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第27話

 ピーッと笛が鳴り、朔也は顎からしたたり落ちる汗を拭って肩で息をついた。コートでゼッケンを脱いでいると、両肩をそれぞれぽんと叩かれる。


「朔、ドンマイ!」

「シュートを外したの気にすんなよ」

「ホントごめん。あれ入ってたらうちのクラスが勝てたのに」

「半分お遊びのバスケだし、そんな責任を感じなくてもいいだろ」


 別チームと入れ替わり、朔也はクラスメイトたちとコートから出て体育館の壁沿いに座った。


 冬らしい寒さが和らいだはずのその日、昼前から曇り出した空は霧雨に変わった。外で行われるはずだった体育は男女共に体育館内での球技に変更され、朔也は久しぶりのバスケの試合に息を切らせた。


 次の試合開始の笛が鳴ると、隣に座るクラスメイトが言う。


「なーんか朔、最近変だよな」

「ぼーっとしてること多いよな?」


 試合に身が入らなかった朔也は内心ぎくりとし、口端をあげた。


「そ、そう? 自分ではそんなつもりはないんだけど」

「この間黒板に書く字を間違えてただろ」

「そうだっけ。なんだろ、寝不足かなあ」


 あははと笑いながら内心ため息をつく。本音を話せる相手がいなくなると、学校生活は思った以上に息苦しい。朔也はコート内を眺め、そこに山宮がいることに気づいた。


 あれから一週間以上がたったが、彼とは一言も話していない。翌日放送室を訪ねたが、いないのか鍵をかけているのか、扉は固く閉められていて、二度と開くことはなかった。教室で目が合うこともない。


 狭い放送室の中、勉強をしたりお喋りに花を咲かせたりした時間がどれだけ貴重だったのか、今なら分かる。泣きぼくろの目元が笑い、薄いくちびるがにやりとつり上がり、放送部のことをきらきらとした目で語っていた山宮はもういない。


「朔ちゃん」


 ジャージ姿の今井がなにかを持ってやって来る。


「試合見学中にごめんね! 書道部の先輩に贈る色紙、隣のクラスから回ってきたよ」

「ええ? このタイミングで渡す? 今井が持っててよ」

「あたしも今渡されたの! もう、全部押しつけるんだから」

「そこは頼むよ委員長! よろしく!」


 朔也が笑顔で手を合わせると、ちょっぴり不満そうな顔つきで「仕方ないなあ」と今井が肩をすくめる。再び女子のコートへ戻っていく背中を眺め、心の底から彼女に感謝した。今井がこれまで通りでいてくれるおかげで、クラスも部活も居心地のよさは保たれたままだ。


「おい、見ろよ。先制シュート!」

「次こそうちのクラスが勝てるぞ」


 クラスメイトの声に朔也はコートを見た。かけ声とドリブルの中、キュッと目の前の床が鳴る音がして選手が一歩後ろへ下がった。そちらを見やればマスクをしたままの横顔が目に飛び込んでくる。ぐっと膝が曲がり、山宮がボールをとる体勢になる、そのときだった。


「朔! ボール‼」


 遠くから飛んできた声にそちらを振り返った瞬間、視界に迫る茶色のボールが見えた。慌てて顔の前に出した手にバンッと大きな音を立ててボールが収まる。


「おっ、朔、ナイス!」

「あっぶねー!」


 隣に並んで座っていたクラスメイトの声に、朔也の口からも「びっくりした」と声が漏れた。コート内から「朔、悪い!」と声が飛んでくる。


「今日の授業はドッジボールじゃないんだけど!」


 朔也が笑って叫ぶと、投げたクラスメイトも笑った。


「ボールがお前に吸い寄せられたぞー。でかいから引力が強すぎんだよ!」

「よく言うよ! 次当てたらマジの力で返すからなー」


 ボールをふわりと投げ返す。その瞬間、右の中指にズキンと電流のようなものが走って、「いっ……」と小さな声が出た。


「どうした?」

「いや、なんか、右指が」

「なんだ、突き指でもしたか?」


 すぐ隣で試合を見学していたクラスメイトが言う。その言葉に朔也は自分の右手を見つめた。


 ああ、これがよく言う突き指なのか。……突き指?


 それを理解した瞬間、顔から一気に血の気が引いた。


 突き指……? まさか、字が書けなくなるんじゃ。


 急に心拍数があがったからか、指のズキンズキンとした痛みが強くなる。見つめる右手がカタカタと震え出した。


 うそだろ、こんなことでパフォーマンスに参加できなくなったら、おれ──。


「折原!」


 その声にはっとすると、ゼッケンをつけた山宮が怖い目つきでこちらを見下ろしていた。なにも言わずに朔也の右腕を掴み、ぐっと痛いほどの力で引っ張る。


「折原は保健室に行くから! あとは任せた!」


 マスクをずらし、普段大声を出さない山宮がコートへ言い放つ。そのまま廊下へ朔也をぐいぐいと引っ張った。


「なんで山宮?」

「てか、山宮、試合中……」


 戸惑いの声が追いかけてきたが、山宮にはどうでもいいらしい。引きずられるままにされている朔也に鬼のような形相で怒鳴る。


「なにぼさっとしてんだ! 保健室に行けよ!」

「う、うん、でも、腫れて、ないし、数日、放っておけば、治るかも、しれないし」


 己を説得するような言葉は出てくるのに、頭の中は混乱と恐怖で自分がどんな表情をしているのかも分からない。そんな朔也に山宮が更に大声で怒った。


「これから腫れてきたらどうすんだよ! 大切な右手だろ!」


 足がぎくしゃくとして上手く動かず、ただただ山宮に引きずられるまま保健室に行く。扉に「外出中」の札が下がっているのを見、山宮が「先生を探してくる」と職員室のほうへと駆け出す。一人取り残された朔也にパニックの波が押し寄せた。


 どうしよう、どうしよう。突き指ってどれくらいで治るんだ? こんな大切な時期に怪我をするなんて、おれはなにをやってるんだ。卒業式パフォーマンスに出られなくなったら、部員全員に迷惑をかける。一人の問題じゃ済まされない。


「折原君?」


 やわらかい声に顔をあげると、マスクを外した山宮と白衣を着た養護教諭が立っていた。


「指にボールが当たっちゃったのね? ちょっと見ましょうか」


 外出中の札をくるりとひっくり返したあとに続いて保健室に入る。椅子に座った朔也の向かいで養護教諭がなにか話しながら処置をしてくれたが、その言葉は朔也の耳を素通りしてしまった。


「折原。折原!」


 山宮の声に我に返ると、養護教諭が机上にあるグレーの棚から外出届の紙を取り出すところだった。


「書道部なのね。学校の近くの整形外科に行ってくるといいわ。担任の先生は職員室にいらっしゃったから、相談してらっしゃい」


 すぐに「ありがとうございました」と答えたのは山宮だった。なにも言えないまま椅子から立ち上がると、彼が廊下のほうへと背中を押しやる。山宮が頭を下げ、保健室の扉を閉めた。パタンという音に足から力が抜けて、廊下の壁に凭れながらずるずるとしゃがみ込む。


「……やば。山宮、どうしよう」


 いつの間にか手の中にあった外出届がくしゃくしゃに折れている。


「おれ、突き指とか、初めて。これ、どれくらいで治る? おれ、卒業式のパフォーマンスに出られるの?」


 パフォーマンス甲子園に向けて練習に励む部員を見ていたときの、体育館の床の冷たさ。そのときと同じひんやりとした波が心の端からひたひたと押し寄せる。


「出られなかったら、おれ、一年間で一度もパフォーマンスを披露しないことになるんだけど。そんなことになったら、ホント悲惨なんだけど。なんでこの高校に来たのか、なんで体を鍛えてまで書道に取り組んできたのか、全部意味がなくなるじゃん……」


 じわっと目が熱くなった次の瞬間にはぼろぼろと涙が出てきた。


「ああ最悪……おれは、なんのために頑張ってきたんだ……」

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