やがてやってきた列車は、三等と四等だけの二両編成のものだった。ナギは迷うことなく、四等へと上がった。
四等車の中には、何も無い。椅子も無ければ、手摺りも無い。乗り込んだ人々は、思い思いに座ったり立ったりしている。砂埃のたまった床にそのまま座ることは、日常茶飯事の様だった。
ナギはそれでもさすがに座り込みはせず、置いたトランクの上に、軽く腰を下ろす。周囲のじろじろと見る視線が、ユカリにはやや鬱陶しい。だがそれだけに、あからさまに彼らに手出しをしようとする者もそこには無かった。
およそ二十分ほど、二駅ほどで、ユグヌスルツクに到着した。人の間をかき分けて二人が降りた場所には、人気というものがまるで無かった。
降りた場所に、それまで乗っていた車掌が慌てて走り寄り、切符の確認をする。どうやらそういう場所らしい、とユカリは納得する。そこは無人駅だった。
先程の駅は、それでも一応街らしいものが在ったが、今度はそれどころではなさそうだ、とユカリもさすがに感じる。こじんまりとした木造の駅は、まるで仮住まいの場所の様にも思える。しかし。
「……なるほどな」
ナギは、と言えば、トランクを下ろし、駅舎の前に立つと、腕を組み、遠くを見てそうつぶやく。
「何が、……なるほど?」
「疑問を持つ?」
「……」
ユカリは口をつぐむ。言われたからはいそうですか、といきなりそう、彼女の言う様に疑問を口にするのはそれはそれでしゃくにさわる。
実際、この少女に会ってから、疑問だらけではあるのだ。口にはしないが。だから正直言って、ユカリはそれを口に出してぶちまけてしまいたい気持ちは非常に強かった。
だがその反面、ずっと自分達が通してきたやり方というものが彼の心の中には大きく広がっている。自分の行動をずっと縛ってきたものというものは、やめておけと言われたところで、そう簡単に取り外せるものではないのだ。
「持つけれど、あなたのそのこちらを馬鹿にした様な口振りは、俺には我慢できない」
「ふうん?」
腰に手を当てて、彼女は首を傾げる。
「別に私はそんな風にした覚えはないが?」
「でも俺には、そう感じられる。あなたが俺の主人ではないというから、俺は言うんだが、あなたがそういう態度であるのなら、俺はそう簡単にあなたの言うことを受け入れることはできない……」
言いながら、彼はふと、帝都でそういえば、こんな風に実に偉そうな女性が居たことを思い出した。
直接話をしたことがある訳ではない。遠くで見たことがあるだけだ。だがその態度といい、口調といい、よく考えてみると、ある人物にとてもよく似ている。彼は不意に思い出す。
末の皇女、マオファ・ナジャに似ているのだ。
無論姿形は全く違う。目の前のナギが銀の人形の様だとしたら、皇女ナジャは、色の濃い、蘭の花を思わせた。それも、原色の、香りの高い。
濃い色の髪は短いが、その形は当世風とは無縁。深い色の瞳は、大きく、何者の視線をもはねつける様な強いまなざしを持つ。すんなりした身体は、常の運動によって鍛えられているかららしい。女性らしい曲線はそれなりにあるのだが、社交界に出入りする女性達の持つふくふくとした肉とは無縁である。
七人居る、もしくは居た現在の皇帝の夫人がたから生まれた皇女は、八人。
その八番目の皇女がナジャ皇女だが、彼女は帝都に入る様になる前から、その言動で、巷の噂には事欠かない女性だった。現在二十歳を少し越えたくらいだろうか、とユカリは記憶している。
何が、と言えば、まずその姿。活動的ではない、という理由でスカートを嫌い、男性の様な格好で、皇宮を闊歩している。趣味もまた、女性のする様な手芸や工芸とは無縁だった。それが、彼女の母親である第三夫人エガタ・ファンサが彼女を生むことと引き替えに亡くなったことが何か関係あるのか、と言われれば、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。とにかくこの第八皇女は、小さな頃から男の様な言葉づかいで、乗馬や運動、それに他の皇女達よりも学問を好む。少なくともユカリはそう聞いている。
彼の主人が、その「孫娘」に対し、どう思っているか、直接聞いたことは無い。そんなことに口を出すのは、いや考えることすら、不敬なことだ、とユカリは考えていた。
しかし皇宮に勤務以上、庭園と言わず、廊下と言わず、この女性を目にすることはあった。そしてそのたびに、思う。思ってしまうのだ。
……不思議な人だな。
その口調に、ナギはひどく似ている。その態度に、彼女はひどく似ているのだ。
「……済まなかったな」
あっさりと、言う。そう、こういう部分も。
「しかし私はあなたを見下した気はない。……いや、怒りはしたが、それはあなたがどうとかいうことじゃないんだ…… ああ、どう言ったらいいだろう? 正直言って、そう言われると、私はあなたに対してどう言ったものか、悩むんだ」
「な…… やむ?」
「悩む。どうにも、あなたの立場は、私にとって、難しい」
「難しいって」
「敵対する人物なら、簡単なのだがな。精一杯私はいい娘を演じればいい。シラさんの様な、いや彼女は別か。……そう、コレファレスとかだったら、まあそれなりに立場は判りやすい。同じ目的をたまたま一緒に持ってるからな。あそこのメイドのコルシカ夫人にも、わかりやすい。彼女には、気を在る程度許せる。だがどうにもあなたという立場は厄介なんだ」
「厄介って」
「私は別にあなたの主人と敵対するつもりは無い。正直言えば、関わりたくなかった。だが向こうが関わろうとするから、関わらざるを得ない。それが正直言って、面倒という感覚があってな。その感覚が邪魔をして、単純にあなたに仲間意識は持てないんだ。同じ場所へ向かうにしろ」
何となく言っている意味が、よく判らなかった。
「……平たく言えば、私も、あなたには戸惑っているんだよ」
そう言って彼女は苦笑する。
「しかし面倒というのは……」
「私にとっては、面倒でしかないんだ。確かにあなたの主人、あの方に頼まれたことなんだが、私からしたら、別にこの先そんなことはしなくても、私の生活は続いていく訳だし、何だって私がそんなことをしなくてはならないのか、という感じなんだ」
「……だけどあなたは、最初に俺に言ったじゃないか」
「何を」
「あの……」
帝国を終わらせると。
だがその言葉を口にすることは、彼にはとうていできない。
「あれは、本当のことなのか?」