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第20話

「……で、こことここをかける。オーケー?」


 練習問題を一緒に解きながら説明すると、分かった、と山宮が頷いた。朔也もすぐに計算を始め、応用問題に移った。そこへ暫く黙って手を動かしていた山宮が話しかけてくる。


「てかよ、そもそも、なんでマイナスとマイナスをかけるとプラス?」

「それ、中一の範囲だよ」

「そういうもんって覚えただけで、実際のところは理解してねえんだわ」


 そこでパキッと音がして、山宮のシャーペンの芯が折れた。ペンケースから消しゴムを取り出してノートをごしごしとこする。そのペンケースの中に定規を見つけた朔也はそれを手にした。都合のいいことに目盛りの中央にゼロがある定規だ。


「山宮、これ見て」


 山宮がノートから顔をあげると、朔也はその定規を掲げた。シャーペンの先で目盛りを指す。


「この定規、真ん中にゼロがあるだろ。このゼロ地点に自分がいるとする。分かりやすく地図と同じように右のプラス方向を『東』、左のマイナス方向を『西』とする」

「? ああ」

「例えば『山宮君は一分間に西方向へ二センチ歩きます。五分前はどこにいたでしょう』という問題があったとする。西に動く山宮君の速さは、定規で考えると分速 -2センチメートル。で、五分前ってことは -5分。-2×-5=+10。今ゼロ地点にいる山宮君は、五分前には東のプラス十センチの地点にいたってわけ。マイナスとマイナスをかければプラスになるだろ」


 すすすっと十の目盛りまでシャーペンを動かして「な?」と言うと、彼は「うわ」と眉尻を下げた。


「悪りい、すげえ分かりやすかったけど、理解できなかったわ」

「どういうこと?」

「折原の解説には納得できたけど、俺には説明できねえ。手品を見せられた気分だわ。お前だけ人生二回目なんじゃね」

「疑問があるならどんどん調べればいいのに」

「世界の疑問の数と俺のフル稼働領域が合ってねえ。多分、俺の脳ミソの一部、小せえ頃に家出したきり戻ってきてねえんだわ」


 山宮はときに自虐的なことを口にする。そういうときの彼の顔は決まってどこか諦めや苛立ちを含んでおり、今もきれいな顔に似合わず眉をきゅっと寄せている。


 もったいないな、そう思った朔也の人差し指がぐぐっとその眉間を押した。


「ここに力を入れない! 納得できるんだから、家出なんてしてないだろ」


 うぜえ、触んな。そう言って自分の手を振り払うはず。そんな朔也の予想とは逆に、山宮がそのままかーっと顔を赤らめた。その反応に、はっと我に返る。


 おれ、なに顔触っちゃってんの!


 指をぱっと引っ込めると、山宮が朔也が触れたところを前髪で隠すように手をやった。真っ赤に顔を染めた山宮が眉間をぽりぽりと掻いて、部屋の空気がおかしくなる。


 そのとき、朔也の鞄の中でスマホがブブッと振動した。二人同時にびくりとし、朔也はスマホに、山宮が教科書とノートに飛びつく。


「……なに連絡」

「書道部一年のグループ連絡だった。サボってるのどこかで見られてるのかな。はは……」


 おれの下手くそ! もっと普通に笑え!


 無理矢理口角を引っ張り上げて必死に笑顔を作る。一方の山宮は問題を睨むように教科書を見ており、頬を赤くさせたまま小さな声で返事をした。


「……ま、ほっとけばいいんじゃね。自主練だし」


 だから、部活、行かなくてもよくね。より小さくなった声がぼそぼそと続けたので、今度は朔也の顔が赤くなりそうになった。ここにいてくれと言われたようで、内心あわあわとする。


「そ、そう、自主練だもんね。山宮といたっていいよな!」


 あ、おれのバカ! 山宮と、じゃなくて、放送室に、だろ!


 とうとう山宮が腕で隠すように頭を抱えたので、朔也も目を逸らしてスマホをいじるふりをした。


 なんだ、この空気。すごく恥ずかしい。すごく恥ずかしいのに……何故かここを離れたくない。


 矛盾した気持ちに口がへにゃりと笑ってしまいそうで、カーディガンの袖で口を覆って空咳をした。紺色のセーターの腕に隠れた山宮が再び尋ねてくる。


「お前、呼び出しくらってんの?」

「ううん、女子たちがやり取りしてる。卒業式パフォーマンスの衣装についてみたい」


 画面の中でぽこん、ぽこんとメッセージが飛び交う。数人がすぐに反応することから、部室で自主練しているメンバーが複数いることが分かる。


 そこで、ふうと小さく息を吐いた山宮が腕を下ろした。だが、まだ彼の耳は赤い気もするし、自分の心臓もどきどきと音を立てている。それを振り切るように口を開く。


「おれさ」

「さっき」


 思い切り声が被って、再び室内の空気が動揺する。口元を隠し目を逸らした山宮が「ドーゾ」と機械的な声を出した。


「ううん、大丈夫! 山宮から言って」

「たいした話じゃねえわ。お前から言えよ」


 朔也はふにゃふにゃになりそうな口元を引き締めた。


 なんか、今日は変だ。山宮の様子も、この空気も、おれ自身も。いつもはきちっと納まっている機械たちも妙にそわそわしているように感じる。


「おれのサイズに合った衣装がないから、新しく買うはずって言おうとしただけ。山宮は?」

「卒業式パフォーマンスって、卒業生に贈る言葉を全員で書くんだろ。その原稿、さっき顧問からもらったって話」


 卒業式パフォーマンスの話題になったので、朔也は冷静になった。


「贈る言葉の原稿ってなに?」

「書道部がパフォーマンスしてる間に俺が代読するから。去年の映像見てねえ?」


 山宮の言葉に朔也はそれを思い出した。


 卒業式パフォーマンスでは、校庭に一人幅一メートル、縦二十メートルほどの細く長い紙を隙間なく敷き詰める。そして全員で横並びになり、卒業生に背を向けて後ろに下がりながら文を書いていく。全てを書き終えると全体が一つの文章になり、卒業生への贈る言葉が完成するという仕組みだ。


 パフォーマンス中は音楽と文章を代読する声が流れるのだが、その読み上げを担当しているのも放送部だということだろう。


「そうか、今回は音楽を流すだけじゃないんだ」

「そういうこと。お前ら部員の名前も紹介するぜ」


 部活の話になり、山宮が自然な笑顔を浮かべた。


「すげえ緊張するわ。書道部最後の一人が最後の一字を書き終えたときに代読を終えるのが理想。でも、書くスピードなんて日によって変わるだろうし、難しそうじゃね?」


 言葉とは裏腹に、山宮の声が楽しそうに弾んでいる。


「折原は原稿のどこ担当?」


 山宮が鞄から原稿用紙を取り出したので、朔也は一緒になってそれを覗き込んだ。贈る言葉全体を書道部一、二年生で書く場所を分けることになっている。


「まだ正式には決まってない。おれ、漢字が得意だから、漢字が多い部分になると思うんだけど」


 そこで朔也は自分の今の状態を思い出した。


 パフォーマンス甲子園では、一枚の紙にいろいろな場所から文字や絵を書き足していくので、全員が同じ文字数を書くわけではない。


 ところが、卒業式パフォーマンスでは全員がほぼ同じ長さの文を書くことになる。横並びでスタートするため、書いていく速さも合わせなければならないし、一つの文章に見えるように字の書体や大きさも揃えなければならない。読みやすいようにごく普通の楷書で書くのだが、今の自分の字を考えると暗澹たる思いがした。


 と、そこでまた朔也のスマホが振動した。見れば今井から個別に「メッセージ見て!」と連絡が来ている。


「……呼び出しだ。卒業式のパフォーマンスで着る衣装合わせ、今校舎にいるメンバーだけでも先にやらないか、だって」


 今学校にいるの誰? 部室に三人。 ごめん、私もう電車内! 朔は? 朔の分の衣装、サイズを測らないと! 朔ちゃーん、いたら書道室に来て!


 画面を見た朔也の口からため息とともに声が漏れた。


「おれの名前、すっごく連呼されてる。めんどくさい……」


 その台詞に山宮が原稿を捲っていた手を止めた。


「……お前、どうした? なんかあったのか?」


 訝しげにこちらを見る目は打って変わって真剣だった。


「いつもの折原なら、そんなこと言わなくね。俺が知らねえ書道やら衣装関係の単語を羅列して喋りまくるとこだわ」


 思わず言葉に詰まった。鞄にしまいっぱなしの朱色のお守りが思い出される。


「あー……どうしたのかな、今日は書道の気分じゃないんだよね。予選の撮影が終わって気が抜けてるのかな」

「? 予選の撮影って先週の話じゃね。なんで今?」


 至極当然の指摘に朔也は口ごもった。


 音響担当の山宮は、第二体育館でのその撮影を小窓から見ていたはずだ。本当なら、そこで朔也はパフォーマンスを披露できるはずだった。そんな機会を失っただなんて恥ずかしくてとても言えない。


 先ほどまで居心地のよかった空気が、何故か気まずい雰囲気に変わる。こちらが口を開かないことに山宮は困惑したようだったが、目線が朔也の持つスマホに落ちた。


「ま、連呼されてんなら返事すれば。気分じゃねえなら、もう帰るとか言えばよくね」

「いや、どうせまた明日同じことになるだろうし、行ってくるよ」


 メッセージに「今行く」と返すと、朔也は鞄を持って立ち上がった。扉の取っ手に手をかけながら「じゃあ」と山宮のほうを振り返る。瞬間「明日にすればいいのに」と引き留めるかもしれないと思う。だが、シャーペンを動かす彼は顔もあげずに「行ってら」と言うだけだった。


 放送室を出ると冬の空気が襟元から入り込んで、体がぶるりと震えた。そこを去りがたくて、意味もなく腕を回して肩をほぐす。校庭で練習する陸上部の様子を眺め、浅春のそこで披露する卒業式パフォーマンスのことを想像した。だが、自分が筆を持つところをイメージできない。


 今すぐ「やっぱり行くのはやめるよ」と放送室に戻りたい。そして山宮と一緒に時間を過ごしたい。


 こういう気持ち、なんて言うんだろ。


 放課後の空は灰色の雲がどんよりとしている。重い足取りで書道室へ行くと、カタログらしきものを見て話し合っている一年生がいた。こちらに気づいた一人が「朔!」と声をあげ、皆が笑顔で朔也を出迎える。


「朔が来てよかった!」

「うん、明日には注文できるね」


 笑顔の部員たちの側に、墨池や硯、筆や練習で使い終わった紙が重なっていて、朔也の心に罪悪感が生まれた。


──皆一生懸命練習しているのに、おれは逃げている。


「ごめん、自主練来なくて。片づけたい課題があって勉強してた」


 朔也の言い訳にも皆笑顔のままだった。


「平気だよ! 自主練なんだし」

「朔は真面目すぎ。息抜きくらいしたほうがいいって」


 メジャーを当てる今井や代わる代わるかかる声に、自分の今の気持ちを皆が承知しているのだと分かった。いつか朔也がトイレで泣いていたときも、こうやってなにも言わずに見守ってくれていたのだろう。その気遣いがありがたくもあり、後ろめたくもある。


「男子用の袴ってXLまでだっけ」

「朔には足りないんじゃない?」

「少し短いくらいのほうが汚れなくていいかもな」


 書道部の仲間と笑顔で話しながら、頭の片隅で今山宮はなにをしているだろう、と思った。

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