それから二日ほど、シアンは凍えるように寒い地下牢の中で、一人囚われの生活を送っていた。一日三回看守が食事と水を運んでくる以外に訪れる者もおらず、時の流れがここだけ停滞しているかのように一日が酷くゆっくりと過ぎていく。監獄の寝床は隅の方に敷かれたいかにも年季の入っていそうな
(あっ、これは!)
薄い毛布だけしか無かったはずの監獄の地面に、輝くような銀色の毛皮でできたマントが滑り落ちたままの形でひだを作って横たわっている。思わず拾い上げてギュッと抱きしめると、懐かしい匂いと暖かさに包まれて、冷え切った心が束の間温まるような心地がした。
(僕の毛皮だ……)
アルベルトと契りを交わした日に体から剥がれ落ちた銀色の毛皮を、誰かがマントの形に仕立てて取っておいてくれたらしい。
(きっと殿下だ。いや、でも僕の事を裏切り者だと思っている殿下がこんな事をしてくれるだろうか? いいや……)
不意に涙が溢れそうになり、シアンは自分の毛皮でできたマントをギュッと顔に押し付けた。
(殿下だって信じよう。例えそうでなくたって、そう思うだけでこの先どんな目に遭っても耐えられるような気がするから)
きっとそのうち自分はここから引き出されて、激しい尋問を受けることになるのだろう。しかし何も知らないシアンに提供できる情報など何も無く、激しい拷問の末に自分は命を落とすかも知れない。いや、むしろ死んだ方がマシだと思えるような目に遭わされるのではないだろうか。考えただけで震えが止まらなくなり、シアンは縋り付くようにさらに強く自分の毛皮を胸に掻き抱いた。
太陽光の届かない地下牢にしばらくいると、段々と時間の感覚がおかしくなってくる。寒さであまり寝付けなかったことに加えて精神的な疲労も相まって、シアンは藁束の上で銀の毛皮に包まって丸くなっているうちにいつの間にかまたうとうとと
「……さま、シアン様」
(何だろう? 可愛らしい女の子みたいな声が聞こえる……)
「シアン様!」
夢と現実の狭間でぼんやりとしていたシアンは、小さく叫ぶ女性の声にはっと我に返った。
「誰……?」
「静かに! 大声は出さないで下さい」
その声が自分の寝ている藁束の下から聞こえてくることにシアンは驚いたが、とっさに毛皮のマントを口に突っ込んで声を抑えた。看守は四六時中シアンだけに張り付いているわけではなく、今は鉄格子の前には誰もいない。それでも万が一外から見られた時に不自然でないように、シアンは鉄格子に背を向けるように寝床の端に移動すると、指で藁束を少しばかり掻き分けた。
(あっ!)
牢の床は全面が灰色の石造りになっているものだとばかり思っていたのだが、この藁束の下だけはなぜか剥き出しの土の地面となっており、そこに小さな穴がポッカリと空いている。その穴から、土に
「カトンテール様!」
「シアン様、早くこちらへ!」
「えっ?」
「今は夜中なので看守は回って来ません。今のうちにこちらへ!」
(ええええ~?)
困惑しているシアンをよそに、カトンテールは急かすように土まみれの細腕をぐいっと伸ばしてきた。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
シアンは慌てて小声でそう言うと、銀色の毛皮のマントを藁束に被せてこんもりと小さな山を作った。これならぱっと見自分がマントに包まって丸くなって眠っているように見えるのではないだろうか?
できるだけ鉄格子の外から見えないようにマントの小山に隠れるような体勢で藁束を退けると、人一人がギリギリ通れるくらいの細い穴が掘られていて、カトンテールが忙しない動作で手招きしている。足の方から後ろ向きにそろそろと穴に入ろうとした時、いきなり足首をざらついた冷たい手に掴まれて勢いよく穴の中に引っ張り込まれた。
(ぎゃあああっ!)
すんでのところで大声を出さずに済んだものの、口から飛び出た心臓を危うく牢屋に置いてきそうな勢いだった。狭い穴の下には思いの外広い空間が掘られていて、まるで細い通路で繋げた兎の巣のようになっていた。
「こちらへ」
カトンテールはシアンを巣の端の方へ押し込むと、今し方シアンが降りて来た細い通路に頭を突っ込んで何やらガサゴソと作業を始めた。どうやら藁束を穴の上に載せて、穴の入り口を隠しているようだ。ザッザッと土を掻くような音とパンパンと壁を叩く音も響いてきて、彼女が更に念入りに入り口を土で塞いでいるのが分かった。わずか数分の間にそれだけの作業をやってのけると、彼女はするりとシアンの潜む巣の端っこまで戻って来た。
「こっちです」
シアンの腕を掴むカトンテールの手は土で汚れて冷たく、どちらかと言うと華奢でほっそりとしている。この小さな手がこの短い期間にこれだけの穴を掘ったことが、シアンにはにわかには信じ難かった。僅かな光もない穴の中ではさすがのシアンも物を見ることはできなかったが、何となくカトンテールの体が痩せて細くなっているように感じられた。
(そんなに長い間会ってないわけじゃないのに、こんなにも痩せるものなのか?)
自分がいない間に、カトンテールにも相当なストレスがかかったのだろうか? それともこれだけの穴を掘るのには相当のエネルギーが必要だったということか?
「あの、カトンテール様……」
「人間の国王陛下が、シアン様の事を処分するつもりだと仰っていました」
カトンテールは別の細い通路にシアンを誘導しながら、現在王宮で起こっている事を簡単に説明してくれた。
「獣人連合国の宣戦布告と同時期にシアン様が居なくなってしまわれたので、内通者の疑いをかけられているのです」
「あなたはそうは思われないのですか?」
「思いません」
狭い通路を四つん這いで進みながら、カトンテールはきっぱりとそう言い切った。
「シアン様がアルベルト殿下の事を害そうとしただなんて信じられませんし、たとえそうであったとしても、私はシアン様の味方です」
「どうして……?」
「この国にいる獣人は私とシアン様の二人だけです。私以外に誰がシアン様の味方になって差し上げられるのですか? それに私がたった一人で嫁いできて不安で泣いていた時、親切にしてくださったのはシアン様ではありませんか」
確かに自分は人間が怖いと泣いていたカトンテールの話し相手になってやった事はあったが、それを恩に感じて今脱獄の手引きをしてくれているのだとしたら、それはあまりにも彼女の方が犠牲を払い過ぎているのではないかとシアンは思った。
「カトンテール様はどうされるのですか?」
「私はここに残ります。大切な人がいるので」
再びきっぱりと言い切ったカトンテールに、シアンは軽い驚きを隠せずにいた。
(ちょっと会わない間に随分と逞しくなったんだな)
「でも私を逃したことがバレたりでもしたら……」
「この穴は施錠された私の部屋から掘っているので、穴さえ隠せばアリバイが成立します。私は今衣服を身につけていないので、部屋に戻ってすぐに体を清めれば怪しい証拠も残りません。シアン様の亡命には手を貸して下さる方が他にいて、その方がシアン様を逃した罪は全て被って下さいます」
「えっ? その方とは一体……」
シアンが尋ねようとした時、前を進むカトンテールがあっと小さく声を上げた。
「すみません、一本穴を間違えました。シアン様の牢屋を探している時に別の部屋の床も掘り当ててしまって。誰もいない空き部屋だったんですけど……」
「そこにいるのは誰だ?」
不意に頭上から押し殺したような小さな声が降って来て、シアンは全身の毛がゾワッと逆立つのを感じた。