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第16話

 そのあと、書道室に足を運んだが全く集中できなかった。


 畳の上に正座しても毛氈の前で宙を見つめ、墨をする腕が止まり、筆を選ぼうとする手が筆巻きの上で彷徨う。手本を見ても上の空で、筆先からぼとりと落ちた墨が紙を汚す。じわじわと紙に黒い染みが広がっていくのと同様に、朔也の心にももやもやとしたものが広がった。叩かれた頬が妙にひりつく。


 全ッ然、意味分かんない。なんであんなに怒るわけ? おれに何度も同じことしてきたくせに、今更なんだよ。これまで付き合ってたおれがバカみたいじゃん。いきなり人の顔を引っぱたくなんてどういうつもりだよ?


 次第に腹立たしくなってきて、朔也は筆に墨をつけた。「馬鹿」と書いてやろうとして、はたと手が止まる。


……でも、最後は目を真っ赤にさせて今にも泣き出しそうに見えた。そんなに嫌がるようなことだったのか? おれは、ただ、友だちにお守りを渡したかっただけなのに。


 冬休み中、山宮と電話をしながら書道をしたときのことを思い出す。


 電話がつながっていれば、自分の部屋は山宮の声で色を変えた。いつか下校放送で聞いた夕焼けを思わせる声もあれば、白い吐息を和らげるような暖かさを感じる声もあった。初詣の神社で見た爽やかな空のような声に励まされて何度も筆を走らせ、眠気を含むような穏やかな声にその日一番の文字を書くことができた。


 勉強や書道の話ができたり、素を出して誰かと話したりすることができるなんて考えたこともなかった。そんな関係を、自分で壊してしまった。


 結局一文字も書くことなく書道室をあとにし、朔也は道具を戻しに教室へ向かった。悶々とした気持ちを抱えたまま廊下を行く。中庭が見下ろせるところへさしかかると、自然に足が止まった。夕日が校舎の窓に反射して、暖かなオレンジ色に染まっている。先ほど山宮と喋っていた自販機の前に数人の男子生徒がいて、ストローを差したパック片手に笑い合っているのが見えた。


──おれは、ただ、あんなふうに笑う山宮を見たかっただけなのに。


 再びため息が漏れて、朔也は廊下をとぼとぼと歩き出した。


 自分の周りから人が去っていくと、心の中に濁った水が溜まっていった。一人、また一人と去っていくと、汚れた水が溢れ出して体中に広がり、体のどこかが動くたびに息苦しくなった。


 足が重くなり、扉から自分の机までが遠くなり、教室までの廊下がぐんと伸びて、階段をのぼるのに息が切れる。保健室に人が来るたびにびくびくして、昇降口で上履きに履き替えることもままならなくなって──。


 こういう気分を二度と味わいたくなかったから、人と距離をとるようにしていたのに。


 ふとどこからか知っている声が聞こえた気がして、朔也は顔をあげた。体育館やどこかの教室で行われている部活中の声とは違う。二つ先にある自教室の後ろの扉が少しだけ開いていて、明かりが漏れているのに気づいた。


 誰か残っているのだろうか。朔也は足音を殺して近づくと、扉の隙間から中を見た。すると見覚えのある鮮やかなオレンジのマフラーが目に飛び込んでくる。


「そっか。そのとき連絡先を交換できたんだ」


 今井の声が小さく笑っている。すると「まあな」と答える山宮の声がした。そっと教室内を覗くと、自席に座った学ランマスクと、前の席の背に凭れて立つポニーテールのセーラー服が見える。


「ようやく前進だね。もう年明けだよ? 山宮君ってば、じれったいなあ」

「じれったいって……お前らしい表現だけど」

「だって、朔ちゃん、いい意味でも悪い意味でも山宮君のこと意識してなかったでしょ? あたし、ずっと不思議だったんだから」

「同性からの『告白』なんてそんなもんだろ」


 自分の名前が出てきて眉間に力が入る。


 今井と山宮の口調はいやに親しげだった。教室での山宮の過ごし方を思うと少し不思議な気がしたが、そこは誰とでも気さくに話せる委員長の今井だ。点数対決をしているくらいなのだから、朔也の知らないところで二人はよく会話をしているのだろう。


「山宮君に問題があるんじゃない? 朔ちゃん、罰ゲームであたしに無理矢理やらされてるって思い込んでるよ」

「ガチで罰ゲームだろ。本命に告白してこいとか、腹立つわ」


──なに?


 朔也は思わず耳を疑った。が、二人はそんなことに気づくはずもなく、会話が続く。


「朔ちゃん、男女両方と仲良いし、早く捕まえないとあっという間にとられちゃうかもしれないじゃない」

「あいつが誰かと笑ってるのはその場しのぎで、どうでもいい相手だから笑ってるだけだろ。それ、仲良いって言わなくね」

「バッサリ言うねえ。それじゃ意味がないんだ?」

「そりゃそうだろ。そんなんでいいなら普通に話しかけるわ」

 山宮の声が弱々しくしぼむ。

「……そんなんでいいなら、こんな罰ゲーム、やんねえわ……」


 放課後の廊下で朔也はキンと冷えた空気をそっと呑み込んだ。心臓の立てる大きな音が口から漏れてしまうのではないかと、慌てて口元を手で押さえる。側に壁に凭れると、カーディガン越しに背中からじわじわと冷たさが伝わってきた。


「山宮君、罰ゲームじゃなくてちゃんと言うのは駄目なの?」

「ドン引きされて二度と口きけなくなるわ」

「そうかな? 朔ちゃん、そういう偏見ないと思う」

「なんで分かる」

「朔ちゃん、昔から高身長で茶髪にくせっ毛だからすごく目立ってたの。性格は大人しいのに派手に見られがちで、誤解されることも多くて。周りから普通じゃないって思われるのがすごく嫌いなの。だから山宮君にも普通じゃないなんて言わないよ」

「それとこれとは別じゃね。自分が男に好かれてたら気持ち悪りいって思うだろ」

「意外。山宮君って固定観念にとらわれるタイプなんだ」

「他人と違うところを受け入れるのは簡単じゃねえだろ。自分の人生は主観でしか生きられねえわ」


 山宮君ってテストできないのに賢いねえ。うっせえ嫌味かよ。あはは冗談だって。


 明るい笑い声をばくばくいう心音がかき消す。


 どういうことだ? 山宮って、おれのことが本当に好きなのか?


 朔也は告白のときの彼を思い返した。だが、機械的な「好きだ」とマスクを外した真顔しか思い出せない。


──マスク?


 朔也ははっとした。


 もしかして、マスクを外してから告白するのは、山宮なりの改まった形だったのか? いや、違う。放送室でも今日の中庭でもマスクは外していた。……ん? 山宮、おれ以外の人と話すとき、マスクつけたまま話してないか? マスクを外して他の人と話してるところ、見たことがないような……。


 慌てて頭をぶんぶんと横に振る。


 山宮はマスクをするのは喉を痛めないためだと言っていた。マスクの有無にそれ以上の意味を求めるのは思い上がりだ。


 だが、今井と話す今も山宮はマスクをつけている。彼が端整な顔立ちを見せて澄んだ声を響かせるのは自分と話しているとき以外に見たことがないわけで。


──え、本当に……?


 朔也はずるずるとそこへしゃがみ込んだ。肩に提げた鞄を抱きかかえ、書道の道具入れをそっと床に置く。心臓の音が煩くて、手が汗で滑る。はあはあと息があがって、頬が熱い。だが、自分が何故そんな状態になっているのか、理由が分からない。


 え、どうしよう。おれ、どうしたらいい?


 底冷えする校舎内は寒いはずなのに、じわじわと変な汗がにじみ出した。これまで殆ど交流のなかったクラスメイトと仲良くなって、喧嘩をしたと思ったら相手が自分を本気で好きだと知る。展開が早すぎて、気持ちが追いつかない。


 と、そこでお喋りの声が中断し、ガタと音がした。


「もうこんな時間! あたし、そろそろ帰ろうかな。山宮君は?」

「このあと下校放送するから」

「そっか、部活頑張ってね! また明日!」


 明るい今井の声に、朔也は慌てて立ち上がった。が、教室が並んだまっすぐな廊下には身を隠すところがない。隣の教室に、と扉に手をかけたが、道具入れの中で文鎮のカタと動く音が意外にも大きく響いて手を引っ込める。


 教室からコートを羽織りながら今井が出てくる。留めるコートのボタンを見ていた目線があがり、廊下でおろおろしていたこちらを認めた。その目が見開き、瞬間足を止めそうになったのが分かる。


 が、教室にいる山宮に気を遣ったのだろう、何事もなかったようにそのままの足取りでこちらへ歩いてきた。朔也の側まで来ると、歩みを止めることなくちょんちょんと先を指す。朔也は頷き、そっと今井のあとを歩き出した。

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