私は立ち上がり、ケツをパンパンと
長閑のどかな田園風景である。段々畑に、木製の小屋。あちらを見れば牛が繋がれており、こちらを見れば渋柿が干してある。
私は、
いやぁ、世界の異変も来る所まで来た感があった。
悪霊に祟られるとか、狂人に殺されかけるとか、挙句に念力が使えるようになったとか、そこまではまぁ、判らないでもない。判らないけど。
しかし。
急に時空を越えたテレポートをしてしまうのは流石に一線を超えており、とても現実が嘘臭く思えてきたというか、悪い夢でも見てるのではないかと
――それにしても。
これからどうすれば良いのだ。
周りには畑と牛と緑しかない。一応道はあるが舗装されてはいない。でも、道や牛が存在するという事は恐らく人もどこかに居るのであろう。情報収集。まずこれが大事。ヨホホ。
空元気を出すと私は道なりに歩き始めた。お日様が高いが今は昼頃だろうか。お腹も空いている。
とぼとぼと畦道めいた土の上を歩く。
私、加納吉次郎。世界が異変を起こし始めてから、こんな目に遭ってばかりである。
十分くらい歩き続けると、木製の小さい小屋だか住宅だかよく分からん建物が見えた。誰か居ねぇかなぁと入口の方に回ってみた。
居た。
入口の前には狭い畑があり、よく巻いたキャベツが実っていた。そして、キャベツに向かってしゃがみながら一人の老婆がキョトンと私の方を見ていた。
「あ、あー、こんにちは」
私が挨拶をすると、老婆は、はあ、と会釈をした。
とりあえず、ここがどこであるかを訊きたい。が、タイムスリップだかテレポートだかをしてこの地にたどり着き、勝手が判らないので教えて下さい。等と正直に言うと、多分、少し頭のおかしい人扱いされる事は必然であり、下手をすると官憲を呼ばれるかもしれないので、私は濁せるだけ濁して、端的に訊きたい事だけを訊く事にした。
「道に迷ってしまいまして。申し訳ありませんがこの辺りはどの地域になるんでしょうか?」
「どの地域って――ここ◼️◼️区だけど、あんた」
私は押し黙った。
このババ、いや、老婆は確かに今、「ここは◼️◼️区である」と申された。
そして、奇遇にも私の住まうアパートがある場所も◼️◼️区である。一応日本一の都会の端くれではあるので、このような田園風景が広がっている場所は無いはずだ。
あ。
私は脳内でポンと手を叩いた。
考えてみれば、日本は広いのである。何も◼️◼️区という地名が私の居住地だけという訳でもあるまい。私が知らないだけで、青森県◼️◼️区とか、佐賀県◼️◼️区とか、フィラデルフィア洲◼️◼️区なども存在するのかもしれない。にも関わらず私は勝手に老婆を疑ってしまったのだ。
私は努めて笑顔を作った。
「すみません、えっと、ここは何県の◼️◼️区なんですか?」
「は!? 何県って。いやいや、ここは◼️◼️都の◼️◼️区だよ、あんた」
私は再び押し黙った。
◼️◼️都◼️◼️区。これは、私が住まう地区である、にも関わらず、聞いた事も見た事も無い田園風景が広がっている。
――その途端。
私の自由闊達な脳みそが高速回転を始めた。
そして、私という主体に対し、まず落ち着く事。続いて「時」を訊け。と言上してきたのである――そうだ、私はタイムスリップをしてきたのであった。
「あのう」私は老婆に再三すみませんが――と謝りつつ、そして恐る恐る訊いた。「今、西暦何年ですか?」
老婆は押し黙った。
それもそうだろう。多分私の事を少し頭のおかしい人だと思い、身の危険と私の正気度数を判断しているのだ。しょうがないので私はヨホヨホと愛想で笑っていた。
「――今ぁ? 西暦は二千と百二十五年だけど」
沈黙ののち、老婆は少し慎重にそう言った。
西暦二千百二十五年。
ふーむ。こいつはしてやられたなぁ。と思った。
老婆が冗談を言っているのでない限り、私は百年ほど未来にやってきてしまった事になる。そして、百年後の私の居住区は、田園になっており、老婆がキャベツを収穫している。
唖然としたというか憮然としたというか、ひたすらに虚無が私の背後から湧いて湧いて止まらない。
百年後の未来。
私はエスエフに疎いので偉そうな事は言えないが、百年後の未来、というと、こんな長閑な田園風景ではなくもう少し、こう、捻った演出があっても良かったのではなかろうか。何もサプライズを行なえと申しているのではない。せめて、車が空を飛んでいるとか、民草が銀色の全身タイツを装着しているとか、その程度で良かったのだ。何時だってアーバンで格好良い未来像は何となく私の中にはあった。
でも現実は田園風景である。
何で田園風景なんだよ。
――あっ。
私は、この疑問にこそ現状を打破する『鍵』がある気がした。そうだ、そもそも何でビル群やショップや舗装道路が無くなってこんな事になっているのか――。
そして、この疑問を現在ぶつけられる相手は、目の前で私をいぶかしんで見ているこの老婆しか居ない。
「あの」
「何だい、あんた」
「歴史の事を訊きたいのですが」
「歴史ぃ?」
「私、実は考古学者でして、ここら辺の歴史を研究・分析しているのです」
「はぁ」
「例えば百年前――ここら辺はどうだったのか、など知りたくて」
そう言われてもあたしゃまだ八十三歳だからねえ、と言いながら老婆は立ち上がった。
「百年前なんてあたしゃまだ産まれてないけど、あんた。その時代って混沌期の最後の方だろ? ちょうどこの国から、いやさ、世界から混沌が消えた時代だわね、あんた。この地域もそりゃ混沌が消えて長閑になってねぇ」
「混沌期」
「あんたも知ってるだろ。学校で習わなかった? 世界が混沌に包まれて、やがてすべての混沌が消えて、世界は静かで平和になりました。って」
「――はあ」
「うちの祖父が言ってたには百年前はそりゃあ混沌としてたらしくてさ、世界は複雑、資本の肥大化による競争、手続きは色々面倒臭い、挙句の果てに人間は争い事をするって。あんた」
「では、今は――」
「いや今はも何もあんたも知ってるでしょ」そう言って老婆はホッホッと笑った。「混沌が消えてただ自然と暮らせば良い。調和。緑と共に生きていこうって、誰からともなく言い始めて。今はもう混沌なんて探してもありゃしないよ。知ってるだろ? 何でそんな事を訊いてくるのかよう分からんけど」
私は絶句していた。
RPGのモブ村人のように説明的口調で説明をしてくれたこの老婆によると、ここは私が居た時代・場所の百年後であり、世界からは混沌が失われ、人々は豊かな自然と共に暮らす事を選び、キャベツを収穫しているのだ。そして、私が居た時代は「混沌期」と呼ばれており、やがて混沌はクライマックスに達して消えるらしい。
「さっきから面白い顔して面白い事を訊いてくるけど、あんた。考古学者にゃ見えないよ、あんた。一体あんたは何なのさ」
何なのさ。と言われてもクソ正直に念力だのタイムスリップだのを説明する訳にも行かず、私は口ごもる。
「いえいえ、私は通りすがりの考古学者で。決して怪しいものではありません」
「ほーん。まぁあんたが誰でもええけどね。キャベツひとつ持っていくかい」
「はあ――」
老婆は収穫したキャベツをひとつ持ち上げると、私に手渡した。ずっしりとしており、葉がよく巻いていた。
「ありがとうございます。私は塩キャベツを酒のつまみにするのが大変好きで――」
老婆はキョトンとし、続いてクェックエッと笑った。
「面白い冗談を言うねぇ、あんた。酒なんてあたしゃ見た事もないよ。あんな混沌の産物は混沌期に全部消滅したはずだよ。あんた考古学者なのに酒の存在を信じてるって、面白いねぇ」
――えっ。
この時代には酒も無いのか。
しかも混沌の産物として消えたと。
もしかすると、消滅した混沌とは、何か人として大切なものや、娯楽や、しあわせの一部をも指しているのではないのだろうか。ふとそう思った。今に限って、この勘は当たっているという確信があった。何せ現在、私の自由闊達な脳みそがフル回転してこの答えを提案してきている。
しかし、そう仮定したとして、どうすれば良いのだ。
この未来世界の田園で浮浪者として暮らすか、あの私が居た時代へ戻るか。
――戻りたい。
百年前に戻って、どうにかせねば。
――どうにか?
何でどうにかする必要がある?
この未来世界の人々は長閑でしあわせそうではないか。
ただ、この世界にあまりにも異質を感じる私が存在するのみである。
それに、戻ろうにも戻る方法が――。
あった。
もう一度、あのへっぴり腰の特撮ヒーローが宇宙に戻るようなポーズを取って、念力を込めればまたあの公園に戻れるのではないのだろうか。多分戻れる。戻りたい。何だかこれ以上この未来世界に居てはいけない気がする。
――私は。
過去世界からやってきた、失われた混沌そのものだからだ。
そして、私はキャベツをいただいたお礼を言うと、キャベツに、じゃなかった、老婆に別れを告げ、トボトボと道を歩いた。牛が鳴いている。蝉も鳴いている。
とりあえず段々畑を超えて雑然とした空き地に着いた。ここらで良いだろう。
私は片手にキャベツを抱え、腰を落とし、もう片手を上げた。
「ふんっ!」
念力を臀部に籠める。来た。身体が少し浮いた。
あの時代へ、ここから百年前へと戻れ。
身体がブレ始め、視界がぐわんぐわんと揺れ始めた。
うおおおおお。
戻るぞ戻るぞ戻るぞ。
世界が暗転し、続いて七色に光った。そして私は片手にキャベツを抱えたまま時空の狭間を飛んでいた。時空の狭間というのは面白いもので、光ったり暗くなったりと忙しい。帰ったら塩キャベツ、つまみてぇなあ。
シュゴオオオと空間が収束する。
「あ痛ッ!」
私はまた背中からどこかへ落ちた。
上方には青空が広がっており、私は上半身を起こす。
ガッツポーズを取った。ここはあの公園である。しかも砂場に落下していた。私は恐らく戻ってこれたのだ。
周囲を見渡すが誰も居ない。健さんの姿も無い。
私はキャベツを拾うと、ある決意を胸に立ち上がり、ケツと背中の砂をパンパンと払った。