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第12話

 パンパン。


 手を打ち鳴らす音が快晴に吸い込まれた。筆の奉納箱の前で両手を合わせて目を瞑る。心の中で「ありがとう」と礼を言うと、朔也は目を開けた。清々しい空気に気持ちがすっきりとする。正月の空にたなびく雲は真っ白で、見上げる朔也の口からも白い息が出た。


 始業式を翌日に控えた一月七日の初詣は多くの人で混雑していた。老若男女入り乱れ、拝殿に向かう幅十メートルほどの道がごった返している。破魔矢や熊手を持つ人、華やかな着物の後ろ姿も見えて、三が日を過ぎたとは言え、突き抜けるような青空の下には新年の空気が残っていた。


御朱印ごしゅいんの二人はどこまで行ったかな。折原君、見える?」


 背伸びした部長の言葉に朔也はそちらに目線を向けた。だが、社務所の前は満員電車並みに人が集まっており、背の高い朔也でもオレンジのマフラーの今井たちを見つけられない。


 筆供養の初詣に集まった書道部員は朔也を含めて五人だった。筆を納める三人と御朱印をもらう二人に分かれたのだが、なにせ人混みがすごすぎる。


「人が多すぎて見えないですね」

「集合場所のお守りのところに行こうか。先輩もそれでいいですか」


 部長の言葉を聞いた三年生の先輩が頷く。


「いいんじゃないか。俺も合格祈願のお守りを見たいし」


 あれ、先輩は推薦で付属大学に決まってたんじゃなかったっけ。その疑問が朔也の顔に出たらしい。こちらを見て彼はからっと笑った。


「弟が中三なんだ。もうすぐ入試だからさ」


 それを聞いて朔也も朝早く予備校に出かけた姉のことを思い出した。姉のゆうは高校三年生で、国立を第一志望校にしている。朔也たちがお守りの並ぶところへ行くと、運よく御朱印をもらいに行った今井たち二人と合流できた。


「すっごく混んでましたよ! あ、朔ちゃん、これ」


 笑顔の今井から朱印帳を「ありがと」と受け取る。紺色の表を捲ると、「お」と先輩が手元を覗き込んできた。


「袴の絵の印をもらえるのか。初めて来たから知らなかった」

「はい、おれ、ここに来るのが楽しみだったんです。袴なんて書道パフォーマンスに縁起がよさそうで」


 今年こそ本戦で選手になりたい。そのためにも、卒業式のパフォーマンスを成功させなければ。


 朱印帳を持つ手に自然と力がこもる。朔也は押されたばかりの印をじっと見つめた。




 クリスマス後の冬休みは毎日書道室に通い、学校閉鎖期間に入ってからも朔也は家で筆を握り続けていた。墨をする感覚が好きで普段は硯を使うが、今回ばかりはと墨池に墨汁を入れて字を書くことに時間を割いた。インターネット上にあるパフォーマンスの動画を見、パフォーマンス用の字の模索もした。


 だが、どうしても自分の字から抜け出す感覚は掴めなかった。


 顧問の「上手い字だけでなく味のある字を」という言葉が蘇る。だが、朔也の目にはパフォーマンス甲子園の字は「上手い字」に見えるし、書家が行うデモンストレーションは芸術的すぎて「高校生の味のある字」ではない。何度書いても納得がいかず、部屋の隅に反古紙が積み上がっていく。


 閉鎖期間前に山宮と連絡先を交換していた朔也は、気晴らしに楷書かいしょ篆書てんしょ隷書れいしょ草書そうしょ行書ぎょうしょで「山宮基一」と書いたものを写真に撮って送った。「読める、読めない、読める、ギリ読めない、読める」という返事にけらけら笑っていると、怪訝そうな顔をした姉が部屋を覗きに来た。


 その夜、数学の問題集の写真とともに「急募解説」というメッセージが届いたので、丁寧に文字を打ち込んだ。だが、途中で「ギブ」と返信を遮られて、思い切って電話した。解き終わった問題集を見返し、説明する。案の定と言おうか、山宮の疑問に逐一答えていたら、朔也が風呂に入る直前まで電話は続いた。


『マジですげえわ!』


 放送室で聞いたのと同じような嬉しそうな声が耳元で弾む。


『もう数学が五ページ終わったとか、信じらんね』

「まだ半分だけど……他の教科は大丈夫?」

『下校放送までの時間で、漢字とスペルを書くやつはやっつけたわ』

「繰り返し書くだけだからね……あと分からないのは?」

『古文の活用表って鬼畜じゃね。なんだこのマス目。活用の種類って、四種類くらい?』

「血液型じゃないんだから。山宮……宿題が終わるまでの道は遠いね……」

『マジかよ、まさか干支レベル? できる予感が一ミリもしねえわ。明日も教えろよ。どうせ折原は終わって暇してんだろ』


 細かく言えば干支じゃ足りないし、書道があって暇じゃないんだけど。


 言いかけたその言葉は呑み込んだ。山宮との会話は気分転換になる。日中筆を握り続けても、集中できなければ意味がない。


「じゃあ、明日は何時に電話する?」

『午前中に古文漢文解いてみっから、午後二時は?』

「オーケー」


 翌日午後は国語を解説すると、夕食後からは通話アプリでスピーカーの状態にし、朔也は書道を、山宮は宿題をやるスタイルに切り替えた。カサコソという紙の音とシャーペンの走る音が遠鳴りに聞こえ、『折原、質問』と朔也を呼ぶ声も心地いい。


 互いに作業通話に慣れると、時折たわいもないお喋りもするようになった。


 山宮は、朔也が書道について熱弁してもおかしいだとか変だとは言わなかった。『蘭亭序らんていのじょ』のよさを語れば『そのすげえランテイノジョって何歳くらいの人?』などととんちんかんなことを言ったり、味のある字が書けないと愚痴れば『折原の字って一周回って無味無臭だもんな』などとバッサリ言ったりする。飾らない言葉は朔也の耳に新鮮に聞こえた。


 そして山宮の弱点も発見した。下校放送のことを忘れられない朔也が「なにか喋って」と言うと、途端にしどろもどろになるのだ。放送室での様子から察するに照れているらしかった。


 解説をした見返りだと強めに要求すると、渋々というように国語の教科書にある文章を読んだ。


 山宮の音読は思わず筆を握る手が止まるほど上手かった。作品ごとに読み方や声が変わり、淀みなく文章を読み上げる。授業で当てられた生徒が読むのとはまるで違う。


 だが、山宮に言わせれば「こんなの初心者レベル」らしい。全国大会に憧れても地区の代表になれるようなものではないという。放送部にも強豪校というものがあり、設備が段違いにいいのだそうだ。


 山宮とおれは全然違う。


 朔也は音読を聞きながら思った。型にはまった、手本の字を真似るのが得意な自分と、声を効果的に使って豊かに文章を表現する山宮と。


 いつか、山宮に「人の目を気にして疲れないのか」と言われたことが思い出される。朔也からすれば、自分の意見を押し通すより周りに合わせるほうがストレスは少ない。手本に合わせた字を書くことが楽なのもそれと同じだ。


──おれは臆病者だけど山宮は違う。自分で勝負できる山宮は本当にかっこいいよ。


 新学期が迫っても、パフォーマンス用の字を掴むことはできなかった。それでも気持ちが落ち込まなかったのは、山宮と話す時間のおかげだということははっきりしていた。

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