝が何度も削り、シアンの手はすぐに引っ掻き傷だらけになってピリピリと傷んだ。


(こんなことなら手袋を持ってくるんだった……)


『あなたの手を握って温められない私の手の代わりに』


 アルベルトがそう言ってくれた絹の白い手袋を思い出し、木の枝で心臓も一緒に切り裂かれたかのように胸がキリッと傷んだ。冷えと切り傷で痛む両手にはぁっと白い息を吹きかけ、シアンは歯を食いしばって服の袖を手の甲まで引っ張り上げた。

 猫は夜行性だと勘違いされがちだが、実は夜目が利くだけで夜行性ではない。正確に言うと、明け方と夕暮れの時間帯に最も活発に活動する薄明薄暮性である。アルベルトと寝食を共にし、人間と同じ生活リズムで暮らしていたからだけではなく、元からそういう性質なのだ。従って、当然夜は眠くなる。


(いや、とても眠っていられるような場合じゃない。睡眠を削ってでも先に進まないと)


 こんな時、真っ暗な森の中でも灯りなしで動き回れる猫目は非常に便利だった。木々の隙間からわずかに覗く星灯りを、鋭い感度の網膜が敏感に感じ取ってシアンの視界を導いてくれる。

 飲まず食わずで夜通し森の中を突っ切ってきたおかげで、シアンは何とか翌日の明け方に目的の西領へとたどり着くことができた。


(ん? あれは何だ?)

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?