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第72話 出すべき部分は出して、隠すべき部分は隠せ

「じょおだんじゃないわよっ!」


 盗聴器のことも忘れて、大声を立て、持っていた本を相棒に投げつけた。器用なもので、ナギはそれを片手で受けとめた。 

 できたてのシチュウを流し込んだように、胸の中で、どろどろとした熱いものが煮えたぎっている気分だった。こんなに怒ったのは初めてだった。他の誰にも、こんなに怒りをかきたてられたことはない。

 他のどんな万年トップの女子生徒に言われたとしても、自分は馬耳東風を決め込むことができただろうと思われるのに。


 そしてシラは次の定期試験では、文学以外の教科の筆記試験で全て二番を取った。文学は一番である。


「ああやっぱりあなたの方が上だ」

「どの面下げてそんなこと言うのよ」


 校内総合掲示板の前には、高等科全校生徒の三分の一が群がっているかと思われた。なのでさすがにそんな悪態は声をひそめている。

 横書きのフルネームは、一つ以外は全て自分の上に相棒が居る。シラは文学以外の教科で勝てるとは思わなかったが、さすがに結果が出てみると悔しさは倍増する。


「でも実力でしょう?」


 シラは唇を噛みしめる。何となく、このひどく冷静な相棒を思いっきり驚かせてやりたくなった。


「きっとあんたは世界は自分の思うように回るって思ってるんじゃない?」

「そんな……」


 いきなりシラはナギの首に両腕を回した。シラの方が明らかに小さいから、思いきり背伸びをして。目の前に金色の瞳。そして。


「……!」


 周囲が一斉に引いた。

 衆人環視の中、シラは相棒に思いっきり濃厚なキスをしたのだ。


   **


つまりは、出すべき部分は出して、隠すべき部分は隠せ、ということをナギは言いたかったんだ、とシラは思う。隠さなくともいい部分にエネルギーを使うのは無駄なことだと。

 とは言え、この現在目の前にいる黒夫人には、どれだけ自分の何を隠して、何を見せるべきなのか、それとも何も考えない方がいいのか、どうにも判らないのだ。

 いつもならそういう時に適切なアドバイスをくれる相棒が居る。だが今はそういう訳にもいかない。シラは自分で考えなくてはならないのだ。


「そのまま帝都へ向かうのですか?」


 食事の後、シラは訊ねた。夫人は首を横に振る。


「とりあえずはあなたの副帝都のお家へ向かうわ。そのまま帝都へ行っても何でしょう?」


 何が何なのかさっぱり判らないが、とにかく一度副帝都の家に戻れるというのは嬉しい。

 その家自体に愛着がある訳ではないが、勝手を知っているのは帝都の家より副帝都の本宅の方である。

 帝都の家には足を踏み入れたのは一度しかない。それも、ついこの間の冬のことである。そこの執事のコレファレスよりは、副帝都の執事のクーツの方がよほど気楽に話すことができる。


 それに、高速通信を使えるわ。


 何とかしてナギに連絡を付けたかった。

 ナギに頼ってしまおうという訳ではない。頼った瞬間、あの相棒は自分を見放すのは目に見えている。それは許せない。相手も許せないし、頼らざるを得ない自分も許せない。

 だけど、自分で上手く答えが出せないのも確かなのだ。

 全部の答えが欲しい訳ではない。正しく考えるためのヒントが欲しいだけなのだ。

 それだけではない。

 シラは身体を固くする。問題は今なのだ。今現在、自分は黒夫人から自分をどう守ればいいのか、考えなくてはならないのだ。

 黒夫人の視線は、奇妙なほどシラの身体に絡み付いてくるのだ。

 どこをどう、という訳ではない。

 だが、どうも似ているのだ。あの、休日の茶屋で自分と相棒を値定めする男子学生のような、そのまま想像の中で服を一枚一枚脱がせているような視線である。

 学校で自分達にそうするような度胸のある女子生徒はいない。最初に上位を独占したあの時以来、誰も自分達にそういう意味で近付いてはこなかった。

 だから、怖くないと言ったら嘘になる。いや、はっきり言って、シラは怖いのだ。

 列車の中に居るうちはよかった。都市間列車は、いくら長距離でも、基本的には一日の中で行ける距離を走る列車である。個室であっても、それは昼の生活のための個室だ。

 だがホテルと、大陸横断列車は違う。彼女はもちろん二等個室を取ったと言った。そうだろう、と思った。予約でない場合の一番いい車両は二等個室である。


 どうしたものかしら?


 シラは考える。相棒なら。ナギだったら?

 ナギだったらあっさりと身体くらい投げ出すだろう、とシラは思った。

 相棒はそういうことに全く頓着がない。世間のモラルは一応知っていても、それが自分に窮屈なものだったらご丁寧に無視する。反抗はあまりしない。する必要もないから、と言われたこともある。


 どうしよう。


 シラは考える。


「嫌ねえ、いつまでもしかめっつらしてちゃ」


 夫人は帽子を頭に留めていたピンを一つ一つ抜き取る。黒い帽子の下には、黒い、やや固そうに波打つ黒い髪があった。

 母と同じ歳くらいとしたら、三十をとうに越しているだろう。だが二十代半ばと言ってもおかしくない。


「しかめっ面なんかしていません」


 くすくす、と夫人は笑う。


「まあいいわ。じゃあ一つ言い渡しておきましょうか。確かに私は可愛い女の子は好きだけど、別に無闇やたらに何かれしたいという訳ではないのよ」

「……」

「ま、別に信じなくともいいけどね。とりあえず私の今の目的は、あなたを無事に副帝都へ、そして帝都へ連れて行くことなのよ。その間に傷物にしたとなっちゃ、私もあの方に会わせる顔がないわ」


 あの方? ふとその言葉がシラの中に引っかかった。


「あなた一人の考えではないのですか?」


 ふふん、と夫人は鼻で笑った。そして答えない。無言は時に、ひどく雄弁である。誰か裏に居るのだ。それはたやすく予想ができることだった。


「判りました。聞きません」

「そう、それが利口よね」


 ええ全く。シラは内心思いきり悪態をついた。

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