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第17話 最悪の再会

 光のない空虚な瞳で見つめられて、シアンは無意識にパクパクと口を開けたり閉めたりしていた。何か言わなければと思ったが、何を言えばいいのか皆目検討がつかない。目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、アルベルトは一言も喋っていないにも関わらず、その視線に晒されるだけで彼の感情が皮膚から染み込んでくるようで、シアンは体の内側から罪悪感が痛みとなって体を蝕むのを感じていた。


「……で、殿……」


 カラカラに乾いた喉からしわがれ声が飛び出して、シアンは思わずごほっと咳き込んだ。ギイッと鉄格子の開く音がしたかと思うと、誰かがグイッと引っ張り上げるように床に転がっていたシアンの上半身を助け起こした。


(……あ、パスカル先生)


 シャルロットによく似た金髪碧眼の男性医師は、皮袋の水筒をシアンの口にあてがって水を飲ませてくれた。


「丸一日眠っていらっしゃいましたので、とりあえず水分を補給して下さい。脱水症状になってしまいますので」


(丸一日も眠っていたって?)


 つまりシアンは丸二日間飲まず食わずで過ごしていたということになる。


「そこまで強い薬を持たせたつもりはなかったのですがね。王都から西領までは徒歩だと結構距離がありますし、お体が衰弱しておられたのかと」


(ああ、そういうこと……)


 パスカル医師の言葉に納得しかけたシアンだったが、ふと彼の言葉に違和感を覚えて、自分の背中を支えているパスカルを肩越しに振り返った。


「先生が……薬を?」

「あなたが西領に逃げたという密告があったのだ。それで我が城の兵士を西領へ派遣した。速馬を使わせたからあなたを先回りできたようだ」


 感情の無い声で淡々とそう告げながら、アルベルトは鉄格子の前にゆっくりと腰を下ろした。


「あなたが王都から逃げ出した日、獣人連合国から宣戦布告があった。人間の捕虜を捕らえたのだと。それであの日は朝から城が騒がしかったのだ」


 まるで予想もしていなかった事態に、シアンは表情の抜け落ちたアルベルトの美貌を呆然と眺めることしかできなかった。


「あなたは知らないふりをしていたけれど、本当はそれで自分の身が危うくなったから逃げ出したのではないか?」

「それは……!」


 反射的に否定しようとしたシアンだったが、シャルロットの忠告を思い出してそれ以上言葉を続ける事ができなくなってしまった。


『今逃げ出したら、たとえあんたにその気が無くても、みんなあんたの事を裏切り者だって考えるんじゃないかしら?』


(獣人との関係が悪化しかけているどころか、既に獣人から仕掛けた後だったなんて。最悪のタイミングでお城から離れてしまったみたいだ)


 どう考えても自分が本来知り得ない情報を入手して逃げ出したとしか思われないだろう。


「……それからもう一つ、獣人連合国からの声明があった」


 不自然なほど淡々とした口調のアルベルトに、シアンはまるで亡霊と対面しているかのような薄寒い心地がしていた。頭ごなしに怒鳴りつけられるより、よっぽど気味が悪くて恐ろしかった。


「獣人連合国は、数年前から私の体についての情報を保持していたのだそうだ」

「え? それは一体どういう……」

「私が猫に対してアレルギーを持っていると知っていたという事だ」

「何ですって!?」


 今度こそ、シアンは天地がひっくり返るほど仰天した。


「そんな馬鹿な! そんなはずが……」


 すかさず弁明しようとしたシアンだったが、アルベルトの表情を見て喉がつっかえたように声が出なくなってしまった。光の消えた黒い瞳はブラックホールのように、近づいてくる全ての光や言葉を吸い込んで無かったことにしてしまいそうであった。


「獣人たちは、はなから我々人間との融和など望んではいなかったのか?」


 かつて同じようなセリフを同じように牢屋に転がされている時にルイス国王が言っていた事を思い出し、シアンはすぅっと心臓が凍りついたように冷えるのを感じた。


「あなたも、始めから私と一生添い遂げるつもりなど無かったということなのか?」

「それは違います!」


 これだけは言っておかねばならない。どんなに信じてもらえなくても、たとえ自分の言葉が闇に吸い込まれて無かったことにされたとしても、この想いだけはどうしても口に出さずにはいられなかった。


「私は殿下のお側で一生お仕えする覚悟を持って、人間の国に嫁いで参りました」

「ならどうして逃げ出したりしたのだ?」


 アルベルトからしてみれば当然の疑問であり、シアンにしてみれば最も残酷な質問であった。


(できればそれは聞かないで欲しかった……)


 こうなった以上どう勘違いされても仕方がなかったが、断腸の思いで愛する人の側を去る決意をしたシアンにとってこの質問はあまりにも酷であった。この場で真実を述べたとしても、それが紛れもない真実であるにも関わらず最も陳腐な言い訳にしか聞こえないだろう。


(殿下のためを思って、人間の国と獣人国の平和を願って、なんて間違いなく信じてもらえない答えを言うなんて、恥ずかしくて惨めなだけだ)


 しかし他に何と答えていいか分からず、結果シアンはその場で黙り込むことしかできなかった。


「……まあいい」


 アルベルトはそう言ってゆっくり立ち上がると、そのまま踵を返して鉄格子の側から離れて行った。去って行くアルベルトの後ろ姿が若干ふらついたように見えて、シアンは思わず縛られている事を忘れて手を伸ばしそうになった。


「あ、殿下……」

「殿下はシアン様が居なくなってから、今まで一睡もしておられなかったのです」

「え……」

「シアン様が眠っておられる間に、馬車で一日かけてあなたを捕らえた兵士に王都まで送らせたのですが、殿下は馬車が到着するまでずっと起きておいでだったのです」


(そうか、ここは西領の牢屋ではなく王都の地下牢だったんだ。だから殿下やパスカル先生もいらっしゃったんだな)


 愛しい人の後ろ姿が見えなくなるまでじっと見つめながら、シアンはぼんやりとそんな事を考えていた。誰も居なくなった空間からふと視線を落とした時、先ほどまでアルベルトが座っていた場所に黒い染みのようなものが見えて、シアンは目を細めてそれを凝視した。


(あれは……血痕?)


「あの、パスカル先生。あそこに血のようなものが見えるのですが……」


 シアンを縛っている縄を解いていたパスカルは、鉄格子の外の地面をチラッと一瞥してからすぐにフイッと自分の手元に視線を戻した。


「ここは牢屋ですよ。血痕なんて珍しいものではありません」

「そうなのですか? でもあの場所は……」

「他人の血痕のことより、ご自分の体の心配をなさったらどうですか?」


 素っ気ない口調でそう言うと、パスカルは水の入った瓶を牢の隅に置いて鉄格子の外に出て行った。すぐに看守が外側からガチャリと鍵をかけ、シアンを冷たい檻の中に閉じ込めた。コツコツと靴音を響かせながらパスカルと看守が去った後、シアンは四つん這いで地面を這うように鉄格子に近づき、例の黒い染みに触れてみた。


(まだ乾いていない。やっぱり殿下の血痕だ。一体どんなお怪我をされたんだろう?)


 先ほどアルベルトと対面した時は彼の目や表情にばかり意識が行って、どこか怪我をしているかなんて気付きもしなかった。


(何があったんだろう? 大した怪我でなければいいのだけど……)


 ジンジンと痛む手首の縛り跡を無意識にさすりながら、シアンは暗い牢獄の天井に向かって白く曇ったため息を吐いた。

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