遠くから聞こえるボールの音と生徒たちの声援。職員室からの物音やどこかで授業をしている声まで聞こえてくる。そんな中聞こえるのは情けなく泣く自分の嗚咽だけで、朔也は零れる涙をジャージの袖で拭った。ぼやける視界に目の前に突っ立った山宮のシューズがある。
と、髪をふわっと撫でる手を感じて、朔也は顔をあげた。ゼッケンをつけっぱなしの山宮が、一転、静かな表情でこちらを見下ろしている。
朔也の頭から離れた手が、そのまま目の前に差し出される。色白の、女の子のような細い指。それを握ると、頼もしく力強い腕が引っ張って朔也を立たせた。
「折原、まず病院に行け」
山宮の声は淡々としていたが、こちらを見上げる目は真剣だった。
「まだ不参加と決まったわけじゃねえだろ。想像で泣いても答えなんか出ねえわ」
きりりとした表情も落ち着いた口調も頼もしく映る。
「すげえ練習してきたのに、目前になって出られねえかもってなったら誰だって怖いわ。俺も、前にあったから」
彼が今までに見たことのない苦悶の表情を浮かべた。
「毎日練習して、誰にからかわれようと喉を痛めねえようマスクして、予防注射も打ったのに、コンクール前日にバカみてえな高熱が出てさ。声がガラガラになって布団の中で寒さと恐怖に震えてんのに、誰も助けてくんねえんだわ。解熱剤を飲んで会場に行ったけど、自分の番が来ても声は治んなかった。結局棄権したわ。中学最後のコンクールだったのに」
山宮の声が、傷ついている。悔しさと涙を呑んできた声だ。ずっと一人で耐え忍んできた者の声だ。人に頼れと言ったのは、彼自身が人に頼れずにいたからだ。
山宮の痛みが自分のことのように伝わってきて、再び涙腺が緩みそうになる。
「自暴自棄になって放送部の強豪校を受験すんのもやめて、姉貴の母校ってだけでここに進学した。でも、顧問の先生がコンクールで俺を見てて、部員が卒業して廃部になったけど君がやるならって、俺一人のために放送部を復活させてくれた。放送室を開放してもらって居場所もできた。そこに、お前が来た」
山宮の力のこもった声が心にまで響いてくる。
「折原、お前には委員長たち仲間がいるだろ。書道パフォーマンスは皆で作るものなんだろ。だったら病院に行け。行って、症状を聞いて、対処法を教えてもらえ。きっと仲間がフォローしてくれる。その日のその直前まで諦めるなって言ってくれる。それに」
そこでゆっくりと俯いた黒いつむじが小さな声を出した。
「……俺も、卒業式パフォーマンスに音声で参加するって言ったろ。俺だって、お前がいねえと、やる気、出ねえんだわ……」
朔也の目が見開いた。その髪から赤くなった耳が覗いている。が、それをよく見ようとした瞬間、溜まっていた涙で視界がほろりと崩れた。
「……そういうことだから。とにかく、先生んとこ行って外出届を出してこい。病院から戻ってきたら書道部に報告しろよ。……俺も放送室にいるから」
山宮はぶっきらぼうにそう言い切ると、くるりと背を翻した。襟足から顕わになったうなじも、握ったこぶしも、ハーフパンツから伸びるふくらはぎの筋肉もぎゅっと引き締まっている。ゼッケンの後ろ姿はこれまでにない感情を吐露した男の背中だった。ずんずんと早足で体育館へと遠ざかるその背へと手が伸びる。だが、言葉が出てこない。なにを言えばいいのか分からない。
山宮の姿が消えると朔也は涙を拭い、立ち上がって外出届の紙を丁寧に広げた。
病院へ行こう。卒業式までどうするかは、顧問の先生や部員の皆と考えればいい。病院から帰ってくれば、山宮になんて伝えればいいのかも分かるはずだ。
もう一度目蓋をこすると、朔也は職員室へしっかりと歩き出した。
病院から学校に戻ると夕日の眩しい時間になっていた。担任に戻ったことを伝え、職員室を出てまっすぐ書道室へ向かう。だいだい色に染まる廊下や階段を歩くと、上履きがリノリウムの床の上でぺたぺたと足音を立てた。部活に精を出す生徒の声が鉄筋の校舎内に反響する。
朔也は廊下突き当たりの書道室まで来て、足を止めた。カーディガンの襟に留めていたピンで前髪をびしっと留め、よし、と自らを叱咤して扉を開ける。ガラッという大きな音とともに声を出した。
「遅くなりました! 本日もよろし」
「折原君! 大丈夫⁉」
朔也の言葉を遮って真っ先に駆け寄ってきたのは顧問だった。テーピングを巻いた朔也の手をとり、眉を寄せる。
「体育の時間に怪我したって聞いたけど。お医者さんはなんだって?」
心配そうにこちらを見上げた顧問の後ろで、今井を含む部員が皆一同に筆を持つ手を止めて息を呑んでいた。
「──すみません!」
次の瞬間、朔也は頭を下げた。
「すみませんでした! 自分の不注意で、先生や部員全員にご心配とご迷惑をおかけすることになってしまい、本当に申し訳ありません! 本当に……いつも役立たずで」
朔也の手をとっていた顧問がぎゅっと手に力を込めた。それに顔をあげると、顧問が心配そうな顔つきで口を開く。
「お医者さんはなんて? どれくらいで治るって?」
「……あ、ええと、軽度の突き指で……アイシングと自分でできるリハビリをやれば、一週間くらいで治ると言われました」
朔也の答えに書道室内がわっと沸きかえった。
「よかった、本当によかった!」
「折原君、皆心配してたんだからね」
「今井ちゃん泣かないで」
「朔、ちゃんとリハビリしてよ?」
いつも叱咤を飛ばす厳しい顧問が温かい手で朔也の右手を握った。
「全員でいいパフォーマンスにしよう! 練習頑張ろう!」
「……すみません」
顧問の言葉や皆の笑顔に涙が溢れた。慌てて左腕で押さえると、カーディガンの毛がちくちくと顔を刺す。
「おれ、すみません、こんなことで、泣くとか、恥ずかしい、ホント、すみません」
すると後ろで部長がぷっと噴き出し、今度は書道室が笑い声に包まれた。
「泣いていいぞ~先輩たちがよしよししてあげる」
「今日決めたところを話そう」
「うん、パフォーマンスの話をしよう。涙拭いてさ! ね!」
涙腺が壊れたようにとめどなく涙が流れる。だが、それは悲しいからではない。嬉しいからだ。
山宮の言う通りだ。皆が支えてくれる。おれは一人じゃなかった。書道パフォーマンスは、全員の心を合わせるものなんだ。部活を超えて、山宮も一緒に。
気づかぬうちに朔也は何度もありがとうございますと繰り返していた。