ヘルメットをかぶりなおしてから路地裏を出るべきだった。
いや、まさか鉄拳が飛んでくるなんて誰が予想できるだろうか。
「ドラッグだろ、それ」
ボタボタとアスファルトを染める赤を見つめながら答える。
「だったら何?」
「止めろ。今すぐやめろ。全部出せ」
「うるさいな。僕の勝手だろ」
もう一発、いいパンチをもらった。
「出せ」
マズい、今度はアゴだ。
抱えていたヘルメットが勢いよく地面に転がる。
さっきから、急所ばかり狙いやがって。
言っただろう、僕は低血圧なんだ。
意識が薄いから、反応ができない。
武闘派じゃないんだから、加減してくれよ。
「キミさぁ、最近までそんな熱いキャラじゃなかっただろ」
「……」
僕はふらつく足どりで近づき、ヘルメットを回収する。
「自分は散々罪を犯して、いざ改心したら他人の悪事は見過ごせないって? 一体何がキミをそうさせたのかは知らないけれど、都合よくない? これは僕の問題だ。勝手にさせてくれ」
ヘルメットを被り、ロクをにらみつける。
「……」
納得してくれたのか。
ロクは目を逸らして舌打ちした。
僕は鉛のように重い足を引きずり、歩き出した。
姉貴に買ってもらったシャツにも血がついた。
どうすんだよこれ。
そういえば、家に八割のシミが取れるってキャッチコピーの薬剤があったっけ。
この赤い染みが「二割のほう」でなければいいのだけれど。
僕はこういう運にはとことん悪いからな。
期待はしないでおこう。
坂を下りながら、徐々に怒りがこみあげてくる。
渋谷ロク、キミは何様のつもりだ。
あのホームレスのおじさんに触発されて正しくなったつもりか?
正しくあろうとか思っているんだろう。
僕だって正しいんだ。
間違っていない。むしろ真面目なくらいだ。
記録によれば、ホームレスはその身を犠牲にロクを凶刃から守ったらしい。
人に初めて優しくされて、改心したのだろうか?
渋谷ロクは施設暮らしの少女だが、施設にだって優しい人はいたはずだ。
それらの人々と、ホームレスのおじさん。
一体、何が違ったのか?
記録から読み取れることは少ない。
収集したファイルには、事実しか書かれないのだから。
少女の心を読み取るにしても、情報が足りない。
だが、一つだけ分かることがある。
僕の直観は間違っていなかった。
この女、嫌いだ。
理由も知らずにいきなり殴って説教とかバカだろ。
でも、僕はこの女を仲間にしないといけない。
それがミッションだ。
仕事は仕事。
だから、私情は抑える。
えらいだろ?
でもなぁ、ムカつくもんはムカつく。
お互い無言のままたどり着いたのは、宮益坂の先にある渋谷警察署。
受付で挨拶を交わし、ゲスト用カードを受け取る。
それをロクに渡し、セキュリティを通過する。
特にエレベーターは気まずい。
わずか三階への上昇が永遠のように感じられた。
一言も話さないまま、エレベーターを出て直進し、突き当りの角を曲がって奥――。
ピーポーパーくんの絵がお出迎えしてくれる宴会企画部にたどり着いた。
ジャジャン!
ここが特殊捜査課だ。
一応、パソコンは置いているが、作戦室というより書庫に近い。
くそったれなレベルでオフィスっぽくない。
そりゃそうだ。
表向きは窓際部署なのだから、相応の待遇然り。
僕とロクだけと考えれば、これで事足りるしな。
十分すぎる。
ヘルメットを脱いで、棚の上に置く。
特に暑い日は蒸れるし、今は出血してるしで、一刻も早く脱ぎたかった。
鼻に突っ込んでいた赤ティッシュを取ってゴミ箱にフリースロー。
三点の獲得を確認して振り返ると、ロクもヘルメットを脱いでいた。
ムカつくくらいサラサラのボブヘアーがファサリと広がり肩に落ちる。
ロクはオフィスチェアーに後ろ向きに座ると、地面を蹴ってクルクルと回りだした。
「さっさと説明しろ。オッサンはどこにいる?」
茶くらい飲ませろや。
急かすロクを背にコーヒーを入れる。
つってもお湯注ぐだけのインスタントだ。
「ホームレスのオッサンについてもちゃんと話すよ。でも、順を追って説明させてほしい。キミ、さっきから身勝手だよ」
しかめっ面の女子高生は、催促するように顎をしゃくった。
僕はロクと自分の机の上にコーヒーを置くと、説明を始めた。
「まず、スカウトの目的は、キミの頭脳だ。これまでの犯罪の手際、把握しているものだけでも、素晴らしいものだったからね」
「それだけじゃないだろ? 犯罪の手際をほめるとかケーサツの仕事じゃないし」
ロクはいつも即答だ。
その食い気味の言葉にイラッとしながらコーヒーをすする。
「そう、そうなんだ。キミの犯罪、分かっている範囲では少年院にブチこまれているからチャラなんだよね。でも、今回のワクチン強奪の件は別物だ。被害届は出ていないけど、立件されれば相応の罪になる。それでもキミが欲しい理由がある」
一拍置いて言葉を続ける。
「僕のホシを追い詰めたからだよ」