人間の国と獣人の国を隔てる巨大な亀裂と領土を接する西領は、アルベルトたちが住んでいる王都よりずっと寂れて貧しい印象を受けた。輿入れ時にはただ通り過ぎただけで気が付かなかったのだが、亀裂から数十メートルほど離れた場所に建つ領主の居城は灰色の石で作られた物々しい外観をしており、真っ白で美しい王都のそれとは全く異なる印象を受ける。
(あれはただの居城と言うより城砦って感じだな)
王都では城壁が囲っているのは王城だけで、その外側に民衆の住む町が広がっていた。しかしここ西領では、堅牢な城壁が亀裂に沿って何キロにも渡ってそびえ立ち、外からの侵入者、つまり獣人の人間の国への侵攻を阻む最初の砦の役割を果たしている。
(この壁を登るのはなかなか大変そうだ。当然城砦から見張りの兵士が目を光らせているだろうし。城から離れた端の方ならワンチャンいけるかも知れないけど)
シアンは城から少し離れた小高い丘にポツンと建つ木の建物をじっと見つめた。やはりあの空飛ぶ乗り物を使って、城壁ごと亀裂を飛び越えていくしかない。輿入れ時、あまりの恐怖にギュッと目をつぶっていたシアンは、気がついた時には既に亀裂も壁も飛び越えてあの小高い丘に着地していたのだった。
(シャルロットが描いてくれたバツ印の場所とも一致する。あの建物で間違いなさそうだ)
城壁は外側からの脅威に対しては堅牢に作られていたが、内側にはあまり気を配っている様子は無く、木々に隠れながら進めば小屋まで見つからずに進むのはさほど難しくはなさそうであった。
(当然だ。好き好んで勝手に獣人国へ行こうとする人間なんかいないだろうし、例えいたとしてもお好きにどうぞって感じだよな)
見張るべき亀裂は遥か彼方まで続いている。貴重な見張りの戦力を優先度の低い内側に割いているとは考えにくかった。それで恐らくシャルロットも、簡単に忍び込めるだろうと地図を描いてくれたのだろう。シアンは得意の素早い身のこなしでさっさっと木の後ろに飛び移るように移動し、誰にも見つかることなく木の建物まで移動することに成功した。
(よし!)
その建物に扉は無く、入り口はカーテンのような大きな布で覆われている。なるべく布を動かさないように内側に滑り込んだシアンは、埃っぽい建物の内部を見て思わず感嘆のため息を漏らした。
「うわぁ……」
建物内は天井が高くて薄暗く、小さな窓から太陽の光が斜めに差し込んで、部屋全体に舞っているはずの埃がそこだけ切り取られて光の流れを作り出している。土の地面の上に、巨大なサメを十字に重ねたような物体が雑に布を被せて置いてあり、シアンはすぐにそれが自分が乗ってきた乗り物であると気がついた。
(思ってたよりずっと大きいな。これが空を飛ぶのか……一体どうやって?)
シアンは自分の背の届く高さにあった窓から恐る恐る外を覗き見た。城壁の近くの小高い丘にあるこの建物の窓からは、先ほどシアンがいた場所と違って高く厚い城壁の上の部分をより近くから見ることができた。
(ん? あれは何だ?)
先ほどは気が付かなかったのだが、城壁の上に等間隔で銀色に光る細長い筒状のものがいくつも置かれていた。壁の上には何人もの人間がいて、筒状のものの側に座ったり、その間を行ったり来たりしている。
(何だろう? 輿入れ時には全く気が付かなかったけど……)
ドォン! と何かが爆発したような太くて凄まじい音が響き渡り、シアンは驚いて飛び上がった拍子に窓の格子にガツンと頭ぶつけてしまった。
「痛っ!」
城壁の上の筒状の物体の一つからもくもくと黒煙が上がっている。すぐ側にいた人間が、放った物の軌道を確かめるように壁の向こう側をじっと見つめていた。
(何だあれは? 一体何が起こったんだ?)
バッシャーン! と重たい物が水に落ちる音がするのと同時に、二度目の砲声が響き渡り、今度はシアンも別の筒状の物体から炎が吹き出す瞬間を捉えることができた。
(火だ! あそこから火の弾が飛び出してるんだ!)
再び水に何かが落ちる音がして、シアンは彼らが何をやっているのか何となく理解することができた。
(城壁の上のあの筒状の物から火の玉を亀裂に向かって撃ってるんだ。二つとも川に落ちたみたいだけど、一体何のために?)
訓練か、何か別の目的があるのか、それとも……
(もしかして、獣人国を攻撃しているのか?)
シアンの全身から冷たい汗がどっと吹き出した。もしかして、既に戦争が勃発しているのか?
(そんな、一体どうして? 僕がぐずぐずといつまでも殿下の側にいたせいで?)
シアンは無造作に布の被せられた空飛ぶ乗り物を恐る恐る振り返った。奇跡的に自分にこれが動かせたとしても、下手するとあの火の玉で撃ち落とされる可能性があった。
(西の辺境伯の許可を取ってからじゃないと、とてもじゃないけど壁を越えられそうにない。だけどもし戦争が起こっているとしたら、果たしてシャルロットの地図を持っていったとして、彼女の父親が僕に力を貸してくれるだろうか?)
茫然自失とした状態で、シアンは無意識に空飛ぶ乗り物に被せられている布を持ち上げた。と、布が突然シアンの目の前で不自然な動きで波打った。
「え?」
次の瞬間、カーキ色の布が突然バサッと跳ね上げられて、シアンは空気中の埃もろともカビ臭い布に巻き込まれてしまった。
「わっ!」
慌てて後ろに飛び下がろうとしたが、布が邪魔して上手く身動きが取れず、逆に足を取られてシアンは地面にズサッと転がった。
「誰……」
視界を覆っていたカーキ色の切れ目から相手の顔が見えたと思った瞬間、背後から羽交い締めにされるように、口から鼻にかけて嫌な匂いのする布をギュッと押し付けられ、シアンはふっと意識が遠のくのを感じた。
(しまった、後ろにもう一人……)
◇
固くて冷たいものが頬に当たる感触がして、シアンははっと意識を取り戻した。
「……痛っ!」
頭が割れるようにガンガン痛む。恐らく何か強い薬を嗅がされたせいだろう。身じろぎしようとしたが、両手を後ろで縛られていて体を自由に動かせなかった。
(……何だろう、この感じ。何だかすごく既視感があるんだけど……)
冷たい石の床に転がされて、深々と上がってくる寒気にシアンはブルッと身を震わせた。頬を刺すざらついた石床の感覚も、目の前に並ぶ規則正しい鉄格子にも、嫌になるほど見覚えがある。
(ここは西領の地下牢か? 牢屋の作りってのは王都も辺境もさほど変わらないものなんだろうか)
寒さに震えながら、シアンは床に転がったままで小さくため息をついた。
(なんてことだ。歴代の人間の王家で、こんなに短い間に二回も牢屋にぶち込まれた不名誉なお妃なんて、後にも先にも恐らく僕だけなんじゃないだろうか)
コツ、コツ、と石の階段を降りてくる音が辺りに響き渡り、シアンはその場ではっと身を固くした。
(西の辺境伯か?)
シアンは王都でこしらえてもらった衣服をきちんと身につけたままであったが、縛られているせいで胸元に隠してあるシャルロットの地図が無事かどうか確認することはできなかった。
(マルセル殿は僕のことをどれくらい知っておられるんだろう? 勝手にコソコソ他人の領地に入って怪しいことこの上ない僕だけど、事情を話せば分かってくださるだろうか……)
しかし、鉄格子の前に立ち止まった背の高い人物を見て、シアンの顔からさっと血の気が引いた。美しく秀麗なその顔は、シアンがこの世で最も恋しく思う一方、今この瞬間最も会いたくない人物のものであったからだ。
「……シアン」
暗い空洞のようにポッカリと感情の抜け落ちた瞳で見つめられて、シアンはかつてないほど強烈な恐怖の感情に襲われた。